いじわる≒勇気
食べ終わって食器を片づけるついでに、放置しておいたフランスパンの生地を見てみると見事に発酵して膨らんでいた。フィンガーテストをしてみると、丁度いい頃合いだ。
洗い物は後回しにして、ひとまずパンにかからねばならない。
「次は生地を分けてベンチタイム、ですよね?」
「正解。今回はバタール二本とエピ四本の計六本作るから、ひとまず四等分してね」
「はい」
フランスパンと一口に言っても、その種類は実に多い。バゲットにブール、バタール、エピ、パリジャン、タバチェール……などなど、形状や重量によって呼び名が違うのだ。
有名どころと言えばバゲットだが、家で作るにはオーブンの奥行きが足りないらしく、その名の通りバゲットと他のもう一つ別のフランスパンの『中間』サイズであるバタールが丁度良いそうだ。ちなみに《Harbest》ではいつもバゲットとベーコンエピ、ポテトクッペ(蘭子お手製ポテトサラダ入りの小さなフランスパン)の三種を販売している。ベーコンエピは春穂にとって翔琉の好きなパンとしても印象深い。……甘酸っぱい空気を思い出すと口元がにやつき初めて、いけないいけないと手元に集中する。
すべすべの生地を台に取り、スケッパーで四等分する。うち二つはバタール用に太短くまとめて、残りはエピ用に更に二等分にして細長くまとめる。並べた生地に堅く絞った布巾をかけて、ベンチタイムだ。
洗い物などをさくさくこなしている間に時間は過ぎ、生地が十分休まったところでいよいよ成形である。
「じゃあ一緒にやってみよっか」
まずはバタールからだ。
生地を伸して半分に折り、同じ方向にもう一度折って棒状に形を作っていく。この前のバターロールに比べるとまだ簡単そうだ。
が、そんなに甘くはなかった。
向かいで同じようにやってみると、棒状にしているうちに生地の太さにムラがでてきた。あれ? と丸く戻しているうちに今度は長くなってしまい、あっと言う間にオーブンに入りきらないサイズにまで成長してしまった。
しょぼくれた表情で律希を見上げると、彼はふはっと吹き出した。
「最初の形に戻して、もっかいやってみよっか」
「……はい……」
約六十センチ、バゲット並に伸びた生地をまとめ直して再度挑戦してみる。伸して二つ折りを二回、問題はここからだ。
台の上で転がすようにしていると、律希の手が伸びてきてひょいと春穂の指をつまんだ。動かされるままに手の付け根を生地に押し当てる。
「手のひらでころころしてると潰れるから、付け根のとこでやってみて。上から押すんじゃなくて……」
「こう、ですか?」
「そうそう、うまいよ」
言われた通りに手の付け根を使って丸めると、律希の物と比べるとややいびつなものの、さっきよりはかなりマシな状態に持っていけた。大体四十センチでバタールは成形完了だ。畝を作ったキャンバス地に生地の閉じたところを下にして置く。
続いてエピは伸した後でベーコンを乗せ、《Harbest》流に粗挽きの黒胡椒をふる。縦長に巻いて生地を閉じ、バタールと同じ要領で形を整える。四本作ったこれもキャンバス地に置いて、後は二次発酵だ。
律希家のオーブンは二段で焼けるので一気に全部突っ込んで、下には湿度を保つためにお湯の入ったボウルを入れる。四十分に設定してスタートボタンを押せば、文明の利器にお任せで完了だ。
洗い物をしても時間は余るので、ソファに座って冷たい麦茶で一休みすることにした。
律希の家のソファは座ると柔らかく体を包んでくれて、冷房で程良い室温の中で気を緩めると、
「……春穂ちゃん、眠いの?」
案の定、睡魔がスキップしてやってきた。
前のパン教室ではテーブルに突っ伏してでさえ熟睡していたのだから、酒を入れて上等なソファに座って眠くなるのは当然と言えば当然なのだが━━流石に人様の家でくつろぎ過ぎではなかろうか、とぼんやりしてきた頭の中で辛うじて理性が囁く。
「……だいじょぶ、です……」
「目、とろんとろんしてるけど」
「ぅ……」
アイメイクはしていないので、躊躇なく目を擦る。けれどその甲斐なく頭の芯が段々と溶けていって、体にうまく力が入らなくなってきた。
いつもなら我慢できるはずなのに、どうしても眠い。
危険と判断したのか春穂の手から麦茶のコップを取った律希は、ほんの少し眉を寄せて春穂の顔を覗き込んだ。
「……最近ちゃんと眠れてた?」
実のところ、あまり眠れていなかった。
うららロード解体の一報を受けてからと言うものの、不安やら緊張やらで春穂の睡眠の質は最低ランクにまで落ちていた。ベーカリー勤めで人一倍朝が早いのに寝付けなくて、やっと寝たとしても眠りが浅いのかすぐに目を覚ましてしまい、また寝付けないという無限ループ。特に昨夜は市長との会談前ということで緊張してますますうまく眠れなかったのだ。
