相合≒唐突
またサブタイトルを間違えておりました…
打倒カロリーを目標にせっせと二百回こね終わり、丸めた生地はつるんといいお肌だ。卵が入っていないためか、前回作ったバターロールより黄色みが少ない気がする。
温度計を差してみると二十九度。こね上げ温度の二十八度の前後にちゃんと収まっているので一安心して、春穂は生地をボウルに入れてラップを張った。
「発酵はオーブンでいいんですよね?」
「んー……これから買い物行くし、とりあえず冷蔵庫入れといて。多分スペースあると思うし」
「了解です」
冷蔵庫にボウルを突っ込み、使った道具を片づける。エプロンを外して時計を見てみるともう昼過ぎだ。前回よりかなり手際よくこなせたはといえ、今日は作り始める時間が遅かったので仕方ない。
くぅ。きゅう。
……仕方ないのだが、春穂のお腹は途端に切なげな音を立てて空腹を訴えてきた。
律希に聞かれていないだろうかと思って横に視線をやると、顔は見えないが律希のダークブラウンの髪が震えている。肩もふるふるしていて、全てを悟った春穂は羞恥に頬を染めた。笑わなくたっていいじゃないか。
むくれて斜め下を向いていると、律希の手があやすように春穂の頭を撫でた。ごめんごめん、と掠れた声が降ってくる。
「……お腹空いたんですもん……」
「うん、ごめん。あんまりかわいかったから、つい」
謝るならなぜ小刻みに震え続けている、と春穂はむくれた顔で更に拗ねた。
「もうっ、お買い物行きますよお買い物! 律希さん何食べたいか決まりましたか?」
「じゃあ折角だし春穂ちゃんの得意料理で」
「得意料理……って言ったら一番はお好み焼きですけど」
「お、いいね。薄力粉とキャベツと、肉は豚バラでよかったらあるよ。あと卵も」
「ソースとマヨネーズもありますか?」
「あるある」
「あとはネギと、山芋と━━」
指折り数えつつ鞄を肩に掛け、律希に続いて部屋を出る。マンションの中は隅々まで空調が効いていて涼しいのに、エントランスを一歩出るとこれは何の恨みだと言いたくなるレベルで暑い。今年は近年稀にみる猛暑だとニュースで言っていたが、七月頭でこの灼熱っぷりだと夏の盛りが恐ろしい。
一つの日傘の下、エアコンに慣れた現代っ子の二人は早々にバターと化した。
「あつ……」
「うう、とける……」
「これだけ暑いと、そろそろデニッシュ系の減らさないといけないかなー」
「ふえっ!? へ、減っちゃうんですか……?」
『デンマークの』という意味を持つデニッシュは、生地にバターを織り込んだタイプのパンだ。代表的なものはスパンダワーなどで、一口食べるとサクサクした食感と共にバターの芳香が広がって春穂の表情筋が完全KOされるのが特徴である。
春穂は基本的にありとあらゆるパンを全力で愛しているが、中でもデニッシュはこの上なくリッチな気分にさせてくれるので大好物だ。《Harbest》ではしばしば三時のおやつとして出てくるので、食べているときはカロリーのことなど絶対に考えないようにして美味しくいただいている。ハイカロリーな生地の中に更に甘いカスタードやチョコレートが入っていたりするけれど、見事に完食させていただいている。
それほど大好きなデニッシュが少なくなるのは寂しい。眉根を下げて律希を見上げると、彼は「まあ商売だからね」と苦笑した。
「夏場になると、どうしても油分多めのやつの売れ行きがいまいちなんだよ。食べたかったら今度作ってあげるから」
「わーい、ありがとうございます!」
「冬場にはまた復活するしね。その分夏は定番商品とかサンドイッチのバリエーションが増えるから、楽しみにしてて」
「ふわぁ……あ、ダメだお腹空いてきた」
思わず《Harbest》の定番商品を連想してしまった春穂が上腹をさすると、隣で律希が笑いだした。
初対面のパンも数多くある《Harbest》だが、あんパンやメロンパンなどの定番菓子パンからウインナーロールやコロッケパンなどのおかずパンまで一通り並んでいたりする。あのラインナップが増えるなんて、想像しただけで幸せだ。デニッシュは律希が作ってくれるそうだし、
……律希に甘えてはならないと自分を律する心が食欲に負けたことを、この瞬間春穂は悟った。
今はお腹が空いているから仕方がない、と思いたい。
