面接≒看板娘!
帰宅してひとまずシャワーを浴びて何やかんやするうちに、あっと言う間に家を出る時間になった。余っていた履歴書を念のために携えて、着ていたセーターをクリーニングに出してから春穂は駅までの道を戻る。
服装は出る間際まで悩んで、結局スカートルックにした。シンプルな白のフレアスカートに明るめの色合いのブラウスを合わせ、派手すぎず小綺麗に。一つにまとめて横括りにした髪と相まって、仕上がりは清楚可憐な雰囲気になった。少なくとも『ちゃんとしてる』感は出ているだろう。
時刻を確認すると、九時二十分を過ぎたところだ。いつの間にかベージュ色の車体は目と鼻の先に見えている。
中を覗き込み、春穂はおずおずと声をかけた。
「こんにちはー」
彼は春穂を見ると、何故か瞳に瞬刻の驚きを浮かべて動きを止める。
僅かでも確かに生まれた間。はて、と春穂が小首を傾げると、彼ははっと我に返った。持っていた椅子を畳んで柔らかく笑む。
「お帰り。丁度今店閉めたところだよ」
「何かお手伝いできることありますか?」
「じゃあシートの片付け手伝ってもらっていい? 支柱に紐で括ってあるから、それ解いといて」
「はい」
春穂はせっせと紐を解き、傍らで彼が椅子と机を撤収する。春穂が目覚めたときに寝かされていた簡易ベンチも畳まれ、車に積み込まれた。
二人がかりでシートと支柱を片付けると、ついさっきまで店が展開していたとは思えないほどがらんとした空間ができあがる。最後に軽く箒をかけて、閉店作業は終了らしい。
言われるがままに車の助手席に座って、さて向かう先はどこだ。
車にまで乗っておいて今更だが、自分は初対面の男性である彼をあまりに信用しすぎではなかろうか。一抹の不安が湧いてきたところで、彼が車を発進させた。
「あの、本店ってどこにあるんですか?」
「ここから海の方にちょっと行くと、女子校あるでしょ? そこの近所にうららロードっていう……まあ商店街みたいなのがあって、その一角にあるんだ」
「女子校の近所の、パン屋さん。……あ、もしかすると、あたし、知ってるかもしれません」
彼の言う女子校は、間違いなく春穂の出身高校だ。小中高大ひっくるめ、この町━━綾深市に女子校は一校しかない。
高校時代、食べ盛りだった春穂は部活帰りにしょっちゅう買い食いをしていたのだ。特に高校の近くにあったパン屋さんは、帰宅ルートと重なることもあり、とある『出来事』により道を変えるまでは頻繁に訪れて舌鼓を打っていた。背景は大分霞んでいるが、きっとそこが《Harbest》なのだろう。
なるほどだから懐かしい味がしたのか。納得である。
「でも、その辺りにうららロードなんて名前があったのは知りませんでした」
「まあかなり知名度低いからね。出来たのが三十年くらい前だし、大々的なこともあんまりしてないし」
「へぇ、地元の小さな商店街って感じですかね」
「そんな感じ」
彼の肯定で春穂の脳裏に浮かんだのは、こぢんまりと、しかし活気のあるごくありふれた商店街像だ。いい恰幅でエプロンを着こなした、ちゃきちゃきしたおばちゃんが居そうな感じである。ちなみに春穂、そういうおばちゃんは心の底から敬愛している。
そんなイメージ映像とは遠くかけ離れた現実に、車を降りた春穂はきょとんと間の抜けた顔になったのだった。
「……律希さん」
「うん?」
「なんか、あたしの知ってる商店街とは違います」
そう言えば忘れてたね、と車中で交わした自己紹介。春穂が放心して呟くと、彼━━宮野律希は苦笑した。春穂の中の商店街像を理解してくれたらしい。
商いをやっている店でできた街だから商店街である、と言えば確かにここは商店街なのだが、甚だ雰囲気が違う。簡潔に言ってしまうと、全体的に小洒落ている。
街路樹を挟んでU字型に敷かれた道路、その両サイドに並ぶ店々はどこもアンティーク調(多分)で、「なんか都会の雑貨屋っぽい」と春穂は分かるような分からないようなことを思った。
突き当たりに建つ白亜の建造物は、もしかしなくとも教会か。壁にちらちらと蒼が反射しているのは、背後に海があるのだろう。遠目にも綺麗だ、一度近くで拝見したい。
総括。ここに春穂の敬愛するタイプのおばちゃんはきっといない。
されども今こだわるべきはそこではない。春穂はぐっと背筋を伸ばし、自分を奮い立たせた。
視線の先には、『Open』という言葉と共にパンが焼けるタイムテーブルが書かれた黒板。店の正面を伝うように顔を上げると、ピンクとオレンジのグラデーションで《Harbest》と看板がある。━━そう。U字路を入って一番最初にあるこの建物こそが、ベーカリー《Harbest》なのだ。
にわかに緊張してきた。
「よし、行こうか」
「はい!」
