塩気≒青い春
インフルより復活いたしましたm(__)m
ドアに付けられたベルが、チリンチリンと可憐な音を鳴らす。
焼きたてバゲットを金属製のカゴに入れていた春穂は脊髄反射で姿勢を正し、本日最初のお客様を明るく迎えた。
「いらっしゃいませ」
「……え? ……ああ」
目が合った瞬間に驚かれ、更に何か納得されたのは何故だろうか。怪訝に思って顔を見ると、━━わあ美形、と身も蓋もない感想が浮かんだ。
律希とはまた違う方向性の顔立ちで、やや陰のある美少年という感じだ。年の頃は春穂より少し若い、十代後半だろう。黒髪の直毛とやや切れ長の目は涼やかな印象を持たせる。
律希といい蘭子といいこの少年といい、ここ二週間、春穂の周囲の顔面偏差値がやたら高くなっている気がする。理由は謎だ。
とまあ、観察はこの辺にして。春穂は少年に軽く首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、すいません。あの、《Iberis》で食パンの予約入ってませんか?」
「ああ、少々お待ちください」
《Iberis》はうららロードにあるカフェで、《Harbest》の常連だ。店で出す山形食パンを四枚切りで三本分、予約して毎朝買いに来ている。いつもは眼鏡をかけたおばさまが来るのだが、彼は店員か何かだろうか。
小走りに厨房へ行き、最寄りの棚を確認する。予約のパンはここに置いてあるはずだ。
「……あれ?」
探してしかし、《Iberis》と付箋の付いたものは見あたらない。
はて、と春穂は辺りを見渡して、近くにいた律希を捕まえた。
「律希さん、《Iberis》の予約の食パンが無いんですけど……」
「《Iberis》? ━━あ、大丈夫、ちゃんとあるよ。ちょっと待ってて、俺が店内まで持ってくから」
「ありがとうございます」
再び急いで店内に戻って、少年に今持って来る旨を伝える。
程なくしてやって来た律希を見て、春穂はぎょっと目を剥いた。
律希が番重に入れて持ってきたのは、いつもの山形食パン四枚切りを三本分と━━目測で十本はある、角食パンの山だった。
日本において現在、食パンは二種類ある。
一つは山形食パン、イギリスパンとも呼ばれるもの。直方体から上面を外した形の焼型を用い、上部を解放して膨らませるタイプの食パンだ。起源としては一五〇〇年辺り、開拓者のためにこのパンは生まれた。運搬しやすく一度に大勢の人に分けることができるように作られたと言われている。
もう一つは、日本ではこちらの方が一般的かもしれない角食パン。焼型に蓋をして角形に焼くタイプの食パンだ。前者がイギリス出身なのに対して、こちらは日本生まれである。
そもそも『食パン』という言葉が生まれたのは何を隠そう日本で、主食としての『食事用パン』という意の造語であり、海外では使われない。食パンは日本で発達したパン文化の例の一つなのだ。
━━あまりの量に唖然とする春穂の傍らで、パンの山は律希から少年に渡された。身長差のせいで見上げる形になる春穂には、少年の顔は上半分しか見えない。
「律希さん、この人が例の?」
「ああ。春穂ちゃん、こいつは《Iberis》の息子で、三上翔琉。今は高……三、かな」
「初めまして、どうぞよろしく」
「佐々木春穂です。こちらこそよろしく」
それにしても、と春穂は小首を傾げた。
「どうしてそんな大量の角食パンを?」
「うち、月一回だけ限定メニューでパングラタン出してるんです。外側がカッチリしてる方が扱いやすいし安定するので」
「あ、なるほど」
蓋をすることで上部のクラスト━━いわゆるパンの耳が左右・下面と同様になる角食パンは、確かに器とするには適している。
ただでさえ絶品の《Harbest》のパンと、グラタンのコラボである。さぞ美味しいだろう。いつか食べよう、と春穂は己の脳にパングラタンの文字を刻んだ。
その間によいせ、と番重を持ち直した翔琉が、ふと思い立ったように律希に声をかける。
「律希さん、今日もう弥夕姉来た?」
