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もちもち≒開店

 ふあぁと欠伸した口に、早朝の冷気が流れ込む。

 朝焼けがずっと奥の教会を照らすのは何度見ても幻想的で、騒音のない時分なのでうっすらと波の音まで聞こえるのが実に趣深い。中学で習った枕草子の冒頭で書かれていた景色はこんなのだったのかな、と春穂はチョーク片手に思った。


 ━━現在時刻、午前五時半。《Harbest》は絶賛開店作業中である。


「春穂ちゃん、朝ご飯できたわよー」

「あ、今行きまーす」


 店の前にある黒板に書き連ねていたのは、各パンの焼き上がる予定時刻と、今日の日替わりサンドイッチの具の内訳だ。

 卵、ハムなどの定番に加えて存在する《Harbest》特製日替わりサンドイッチは、主に奥さんこと滝川蘭子(たきがわ らんこ)の気まぐれによって具が決まる。ちなみに今日はベーコン、レタス、トマトのBLTサンドだ。

 春穂はチョークを置き、手を軽く払って店内に戻った。


 四月始め、春穂が《Harbest》に迎えられてから二週間と少しが経った。

 人手不足ということで、春穂は例のほんわか面接を受けた翌日からしゃかりきに働いていた。


 噂には聞いていたが、パン屋の朝というのは実に早い。《Harbest》の開店時刻は七時なので、準備諸々含めて春穂の出勤時刻は五時となっている。━━ぶっちゃけた話、それはそれは眠い。春という季節のせいも相まって、働き始めた二週間前はアラーム五段構えでどうにかこうにか起きたものだ。


 なお、パン職人である律希は、仕込みがあるため三時起き三時半出勤らしい。それでいて毎朝「おはよ」と気力に満ちた爽やか笑顔を向けてくれるのだから、初めはこの人サイボーグか? と割と本気で思った。


 手を洗って小走りに入った厨房奥の休憩室で、サイボーグ、否、律希はテーブルに向かって難しい顔をしていた。


「律希さん? 大学の課題ですか?」

「ああ、うん。昨日受けた講義のレポート、今日中にまとめなきゃいけなくて。仕込みも一段落ついたし」


 そう、律希は大学生の傍らでパン職人として働いているのだ。街の大学の夜間に通っている彼は春穂より一つ上の二十一歳で、同年代でのその恐るべき活動量も春穂にサイボーグかと思わせた所以である。

 時折疲れた素振りを見せるのでちゃんと人間だと認識した今、いつか過労で倒れやしまいかとお節介気質の春穂は密かにヒヤヒヤしているのだが。


「まあとりあえず、朝ご飯ですよ律希さん」

「ん。今日の朝飯何だろうね」

「昨日が具だくさんピザトーストでしたからねぇ。美味しかった、あれ」

「うん、ほわんほわんしながら食ってたね」


 微笑ましいと言わんばかりの律希の表情に、春穂は唇を尖らせた。ほわんほわんって、そんなに浮かれた雰囲気になっていただろうか。


「まかないの美味しさだけでもう、《Harbest》に務めて良かったって思いますもん。人類にとって美味しいご飯の時間は至福のひとときです」

「それは同感」

「はいお待たせー」


 元気に入ってきた蘭子がテーブルに皿を二枚置く。

 皿の上に載っているのは、円形をした艶めくパン━━ベーグルのサンドイッチだった。

 わあっ、と春穂は無声音で歓声を上げた。


 ドーナツにも似た輪っか状のパン、ベーグル。もっちりした独特の食感が特徴的なアメリカのパンだ。

 出身国に関しては様々な説があるが、元はヨーロッパと言われている。それがアメリカに伝わった要因が、ユダヤ人が迫害を受けたことだ。かつてユダヤ人の日曜日の朝食として食べられていたベーグルは、ユダヤ人が迫害を受けて東ヨーロッパから移住すると共にアメリカにもたらされた。一九〇〇年前後のことである。


 白い皿の上で鎮座するベーグルは二つ、それぞれポテトサラダとレタス、照り焼きチキンとレタスが挟まっている。ただでさえ蘭子特製のお総菜はことごとく美味しいのに、それが《Harbest》のパンに挟まっているのだからーー春穂にとっては天国で極楽がサンドされているようなものである。