律希がドアを開けると、軽やかなベルの音が響く。溢れだした甘く香ばしい匂いに、春穂の口元は自然とほころんだ。
店内には客は見えず、レジの奥で女性が一人作業をしていた。彼女が奥さんらしい。
「ただいまー」
「こんにちはー」
「あありっくん、お帰りなさい。その子が話してた子?」
「はい」
「初めまして」
あら可愛い子、と恥ずかしいことを言ってくれた奥さんは小柄で、春穂より頭一つは小さく見える。年齢は三十代前半と言ったところか、ほんわかした佇まいの人だ。腰痛に悩んでいると言っていたから、もっと上の年齢層の人かと思っていた。
でもそういえば短大でぎっくり腰になった友達いたな、と思い出す。曰く資料を運んでいたら魔女に痛烈な一撃を喰らったとのことで、パン屋と言うのは春穂が想像している以上に肉体労働が多いのかもしれない。
「ここじゃあれだし、お客さんも途切れる頃合いだから奥行きましょうか。りっくんはいつも通りお願いね」
「はい」
「あなたはこっちね」
春穂が案内されたのは厨房と繋がる部屋で、テーブルにと椅子が何脚か置いてある。隅にロッカーがあるということは、おそらく休憩室だ。
促されるまま向かい合って座り、さて春穂の緊張は最高潮である。
緊張すればするほど表面上は落ち着いている風に取り繕われるという特性を持つ春穂は、見た目には冷静沈着でも実は心臓バックバクなのだ。あくまで見た目には緊張を窺えないということで、いざという時に頼みの綱扱いされがちなのは余談である。
そんな春穂の特性を知ってか知らずか、奥さんはほわわんと笑った。
「りっくんから話は聞いたわ。あなた、お名前は?」
「佐々木春穂と申します。突然押し掛けてしまって申し訳ありません」
癒しの体現者が春穂の目の前にいた。ほわわんオーラに幾分か緊張が解れてくる。
履歴書を差し出しつつ、本日二度目の自己紹介をする。
「いいのいいの。元々人手不足はどうにかしたかったから、これもきっと何かのご縁よ」
ありがたいお言葉だ。
「ただ、いくらりっくんの紹介とはいえ、やっぱりちゃんと顔を見てお話しないと決められなかったから。少し付き合ってね」
「はい、もちろんです」
「じゃあ始めるわね」
面接とは言い難いような和やかな空気の中で、しばし質問と会話が続く。就職対策は短大でバッチリ済ませているので、余程の変化球が来ない限りは安打を打てるはずだ。
春穂の回答や相槌を聞いて奥さんはふんふんと頷き、十分弱が過ぎた頃で話は一旦終了となった。
満足げな表情の奥さんはぱちんと手を合わせ、春穂に小首を傾げる。
「よし。これが最後の質問ね、春穂ちゃん。━━あなたのおすすめのパンは、なぁに?」
部品工場の事務職の面接に、当然ながらこういう質問形態はなかった。問われて虚を突かれた春穂は、顎に手を当てて数秒考える。
おすすめのパン。━━春穂が美味しいと思った、他の人にも食べてほしいと思うパン。
考えるまでもなかったじゃないか。
「クロワッサン、です」
「へえ、どうして?」
「……今朝、律希さんが奢ってくれたクロワッサンがびっくりするくらい美味しかったから、です」
理由になってるいるだろうか、これ。しかし美味しかったからおすすめなのだとしか言えない。
就職先が倒産して泥酔からの路上熟睡プラス号泣という出来立てほやほやの黒歴史に内心もんどりうっていた春穂の心に、あのクロワッサンはたった一口で幸せを与えた。表情筋の強ばりが白旗を振ったあの味を、おすすめせずして何をすすめられようか。
不意に厨房から漂ってくるバターの香りに、春穂はふにゃんと笑った。駄目だ、もう香りだけで表情筋が敗北した。
くすくす、と可憐な笑い声が落ちる。出所である奥さんは、一呼吸置いて「うん」と呟いた。
「合格。合格よ春穂ちゃん」
「え?」
「りっくんがね、電話で言ってたのよ。『うちのパンをすごく幸せそうに食べてくれる女の子だ。あんな子きっと他にいない、店のいい看板娘になってくれる』って。あの子、女の子なんていつもさくっとあしらうのに、あなたのことは珍しいくらいにべた褒めするから、あらどんな子かしらって思ってこっちに連れてきてもらったのよ。……そしたらほんとね、見てるだけでこっちまで幸せになりそう。文句なし、合格よ! ねえ春穂ちゃん、うちの━━《Harbest》の、看板娘になってくれる?」
急展開に唖然となった春穂の前で、奥さんがやんわりと身を乗り出す。
合格? 看板娘?
奥さんの言葉をゆっくり噛みしめて、ようやく理解が現状に追いついた時、春穂は照れくささを交えた表情で元気良く返事をした。
「━━はい! よろしくお願いします!」
かくして。
人生最大の失態から始まった朝、春穂は《Harbest》の従業員となったのだった。
就職と言うことで、とりあえず一区切り。
近いうちにまた更新いたしますm(__)m