その分この上なくしっかりケアをしたお肌は最小限の被害で済んだが、如何せん寝不足だけはどうにもし難い。寝るしか解決策がないのだから。
律希の問いにふるふると首を振った春穂だが、ここで寝るわけにはいかないと最後の理性を保つ。だって今寝たらしばらくは起きられなくなる自信がある。ここは自宅ではないのだから。
「りつき、さん……めーわく、しちゃう……から……。だいじょ、ぶ……」
「……そう。じゃあ、ちょっといじわるするね」
不意に髪に指が差し込まれる感触。地肌を長い指が撫でて、火傷の痕が残る腕を辿って顔を見てみると、慈しむような笑みがあった。
眠いときに頭を撫でられたことは前にもある。義晴の結婚式の時だ。
あの時も、律希はこんな表情をして春穂に触れた。
「……りつきさんの、いじわる……」
落ち着いてしまう。安心してしまう。
知っているくせに甘やかす。
なけなしの気力を振り絞って律希を睨むと、穏やかな微笑で返された。
「知ってるよ」
重たい瞼を閉じる瞬間、形の良い唇が「おやすみ」と紡ぐ。
水面をたゆたうような微睡みに、律希の声が霧散して消える。
心地よい手が離れたのが少し寂しくて、けれど自分の体がそっと横たえられた楽にすぐに忘れてしまう。まるで宝物、それも脆く柔い壊れ物を扱っているかのように丁重な手だった。
ややあって、体に柔らかいものが掛けられる。滑らかな肌触りのブランケットだ。
適度なぬくもりに笑みがこぼれた。
「……長い夢でも見てんのかなぁ、俺」
聞き慣れた、聞いたことのない声が落ちる。
猫っ毛がふわふわ動いてくすぐったい。
「……勇気のかたまりなのは、相変わらずか……」
夢現の狭間で聞いた『勇気』の言葉が、深い眠りへ赴かんとする春穂の意識にほんの僅かな波紋を生んだ。
まだ名前を付けることが出来ていない記憶の引き出しが不意に開いて、中から映像が溢れる。━━懐かしさと恥ずかしさと脅えが混ざり合う不思議な感情をもてあましながら、春穂の意識は夢に落ちた。
◇ ◆ ◇
狭い路地道を白い吐息が彩る。重たい雲は今にも氷の粒を落としそうで、憂鬱なような、それでいて心弾むような矛盾した気分になった。
その冬一番の冷え込んだ日は、鼻の奥で冷気がいつもより染みて。校則に則ったシンプルなデザインのマフラーを少し上に上げると、ささやかなぬくもりが顔を包む。
いつもより寒い、いつも通りの夕方━━に、なるはずだった。
曲がり角へと進もうとした次の瞬間に速やかに振り返ったのは、己の戦闘力をきちんと理解していたから。
そうしてすぐ鼻先に軽めの衝撃が来たのは、もうその日の運が悪かったからとしか言いようがない。
見上げた途端に目を合わせたことを後悔するような、目つきの悪い、気怠げで不機嫌そうな顔。
次いで迎え撃つかのように背後から聞こえてきたばりぞうごん。
詰んだ、と思った。
ほんの一時。きつく手首を掴まれて、半ば放り投げられるように勢い良く腕を引かれるまでは。
気づけばぶつかった人物の後ろにいた。黒い学ランに包まれた、やや細身のしなやかな背姿が目に焼き付いた。
何が起こったのかも理解できず立ち尽くしていると、彼がひょいと顔だけで春穂を向く。長めの前髪から覗く目はやっぱり鋭くて身が竦んだ。けれど、呆れたような雰囲気と追い払う仕草をする手が、彼が何をしてくれたのかを理解させた。
会釈だけして全力で足を動かす。走って走って、気づけば目的地にたどり着いていた。
軽やかなドアベルの音。暖気と共にふわりと香ばしい匂いが溢れて、安堵にへたり込みそうになった。
もう、いつも通りに戻れる。
トングとトレイを手に取って、翌日の朝食を選ぶ。トレイの重みが増していくにつれ更なる安心感が広がって、心はすっかり平常に戻っていた。
そろそろ帰ろうか━━何の気なしにドアを見て、目を瞬く。
ドアのガラス越しに、綿毛にも似た柔らかな雪がちらついていた。今にも凍り付きそうだった冷気がとうとう氷の粒を生み出し始めたのだ。
……ふと、思う。
あの人は大丈夫なのだろうかと。
そういえば一対多だった。そういえば相手達の体は大きかった。そういえば相手は彼に息つく間もなく暴言を浴びせていた。そういえば彼はあまり防寒をしていなかった。そういえば、そういえば━━
あたし、あの人にお礼言ってない。
息を切らせて、走る、走る。
彼女はお人好しな勇気のかたまりだから。
本日は二話一気に投稿致します




