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違和感≒動揺

今回は春穂ちゃん的に大事な回です。が、いつもよりほのぼのしてます。

 途端に、ぱちん、と。春穂の胸の奥で何かが弾ける。薄膜に包んで見て見ぬふりをしていた違和感が、静かに静かに流れ始めた。

 それはゆっくりと正体の分からないものに変化して、春穂の心に細波を立たせる。

 ……これは、なに?

 ずっと知っていたような、今気付いたような曖昧なもの。


「━━春穂ちゃん?」


 律希の声に窺われた瞬間、理性が跳び上がって素早く心に蓋をした。別に驚かされた訳でもないのに、心臓がばくばくと謎の動悸を打っている。

 どうした自分と混乱を抱える春穂の頭を、律希はそっと撫で続けていた。ゆったりとした動きに大分落ち着いて何の話してたっけと記憶を巻き戻すと、そうだ律希さんの家庭環境の話だったと思い出す。


「え、っと……そう、ですね。気にしないようにします」

「ん。ごめんね、反応困ったでしょ」

「いえ、律希さんが謝ることじゃないですし。それに……なんていうか、」


 一後輩が先輩のディープな事情に首を突っ込むのもあれですし。

 急拵えの解答は、なんだかとてもひねくれて拗ねているような気がして言えなかった。何に対してなのかは分からないけれど、言ってしまえば卑屈な子になってしまうような台詞だった。

 春穂が言葉を詰まらせている間に、律希の手がぽんぽんと春穂の頭を軽く叩く。撫で終わりのいつもの癖が、会話を切り上げる合図にもなって。


「他に買うものは?」


 ころりと変わった場の空気に覚えた少しのもどかしさは、気にしないようにした。


「材料はこれで全部です」

「じゃあベーコン買って帰ろうか。あ、でもお好み焼きか……」

「律希さん、もしかしてビール飲みたいって思ってますか?」

「お察しの通りです。二人でちょっとだけ呑まない?」

「……はい」


 律希と呑むときは禁酒令の対象外。春の歓迎会以降いつの間にか確立されたこのマイルールを適用する度に、律希はどこかいたずらっ子のような笑みを浮かべる。

 色気とはまた別の胸キュンまで製造可能な律希はいつか誰かを心臓発作で殺してしまうんじゃないだろうか、と春穂は現実逃避気味に謎の心配をした。

 律希はお誘いをかけてくるハンターもといお客様方にももちろんちゃんと笑顔で対応しているのだが、春穂に向けられるものとは決定的に何かが違う。鉄壁の営業スマイルを見た後で不意に笑顔を向けられて、笑顔と笑顔なのにギャップ萌えという謎の状況に陥ったことがあるのは余談だ。


 エピ用のベーコンを買ってから酒類のコーナーに向かい、ビールを選ぶ。ロング缶を分けあうか四五〇ミリリットルの缶を二本買うかで悩んで、結局後者に落ち着いた。発泡酒ではなくちゃんとしたビールにしたのは午前中頑張った自分達へのご褒美だ。

 会計は(律希が出そうとするのを押し切って)折半にして、持ってきていた買い物袋に詰める。荷物持ちは律希が譲ってくれなかったのでお任せして、春穂達は再びバターと化しつつどうにか帰宅した。


「ビールぬるくなっちゃってそうですね」

「まあとりあえず冷やそっか」


 冷蔵庫にビールを入れると同時に生地を取り出し、その辺に放置しておく。夏場はこれで普通に発酵が進むらしい。

 さて、何はともあれ昼食である。

 エプロンを再装着した春穂は律希から一通りの調理器具の場所を聞いて、早速調理に取り掛かった。


「ちゃっちゃと作っちゃうので、律希さんは休んでてください」

「ありがと。何か手伝うことあったら呼んでね」

「はい」


 律希は春穂が調理している間に他の家事をこなすようだ。てきぱき行動しているのを横目に見て、きっといい旦那さんになるんだろうなぁ、と春穂は思った。


 いい加減胃液が胃壁を消化せんとしているので特急で昼食を作る。


「律希さん、何枚くらい食べますかー?」

「とりあえず二枚ー」

「分かりましたー」


 キャベツは千切りにして、ネギも細かく刻む。薄力粉を入れたボウルに擦った山芋と卵を加え、とっておいた鰹出汁を少しずつ混ぜていく。後は醤油で味を調えれば生地は完成だ。

 別のボウルに野菜、四分の一にカットした餅、天かす、しらすを入れ、生地を入れて混ぜる。ふんわりと空気が入るように混ぜるのが両親から教わった第一のコツだ。

 なお、ここまで所要時間は十分とかかっていない。食いしん坊が一人暮らしを続けていると自然と手際が良くなっていくのだ。目分量勘レシピが春穂の料理の基本である。


 律希の家で一番大きいフライパンなら二枚一気に焼けそうだ。油を引いて熱したフライパンにタネを入れれば、じゅわぁっといい音がする。タネの上に豚バラ肉を広げて乗せて、最初は蒸し焼きにするので蓋をしてしばし。

