災厄≒日常
書いてるうちに知らない間に主人公組が甘さを滲ませてくるので、ジャンル変更しようかと真剣に悩む今日この頃。
《Harbest》には一日三回、フィーバータイムと呼ばれる時間帯が存在する。
早朝・昼前・夕方とあるフィーバータイムはその他の時間帯に比べて圧倒的に客数が多く、店内の様々なことがめまぐるしく回る。そして中でも通勤・通学客を狙った朝のフィーバータイムは桁違いの忙しさなのだ。
どのくらいの忙しさかというと、高速レジ打ちを続けすぎた春穂の指が今まさにビシィッと攣るほど。
「━━っ~~~~!!」
客・商・売! 絶対的な言葉を心の中で唱えて、上げそうになった声を捻り潰す。今春穂が会計をしている客がフィーバータイム中最後と思われるので、どうにか根性で指を動かした。気分はマラソンのゴール前だ。
「ありがとうございましたー」
若干瞳が潤んだまま接客する春穂を、客は怪訝な顔で見ていた。
ふー、と息を吐いて、春穂は未だ細かく震えている右手を振る。脚の攣りなら柔軟でなんとかなるが、指の攣りはどうやって治すのかわからないのでとりあえずグーパーを繰り返しておく。
これでひとまず客足は途切れた。開店から三時間、厨房・店内ともに一段落の頃合いである。
がらがらになった商品棚をぼんやり眺めて、ちょっと整頓でもしようかとレジのコーナーを出ようとすると、丁度のタイミングで奥から蘭子が顔を出した。
「春穂ちゃん、奥にお茶置いてあるから、りっくんも呼んで休憩入ってね」
「あ、はーい」
「━━熱っつ!!」
ガシャンガタガタガタッ!
春穂の返事に被せるようにして響いたのは、間違えようもなく律希の声だ。
すわ何事かと飛び上がった春穂と対照的に、蘭子はいつも通りほんわかしたまま「あらあら」と手を頬に当てた。
「また火傷かしらねぇ。春穂ちゃん、休憩室の棚に救急箱あるから、りっくんの手当てしてあげて。冷やすものなら冷凍庫にあるしね」
「わ、わかりました!」
弾かれたように駆け出し、厨房に入る。
探し人はオーブンの前でうずくまり、右腕を押さえていた。
「律希さん、大丈夫ですか!?」
「ん、ああ……大丈夫……だと思う。あー、びっくりした……」
「とにかく手当てしますから、先に休憩室行っててください! た、立てますか?」
「それは流石に大丈夫。うっかり天板が腕に当たっただけだから。商品落ちてなかったらいいんだけど……」
「落ちてないですグッジョブです、それより早く行く!」
「……はい」
律希が休憩室に行ったのを横目に見ながら、食材用とは別の小さな冷凍庫を漁る。柔らかめの保冷剤を一つ取って、春穂も休憩室に走った。
「とりあえずこれ当てといてください」
ポケットから出したハンカチで保冷剤をくるんで律希に渡し、春穂は救急箱を取る。火傷の手当てに使うのって何だっけなぁと遠い記憶を捜索してみるも、いまいち思い出せない。
まあ律希さんに訊けばいいか、と抱えた救急箱を机に置き、春穂は椅子を引っ張ってきて律希の向かいに座った。
火傷したのは腕の内側らしい。保冷剤をどけると、天板の縁の高さとぴったり合うであろう赤い痕がぴしりと走っていた。早速水膨れになりかけている。
見るだけで痛々しい傷に思わず顔をしかめると、とん、と眉間に軽い衝撃が来た。
「皺よってる」
律希が指で小突いたのだと気付くまでに、数秒。傷から顔を上げれば、律希が困ったように苦笑している。
春穂は「そりゃ皺も寄りますよ」と唇を尖らせた。
「まあ火傷なんてしょっちゅうだから、あんま気にしないで」
「気にします。しょっちゅうでも痛いものは痛いでしょう? ……いつも何使ってますか? あたし火傷は滅多にしないのでよくわからなくて」
「その白い蓋の軟膏を塗って、大きめの絆創膏でカバー、かな。いつも自分で適当にやってるから、ちょくちょく痕残ったりするんだよね」
笑い事じゃないんだけどなぁ、という思いを存分に込めて律希を見上げると、気持ちは過不足なく伝わったようだ。じっとりした春穂の視線を避けるように、彼はそっと目を逸らした。
預けてもらった腕には、確かにあちこちに火傷と思しき痕があった。
言われた通りに軟膏を開け、適量を指に取って赤い線に這わせる。さっきまで冷やしていたのに、炎症を起こしているせいかじんわりと熱い。これも痕になるかな、と春穂の顔はまた険しくなる。
「痛くないですか?」
「うん。ひんやりしてて気持ちいい」
「そういう成分も入ってるみたいですね。あたしも指が冷たい」
大判絆創膏のフィルムを剥がし、中央のガーゼを当てて丁寧に貼る。これでひとまずの処置は終了だ。
軟膏でべたつく指を洗い、ようやっと本当に休憩である。
冷たい麦茶を一口含んで、春穂は吐息と共に苦いぼやきをこぼした。
「あたしは指が攣るし、律希さんは火傷するし……今日は厄日なんでしょうか」
「指攣ったんだ」
「我ながら、ピアニスト顔負けの高速レジ打ちでした」