「いや? ベル鳴ったの一回だけだったから、多分来てない。ね、春穂ちゃん」
「はい。三上……くんが最初のお客さんです」
翔琉でいいですよ、と言われたのでこれ以降呼び方は翔琉くんになった。
そして弥夕とは一体どなたであろうか。
表情から春穂の疑問を読み取ったのか、律希が解説してくれた。
「平川弥夕。《Iberis》の隣にお茶の専門店があって、そこの娘さんだよ」
「俺とは幼なじみってやつです」
「へえ」
なんだか美女な予感がする。
「てか、隣なんだから何かあるんだったら直接行けばいいだろ? 何でわざわざここに」
「いや、行ってみたらもう出かけたって言われたから。こっち来たかなって思って……今日一緒に学校行くんだけど」
「はあ、また何で」
「そもそも今日ってまだ春休みじゃ?」
「生徒会主催でバザーがあるから駆り出された。弥夕姉は茶道部の手伝いあるし」
「忙しいねー」
春穂の高校の頃と言えば、毎日部活で埋め尽くされていたような気がする。
毎日くたくたになるまで練習して練習して、お腹と背中の皮がくっつくかというくらいにお腹が空いて、がっつり食べては風呂に入って泥のように眠る。今思えば何だかんだで充実した日々だった。
律希や蘭子はよく「幸せそうに食べる」と春穂を評するが、その原点は高校時代にあると春穂は思う。あの頃は本当に、何か食べないとそろそろ死ぬかもしれないというまで練習に打ち込んだので、家に帰ってご飯にありつく瞬間がこの上なく幸福だった。物理的にも精神的にも満たされる感覚が改めて大好きになって、それが今まで続く春穂の根元となっているのだ。
更にその食事がたまらなく美味しかったりしたら、もう笑み崩れるなという方が無理な話だ。そして《Harbest》はパンも何もかも美味しい。幸せそうなのは当然なのである。
あの頃は食べても食べてもすぱっと消費したよなぁと春穂が若干遠い目をしていると、再びドアベルが鳴った。
「あ、いらっしゃいませ」
ぴくんと気を引き締めて笑み、本日二人目の客を迎える。
「あ、この子が新入りさん?」
ガラスで出来た鈴を転がしたような、澄んだ中に柔らかい親しみの混じる声が応えた。
淡い黄緑色の着物に、濃いピンクと白で太めのストライプを染めた帯を重ねた女性。艶やかな黒髪はセミロングの長さで、軽く結ったところにとんぼ玉の簪が光っている。
言わずもがな、美女である。
予感は的中かもしれない。
「弥夕姉」
案の定、翔琉がその名を呼んだ。
声に載ったごく少量の喜色と表情の変化に、春穂は何となく察するところを察した。
「あ、翔琉。仕入れ?」
「うん。弥夕姉どこ行ってたの? さっきそっち行ったら居なかったんだけど」
「部員の子たちに差し入れ買いに行ってたのよ。この前見に行ったら春の新作で苺のムース出てたから、予約してたの。で、甘いものばっかもあれかなぁって思ってここに」
さっくり顛末を話した弥夕は、「それより」と言って改めて春穂を見た。
「うららロードに新しく人が入るなんて、律希くん以来だから数年ぶりね。初めまして」
「初めまして、佐々木春穂と申します」
「平川弥夕です。よろしく」
「よろしくお願いします」
弥夕のやや吊り上がった目が、嬉しそうに細まる。異性ならばキューピッドが舞い降りるレベル、同性でもときめく笑みである。春穂も例外なく胸キュンした。
つられて春穂もほわんと笑うと、大きな手に頭を撫でられた。律希だ。
《Harbest》に就職して以来、少なくとも一日二回はこうして頭を撫でられるのが春穂の日課となっている。ふと近くにいた時だったりご飯を食べている時だったり大学に行く時だったりと状況は様々だが、心地いいので基本されるがままの春穂である。
「俺、そろそろ厨房戻るね」
「あ、はい。ありがとうございました」
今回は戻る合図だったようだ。
最後にわしゃわしゃ、ぽん。髪が乱れない程度でとどめてくれるのもいつものことだ。
……目の前で弥夕と翔琉がきょとんとしているのは一体どうしたのだろうか。流石は幼なじみ、妙にそっくりな表情の二人だ。
