春≒約束
キリがいいところまで行きたかったので、本日二話目です。
遠くの方で微かに、剣戟の音が聞こえる。キン、キィンと鈴の音にも似た高音がしばらく続いて、最後に「御免!」という声が聞こえて、ああ誰か切腹したなぁと思った。誰だろうと何となく気になって、ゆっくり瞼を持ち上げる。大画面のテレビに映っていたのは、見事なまでに悪人面のお侍だった。
淡く懐かしい夢の余韻が悉く塗り変えられたのは言うまでもない。
熟睡した後の鈍りきった頭がなかなか戻らずそのままぼうっとしていると、眺めている画面がやけに大きいことに気づく。あれうちのテレビこんなに大きかったっけ━━などと考えていると、妙な既視感を覚え始める。
視線を動かしてみると、柔らかそうなダークブラウンが春穂のお腹の位置にあった。ぼけっとした脳は何を思ったのか、手を伸ばしてそっと撫でてみる。春穂の猫っ毛とは別種の、けれどふわふわした柔らかさが心地よい。
ちょっと癖になって、いっそこのまま撫でくり回してみようかと思案していると、ダークブラウンの髪を持つ人が苦笑混じりにこちらを振り返った。
「……起きた?」
春穂はここらでやっと既視感の正体に気づく。
そして全力で手を引っ込めて起きあがった。
「っ、ご、ごめんなさい……完っ全に寝ぼけてました……」
「いいよ、なんか気持ちよかったし……。俺もちょっと寝てたっぽい」
ふあ、と欠伸をした律希はソファにもたれて座っていて、ソファはというと春穂が占領してしまっていた。
完全に寝入る寸前に律希に寝かされた感覚がなんとなく残っているので、気を遣わせてしまったのだろう。家主様を床に……と若干の自己嫌悪に苛まれる春穂の隣に、律希が腰を下ろした。
やや寝乱れた髪を梳るようにして、律希は春穂の髪に指を差し入れる。
「よく眠れた?」
「はい……ごめんなさい、ソファ独り占めして爆睡しちゃって……」
「寝不足だったんでしょ、気にしないで」
優しい人だな、とつくづく思う。
「……ありがとう、ございます」
言葉以外返すものを持たない自分がもどかしい。
「寝てる間に発酵は終わったから、とりあえず冷蔵庫入れて止めといたよ」
「……あたし、もしかして相当な時間寝てました?」
「外見てみ」
言われてガラス張り部分を見てみると、煌々と燃えるような夕陽が遠くの山際に半ば沈んでいた。絶景である。
さて。今は夏で、日没近いと言うことは。
「……がっつり三、四時間ってとこですか……」
「途中で起こそうかとも思ったんだけどね。あんまり気持ちよさそうに寝てたから忍びなくて。で、テレビ見てたら俺もついうとうとと」
「道理で頭すっきりしてるはずですよ……。それにしても律希さん、時代劇見るんですね」
「ああ、神父のおっちゃんの影響でね。って言っても有名どころしか見ないけど」
「あたしもたまにですけど見ますよ。桜吹雪なお奉行様とか」
「あとは暴れん坊なお人とか?」
「見ます見ます。って言うか、起きたときやってたのそれでしょう?」
「正解。よく分かったね」
「分かりますよ、結構定番のシーンですもん」
時代劇談義に花を咲かせつつ、お互いうんと伸びをして今日の本来の目的を完遂すべく台所に向かう。
律希が冷蔵庫から出した生地はふっくらと見事に膨らんでいて、成功の予感が胸をわくわくさせる。
「今回は何度で焼くんですか?」
「二一〇度。けどちょっと待って、その前に」
律希は何やらオーブンをいじると、外したケースのようなものに水を入れた。
「……もしや律希さん、そのオーブンスチーム機能付きですか」
「ご明察。かなりお高めだったんだけど、試作するならどうしてもスチーム欲しかったから思い切って買っちゃいました」
「おお、我が家のオーブンとは格が違う……。スチーム機能がないオーブンだったらフランスパンは無理ですか?」
「いや、中に霧吹きしたら大丈夫だよ」
水のケースをセットして、予熱を開始する。その間にクープと呼ばれる切り込みをバゲット生地に入れなくてはならない。クープが入ることで生地が均一に膨らみ、火も良く通るようになるのだ。
使うのはクープ用のナイフで、棒の先にカミソリの刃が付いたものだ。
「バタールは三本クープを入れるから、いい感じの間隔を取ってね」
「お、お手本ください!」
ナイフを持たされてさあやってみよう状態の春穂は、早々に白旗を揚げた。すべすべしたパンの肌に傷を付ける、おまけにいい感じの間隔で、なんて初心者には荷が重い。
律希は笑いながら春穂からナイフを受け取ると、こんなもんかなと言ってざっくり三本クープを入れる。
「大体は勘でいいけど、強いて言うなら斜めに刃を入れるのがコツかな」
「斜めに……」