「お疲れ様。……まあ俺の場合、新作が無事に仕上がって気が抜けたのもあるからね。それでもし落としてたら元も子もないところだったんだけど」
「え、新作ですか?」
「ああ、うん。丁度休憩時間だし、食べてみる?」
「ほわぁ、食べたいです!」
途端に目をきらきら輝かせる春穂に律希はくすりと笑い、グレージュの猫っ毛を一撫でしてから厨房へと消えた。
待つことしばし。何やらくわえて戻ってきた律希は、持っていたその片割れを春穂の口に突っ込んだ。
「ほれがひんはくへふは?」
「そ。今年の春の新作『ストロベリー・スパンダワー』でございます」
スパンダワーとは、デンマークの代表的なペストリー(主に油脂を多く含んだパイ状の生地を使用した菓子パン)だ。名前の由来は、生地を封筒のように折る作り方から封筒を意味する『スパンダワー』という名になったとも、伝わってきたのがドイツ近くの街からで、そこの地名が『スパンダウ』だったからだとも言われている。
スパンダワーの基本的な構造は、マジパンペーストーー要するにアーモンドと砂糖のペーストを中央に絞り入れて四隅を折り、その上にカスタードクリームを絞ってアーモンドスライスを乗せる、というものだ。そして更にシュガーグラス(アイシング)をかけるのだが、これは店舗によってリング状だったりジグザグだったりと様々である。
春穂は麦茶のコップを置き、口に突っ込まれたスパンダワーを手に取る。かじった跡はクリーム部分に到達していないので、改めてもう一口。
「……! 甘酸っぱい、おいしい!」
一番上の淡いピンク色のクリームは、商品名の通りイチゴのカスタードクリームだ。ぽってりとした卵風味の中に一筋の爽やかさがプラスされていて、口の中がさっぱりする。
まじまじと断面を見てみると、ピンク色のクリームの他にもう一種類クリームが入っている。
「二種類のクリームなんですね」
「本来はアーモンドのペーストとカスタードなんだけどね。今回はイチゴってことで、何が合うかと模索した結果ヨーグルトクリームを入れております」
「あ、このさっぱりはヨーグルトもあったのか。女の子が好きそうな感じのパンですね」
「そう、ターゲットは若い女性だね。この後もう少し冷ましたらアイシングして、昼過ぎに店に出す予定」
「じゃあ真ん中のテーブルにスペース空けときますね。力入れて売らなきゃ!」
機嫌良く言い放ち、春穂は手の中の残りにぱくついた。ピンク色のクリームが入ったスパンダワーは、目にも春らしくて可愛らしい。
……でもこれ、見た目のインパクトがちょっと小さい、かも?
ふ、と脳裏をよぎった微かな問題点。ほんわりとした柔らかい色合いは、可愛いけれど少し地味だ。
最近はカメラ映えで商品を買う人も多い、というのはどこの業界も共通認識であるところだから、もう少し技を加えてみた方がいいのかもしれない。
春穂はしばし考えて、そうだと手鼓を打った。
「あの、律希さん。アイシングってどんな感じでかけるつもりですか?」
「ん? 周りの生地のところをくるーっと一周する感じでかけようかと」
「だったら、その途中でちょこっと細工を入れることはできませんか?」
「細工? ってどんな」
「こう、アイシングで小さなハートを書いたり、蝶々を書いたりって……女の子のハートをがっちりゲット! みたいな模様を入れるんです。そうしたら、可愛さが加算されて購買意欲を掻き立てるんじゃないかと思って……」
徐々に言葉が尻すぼみになっていくのは、余計なこと言ったかなという不安が湧き上がってきたからだ。心臓が急に靄にでも包まれたかのように、じわりと息苦しくなる。
しかし。そんな嫌な心地は、すぐにわしゃわしゃとかき消されることとなる。
「いいね、それ」
「……ほんとですか」
「うん。なーんかパッとしないなぁとは確かに思ってたし。そうだね、色付きのアイシングとかもいいかもな……とりあえず、やってみるよ。ありがと、春穂ちゃん」
「お役に立てたなら、幸いです」
にへ、と春穂の口元が緩む。頭を撫でてくれる手はいつもと同じく心地良い。
厄日撤回、色々あったけれど今日も相変わらずほのぼのした日だ。
「ああそうだ、春穂ちゃん、急なんだけど今日の閉店後って丸々空いてる?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。じゃあ店仕舞いしたら一緒に来てくれない? 案内したいところがあるから」
「わかりました。……でも律希さん、今日も大学じゃないんですか?」
「今日はいいの。出席採るような授業もないしね」
閉店後ね、と念押しした律希に頷き、立ち上がる。何だかんだしているうちに、もう休憩も終いの時分だ。
案内したいところってどこだろう? 疑問と期待にそわそわしながら、春穂は律希に「ごちそうさまでした」と告げて店内へと戻った。
次回(以降)予告!
パン屋の話ですが、しばらく新しくパンは出てきません