 五分ほど経ったとところで蓋を開けてひっくり返し、もう一度蓋をする。蓋越しに聞こえてくる、豚の脂がじゅわじゅわと焼ける音が春穂の食欲を耳から刺激してくる。

 待つ間に洗い物などしつつ、また五分ほどしてから蓋を開ける。更にひっくり返して、今度は蓋なしで水分を飛ばす。表面の豚肉がカリッと仕上がって、いい感じだ。

 焼き上がるタイミングを今か今かと待ちわびていると、家事を終えた律希がひょいと春穂の隣に立った。


「そろそろ皿出す?」

「あ、お願いします。もうできますよ」


 律希が出してくれた皿に出来上がったお好み焼きを乗せて、テーブルに運ぶ。エプロンを外して律希の向かいの席に着けば、いよいよ、やっと、昼食タイムだ。

 お互いグラスにビールを注いで、小さく乾杯する。


「昼からビールって、なんかそこはかとない罪悪感ありますよね」

「まあ休日の特権ってことで。じゃあ、いただきます」

「はい、召し上がれ」


 春穂もいただきますをして、ソースとマヨネーズを塗って鰹節と青海苔をかけたお好み焼きを口へ運ぶ。お好み焼きは熱々をはふはふ言いながら食べるのが醍醐味だ。

 熱さに負けじと噛むと、豚肉がカリッと砕けて脂の旨味を撒き散らす。続けてキャベツの甘みが優しく広がって、しらすや出汁の複雑な味がこってりしたソースとマヨネーズによく合うのだ。うん、我ながらいい出来。

 律希もお気に召したようで、驚きと感動の中間のような表情になっている。


「……すごい、めちゃくちゃ旨い」

「良かった。まだ焼きますから、たくさん食べてください」


 と言ってからはたと気付く。


「……なんだかいつもと逆ですね」

「あ、確かに」


 いつもは律希が春穂にいっぱい食べろと散々餌付けしてくるのに、今日は春穂が律希に餌付け━━というかは分からないが、とにかくご飯を作っている。たまには逆も新鮮でいいものだ。


 食いしん坊の春穂は当然として、律希も普段からそこそこ量を食べる人なので一枚目のお好み焼きはすぐに皿からなくなった。いそいそと第二陣を焼きにかかる。

 対面キッチンとでも言うのか、律希の家は台所とダイニングが真向かいにあるので、コンロを挟んで他愛ない話をしつつ焼き上がりを待つ。休日の昼下がりののんびりした時間は、ここ最近の春穂の中で渦巻いていた殺伐とした感情を溶かして和ませてくれる。


「いいお昼ですね」

「だね」


 穏やかな空間に、しゅわしゅわと蒸し焼きの音が流れる。のどかだなぁ、と思う。


「こんなにのんびりしてるの、久々かも」

「先月末から怒濤の勢いだったもんね。特に春穂ちゃん、発案者だから色々と駆け回ってたし」

「律希さんだって、あたしのフォロー役で大変だったじゃないですか。大学だってあるのに」

「大学はもう卒論書くだけだから大丈夫だよ。他の奴らと違って就職活動しなくていいから時間もあるしね。春穂ちゃんのフォローは好きでやってるんだから苦じゃないし」

「……そう、ですか」


 やっぱり変な人だなぁと思いながらも、律希の屈託のない笑顔が、自分でも知らぬ間に抱えていた春穂の負い目を軽くする。

 いつもこの人に救われている。

 どうしてこうも春穂の心に、春穂そのものに手を差し伸べて救い上げてくれるのだろう━━律希に対する疑問がまた一つ生まれた。

 どうして律希さんは、と言おうとして口を噤む。経験則からして、彼はきっとはっきりした答えは教えてくれないだろう。

 微妙に不自然に途切れてしまった空気を立て直そうと話のネタを探すと、忘れかけていた今朝の神父さんとの話を思い出した。

 くるりとお好み焼きをひっくり返して、春穂は首を傾げてみせる。


「そういえば律希さん」

「ん?」

「朝神父さんが言ってましたけど、あたしが春風ってどういうことですか?」


 途端に律希が思い切り噎せた。


「え、ちょ、大丈夫ですか!?」

「っごめ……あー、びっくりした……」

「入っちゃいけないとこに入りましたか」

「うん、まあね。炭酸だから余計に来た」


 実に分かりやすい動揺の仕方を披露してくれた律希に、春穂はまたしても首を傾げる。午前中神父さんがこの単語を口にしたときは真っ赤になって、今は噎せて━━そこまでとんでもない話題なのだろうか、これは。

 しばし口元を押さえて逡巡していた律希は、春穂が再度お好み焼きをひっくり返したところでようやく言葉を紡ぎ始めた。


「……春穂ちゃんが春風、っていうのは……なんていうかもう、そのままなんだけど……」


 恥ずかしそうに目を逸らして、ごにょごにょと口の中で言葉を転がす律希。彼がここまで言い淀むのは初めて見た。

 やがて律希はうなだれると、小さな声で言った。


「ごめん、今はちょっとうまく言えない。……またいつか話すから、勘弁して下さい……」

「あ、いや、無理して話さなくてもいいんですよ? ちょっと気になっただけで、別に嫌とかではないので」


 ただ、自分に春風という単語が当てはめられたことに違和感があるだけだ。春という字は共通しているものの、自分の雰囲気に春風というのはどうにも似つかわしくないような気がする。個人的な主観だが、春風とはもっとふんわり純粋天使な子にこそふさわしい単語だと思うのだ。春穂の場合、乙女心が食欲に負けている時点でまずアウトだろう。

 ……自分で思っておいて何だが、まがりなりにも妙齢の女として少々悲しくなった。花も恥じらうとまではいかなくても、せめてもう少しどうにかならないだろうか。

 春穂が胸を抉られ、律希が頬の火照りを冷ましている間にもお好み焼きは着々と焼けていく。いくら食いしん坊でも胃の容量には限界があるので、春穂の分は一回り小振りに作っておいた。


「二枚目できましたよ」

「ありがと。これ、確かに餅がいい感じに膨れてくれるね」

「あとはチーズも入れたりするとおいしいですよ?」

「……気になる。買えば良かった」

「また今度作ってあげますから」

「よろしくお願いします」


 律希がわざと真面目な口調を作る。無邪気に結ばれたささやかな約束が、妙にくすぐったくて笑ってしまった。

 遅めの昼餉はどこまでものほほんと、つつがなく過ぎていった。


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