もう一本のバタールに刃を当てて、ままよと引いてみる。律希のお手本と同じ角度を意識していくと、どうにか様にはなった。
続いてエピは見慣れた麦の穂の形にするために生地に対して斜めにハサミを入れ、小さな塊をぱたぱたと左右に倒していく。これはさしてコツが必要な作業ではなかったので春穂でも簡単に終えられた。
「店の見た感じ、たぶん卵は塗らないですよね?」
「そうそう。後はこのままオーブンに突っ込むだけ」
少し待つと予熱が完了したので天板を二枚オーブンに入れて、三十分ほど焼く。
洗い物を終えて外を見てみると、陽はすっかり沈んで浅い夜が街を覆っていた。
「もう夜ですねー」
「七時半か。お互い晩飯どうする?」
「んー……」
家に何か買い置いてあっただろうか。冷蔵庫の髪を思い出していると、律希が春穂の髪をくしゃっとやった。
「明日からの景気付けってことで、どっか食べに行かない?」
「いいですね。どこ行きます?」
「どこ行こうね……。この辺だったら、鶏肉料理専門の店とかあるよ」
「わ、行ってみたいです」
「じゃあそこに決まりで。締めの親子丼が旨いんだよね」
「ふわぁ食べたい……!」
楽しみですと笑うと、律希も笑みを返してくれた。猫っ毛をぽんとやって春穂の頭から手を離す。
「明日から、頑張ろうね」
「はい。築山ホールディングスなんかこてんぱんに叩きのめしてやりますよ」
拳を握って春穂は意気込む。市役所では派手に動揺してしまったが、もう揺らぐことはない。むしろその名を聞いただけで闘争心がたぎってくるほどだ。
築山ホールディングス━━それは、春穂の元就職先であった工場を倒産に追いやった原因たる企業の名前。
二度も奪われてなるものか。
奪わせるものか。
かつての敵は今も敵。ならば春穂が遠慮する必要など一切ない。
「戦って、守って。来年の春も絶対にうららロードで迎えましょうね、律希さん」
「だね。……まだ春穂ちゃんに見せてない景色もあることだし」
「え?」
きょとんと目を瞬いた春穂の視線の先で、律希が笑う。
「桜色の教会」
暖かで柔らかで、綺麗な響きだと思った。
「四月にうららロードの桜並木が満開になるのは、見たことあるでしょ? ほんとはその時教えようかとも思ったんだけど、春穂ちゃん入りたてで忙しそうだったから。また来年にしようってとっといたんだ」
「桜並木で、教会が桜色になるんですか?」
「んー、ちょっと違う。まあ、来年のお楽しみだね」
「むぅ……気になります。時期になったら言うの忘れないでくださいね?」
「大丈夫、忘れないよ。約束する」
━━約束とは不思議なものだ。
何気ないことなのに、叶えるために心が駆り立てられる。未来に待ち受けているであろう難題を打ち破る力になる。
今、律希は春穂に約束をくれた。
「……あたしも、何か律希さんに約束したいです」
思わずこぼれた望みは、律希の顔を見ては言えなかった。外した視線を一度さまよわせてから前へと向ける。
ガラス越しに臨む街並みのそこかしこに光灯る光が、落ちた静寂にどこか幻想的な彩りを与えている。山に向かうにつれて光が滲んで、グラデーションのようだった。
街が遠くて、人が遠くて。世界から穏やかに隔離されたように錯覚してしまう。静かに脈打っている自分の心臓でさえ、静謐な空間の中ではやけに跳ねて感じる。
何故だろう。頬が熱い。
昼間の熱が淡くぶり返したような感覚に、春穂は俯いた。夜空のせいで鏡になったガラスを見ていられなくなった。
……あたし、今日、おかしい。
ぐるぐると渦を巻く思考。ついさっき言ったばかりの望みが急に恥ずかしいもののように思えてきて、春穂は慌てて撤回の言葉を口にしようとした。
「━━笑ってて」
声は、音になる前にかき消されたけれど。
俯いた拍子に流れていた春穂の横髪を、律希が指でそっと掬い取って耳にかける。露わになった頬に少し触れて、上を向くように誘導された。
驚きと戸惑いをありありと瞳に映しているであろう春穂に、律希はどこか照れたような微笑を見せた。
「来年の春も、《Harbest》でいつもみたいに笑ってて」
「そんな……こと、で、いいんですか?」
「むしろそれがいい。蘭子さんも剛志さんも、もちろん俺も、春穂ちゃんが笑ってると幸せになれるから。……来年の春もうららロードが在って、そこで春穂ちゃんが笑ってたら、きっとこれ以上ないくらい幸せだ」
約束して? 律希の声にこくりと頷く。
いつもの街で、いつものように笑う、あたりまえの未来を手に入れよう。締め付けられた胸に改めて決意が灯る。
「来年の春が、楽しみです」
「俺もだよ」
やがてオーブンのメロディが鳴る。
部屋に満ちた小麦の香りは、仄甘い空気に溶けていった。
これにて第二回お宅訪問編終了。次回よりみんな働き倒します! ……多分!