「どうかしましたか?」
「……ううん、大丈夫。何でもない」
「気にしないでください。あと弥夕姉、もうそろそろ出ないとやばい時間じゃない?」
「え、わあほんとだ! 翔琉、それ持って帰るついでに、ウチ寄って冷蔵庫からムース取ってきてくれない? 保冷バッグがテーブルの上にあるから、それに突っ込んで」
「了解」
「ねえ春穂ちゃん、何かこう、塩気のあるものでおすすめとかない? パンでも何でもいいから」
「塩気のあるもの、ですか?」
春穂は顎に手を当て、数秒考えた。
《Harbest》の中で塩気があるものと言えば、一般にお総菜パンと呼ばれる類のパンが真っ先に浮かぶ。しかし話によればこれは茶道部への差し入れ、更には既に苺のムースもあるのだ。運動部ならまだしも、バリバリの文化部にお総菜パンとムースの組み合わせはきついのではなかろうか。なにせお総菜パンはお腹がお腹が膨れるパンの代名詞的存在だ。
ならば他に何かと考えて、春穂は目についた金属製のカゴの中身を思い出す。
そうだ。━━《Harbest》には、お総菜パンよりもっと単純な『塩気』があった。
「じゃあ、『しょスク』なんていかがでしょう?」
「『しょスク』? そんなのあったっけ」
「はい」
ラスク、というものがある。
パンを二度焼きしたビスケットの一種で、元のパンが食パンだったりバゲットだったり、また外に砂糖がまぶしてあったりチョコがかかっていたりと形態は実に様々である。軽い食感が心地いい、有名なお菓子だ。
ベーカリー《Harbest》にも、もちろんラスクは存在する。━━いささか変わり種ではあるのだが。
「しょっぱいラスクで、『しょスク』って言うんです」
そう。
砂糖の代わりに塩をふったラスクである。
蘭子に曰く、この品は全くの偶然から生まれたらしい。
ある日、昨日の売れ残りのパンでラスクでも作ろう思った蘭子。しかし作っている途中に急な来客があり慌てて作業していたところ、二度焼きも終わった最後の仕上げでやらかしたのだという。
塩と砂糖を間違えるという、ある意味ベタなミスを。
しかし禍福はあざなえる縄のごとし。試しにしょっぱくなったラスクを食べてみれば、思いの外いけたそうだ。
もしや商品化まで持っていけるのでは、と考えた蘭子は試行錯誤を繰り返し、やがて生まれたのが『しょスク』である。
完成版『しょスク』は二度焼きする際にバターをたっぷりと塗り、塩は適度なまろやかさが売りのものを用いてうまく塩味を調和させている。おやつからおつまみまで幅広くこなす、ラスク界のオールラウンダーが『しょスク』なのだ。
春穂としてはビールのお供に最適だと思う。自主禁酒中だけれど。
春穂はレジの側に置いてある『しょスク』を一袋手に取り、弥夕に見せた。塩の細かな結晶が光をちらちら反射して、ちょっとしたシャンデリアのようだ。
「これなら忙しくてもつまめるし、適度に軽いので差し入れには向いてると思います」
「いいわね。じゃあこれ二袋お願い」
「かしこまりました。えっと、二袋で四三二円になります」
この二週間で必死に全商品の金額を覚えたので、手っとり早く暗算で値段を言ってからレジへ駆ける。
もう一袋『しょスク』を取って、まとめて《Harbest》のロゴ入りの袋に詰める。手慣れた速さでレジを打ち、ものの三十秒程度で会計は済んだ。
「またねー」と手を振って店を後にした弥夕に手を振り返し、翔琉と合流したのを遠目に見てから、春穂は胸の中でひっそりと好奇心を疼かせた。
恋愛事にまでお節介を発動させる気はさらさらないが、やはり気になってしまうのは仕方ないだろう。一応は春穂も年頃の娘なのだ。……まあ、そういう方面の春は久しく来ていないけれども。
ちょっとにやっとするつもりが、うっかり自分自身をぐさっとしてしまった春穂は、しばし遠い目になったのだった。
感想・評価などいただけると嬉しいです。
次回は明後日……を、目標にしております。熱で雑念がどっか行ったのか、スピードは快調ですのでがんばります
7月1日、内容を一部改敲致しました。