「……でも、律希さんが甘やかしてくるのもいけないような気が……」
「俺が何って?」
「あれ、口に出てました?」
「うん。なんかさっきちょっと固まってたけど、大丈夫?」
「大丈夫です。律希さんに甘えちゃいけないなーと改めて思っただけで」
「そう言われるともっと甘やかしたくなるのが人の性だよね」
意地の悪い笑みを浮かべた律希に、春穂は小さく憤った。
「~~もう、律希さんはあたしを甘やかし過ぎなんです! 何でそんなに甘やかすんですか」
常々の疑問をぶつけてみると、律希は「後輩だから」とは答えずにふと目を瞬いた。
少しの間を置いて、とろけそうな笑みを見せる。
「春穂ちゃんが優しいからかな」
傘の支柱越しとはいえ、いつもより近い距離で色気全開の律希を直視して。
春穂はうっかり心臓が止まるかと思った。
声の残響とか、一瞬で記憶に焼き付いた笑顔とか、全部が春穂の胸をぎゅうっとさせる。ついさっきまでお腹の音を気にしていたのに、今では心臓の音が律希に聞こえていそうで何だか恥ずかしい。
かといって、一つの傘を共用しているから離れるのはあまりに不自然だ。近いと心臓がおかしくなるのに離れられない、なんてもどかしくて悩ましい距離感だろう。
相合傘の威力を今更思い知る。
「……律希さんはたまによく分からないです」
「そう? あ、スーパー着いたよ」
律希が日傘を畳んだことにほっと一安心して、春穂はスーパーの看板を眺めた。安さと鮮度を売りに綾深市で二店舗を展開している、春穂もお馴染みのスーパーだ。
「ここって詰め放題が多いですよね」
「そうそう。って言っても一人暮らしで欲張っても腐らすのがオチなんだけどね」
「根菜だと全力で詰めにかかってもけっこう保ちますよ。あとは腐りにくいように加工してから冷凍とか」
「そっか、加工すればいいのか」
所帯じみた会話で動悸を宥めていると、買い物カゴを持ってきた律希の指が不意に春穂の頬に伸びた。
温度を確かめるように指先で触れられる。
「ほっぺ赤い。日焼けした?」
「……大丈夫です。気温のせいですよ」
律希のせいだとは言えない。
スーパーのきつめの冷房でやっと冷めてきたのに、またぶり返しそうだ。
頬に残る熱は努めて気にしないようにして、買い物を始めることにする。ネギと山芋、しらすに天かす。更に切り餅を入れるのが佐々木家の定番だ。
「餅入れるんだ」
「いい感じでお腹膨れるので。我が家、兄と弟がとんでもなく大食いだからこうしないと家計が火の車になるって母が言ってました」
「三人兄弟?」
「はい、真ん中っ子です。律希さんは兄弟いるんですか?」
「んー……多分いないかな」
多分。
軽やかな律希の言葉が、違和感になって春穂の耳の奥に残った。
賑やかで暖かな家庭でぬくぬくと育ってきた春穂は僅かに、しかし誤魔化しきれず表情が固まってしまったようで、律希が少し苦笑って春穂の頭を撫でる。
「ごめん、気にしなくていいよ。ちょっと家庭環境特殊な方だっただけ」
「……」
たった数ヶ月の付き合いでも分かることというのはあって。
日常の何気ない人一コマだとか、褒めるときはもちろんだけれど、……春穂に対して線を引くときにも、律希は春穂の頭を撫でる。
春穂だって、当然だが律希に全てを明かしているわけではない。ここまでというなんとなくのラインだけは無意識のうちに決めてあるし、そもそも律希はそのラインを踏み越えることはおろか触れることさえしてこない。だから均衡は上手に保たれている。
だが、律希は違う。
彼は時折自ら自分のラインを踏み越えて、春穂の前に深いところをちらつかせるのだ。それに春穂が反応すると途端に我に返ったかのように笑みを作って頭を撫でて、ちらつかせたものをさっと隠してしまう。その繰り返しだ。……知ってほしい、ああでもやっぱり知らないでと葛藤しているように感じるのは春穂の気のせいだろうか。
━━唐突に、思う。律希さんにとって、あたしは一体何なのだろうと。
あたしにとって、律希さんは何なのだろうと。
定期更新とか言っておきながら、新連載始めてしまいました。
『夕暮れに、茜色の花』
https://ncode.syosetu.com/n4386ei/
好奇心旺盛な女の子と、吸血鬼な幼なじみのしばしばシリアス基本甘々なお話です。お読みいただけると嬉しいです。