 辛抱たまらず、春穂は素早くいただきますをしてチキンの方にかぶりついた。


「~~ほいひぃー……!」


 もちもちのベーグルと弾力のある鶏肉が口の中で暴動を起こしている。そこにレタスがシャキシャキ参戦して、肉の油をさっぱりした水気で濯いでくれる。

 照り焼きチキンというこってりなお総菜を受け止めきって輝かせてなお有り余るベーグルの存在感。もしベーグルが男の人だったらなんかモテそうだ、と春穂はその男前さに感嘆した。


 テーブルを挟んで明らかに律希が和んでいるのはいつものことなので、もう気にしないようにしている。


「ベーグルって何でこんなもちもちなんですかね」

「焼く前に一回湯にくぐらせるんだよ」

「お湯?」

「そ。最初に表面固めとくと焼き上げの時に内側が膨らめなくなるから、目が詰まってこんな感じになる」

「へえ」


 言われてみれば確かに、断面はみっちりと目が詰まっている。

 たかが一手間、されど一手間。その手間なくしてベーグルは男前にはなれないのだ。自分の歯の形に欠けたベーグルの断面を眺めて、お前も頑張ったんだなぁと春穂はしみじみ思った。


 ポテトサラダの方も当然美味しかった。蘭子の作るポテトサラダはリンゴとキュウリが標準装備で、肉食系から草食系までばっちこいなベーグルはやはり超イケメンである。

 ボリュームたっぷり噛み応えばっちり、朝から完全に満足した春穂であった。


 ぱちんと手を合わせて、空になった食器を拝む。


「ごちそうさまでした!」

「ごちそうさまでした」

「あたしテーブル拭いとくんで、律希さんは厨房戻っててください」

「ありがと。じゃあお言葉に甘えて」


 皿を重ねて、テーブルを布巾でささっと拭く。春穂たちと交代で店主夫妻が朝食をとるので、こうしておけば蘭子がまとめて食器を片づけてくれるのだ。


 時計を見るともう六時を過ぎている。店内の準備は残すところ商品の陳列だけだ。

 そろそろ身支度をする頃合いなので、春穂はロッカーを開けた。羽織っていたカーディガンを脱ぎ、ハンガーに吊っていたものを腰に巻く。髪も軽くまとめ直して、春穂は壁に立て掛けられている姿見を見た。


 シュシュで一つに括って横に流した猫っ毛に、いつも通りのごく薄い化粧。シミ一つない白いシャツとジーンズ、そしてその上にベージュのカフェエプロン(蘭子によるかわいい刺繍入り)をまとったこの姿が、《Harbest》の制服であり春穂の仕事ルックだ。

 本当なら四月の今頃はスーツで事務職に勤しんでたんだろうなぁと思うと、人生不思議なものである。この先スーツを着る機会などしばらく訪れないだろう。


 感慨にも似た思いを巡らせていると、ふと部屋の中に気配を感じた。

 振り向けば何と言うことはない、部屋に入ってきたのは《Harbest》店主━━パン職人にして蘭子の夫、滝川剛志(たきがわ つよし)である。


「お疲れさまです」

「……」


 いかにも厳めしく寡黙な壮年の男主人という風情で、こくん、と頷く剛志。


 ━━何度も言うように春穂は《Harbest》で働き始めて二週間だが、何故であろう未だに剛志の声を聞いたことがない。面接後に初めて挨拶をしたときも、今のようにこくりと頷くだけで終わった。

 もしや何かの病気か、それか気に入られていないのかと思ったのだが、蘭子曰くそんなことはないらしい。単に無口なだけだという。

「頑張って口説いてくれたのよ。ふふっ」とダダ甘の惚気が同時に湧いてきて、春穂が砂糖を吐くかと思ったのは別に知らなくてもいいことだ。


 春穂が第一声を聞ける日がいつ来るのかは、神のみぞ知ることである。


「春穂ちゃん、サンドイッチ並べてってー」

「あ、はーい!」


 勢い良く厨房に飛び込めば、オーブンから漂う香ばしい匂いが春穂の鼻先を掠める。緩んだ表情筋をぐっと引き締めて、春穂は作業に取りかかった。


 店内にパンの香りが満ち満ちた、午前七時。『Closed』の看板を、くるりと『Open』に裏返す。


 本日も、《Harbest》開店である。

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