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布告≒始動

お久しぶりです。

切り所が見つからなかったので、かなり長いです。

 市長室の中は思いの外広く、入り口からすぐのところにはローテーブルを囲んでソファが六脚あり、奥には市長の大きな机が構えられている。全体的に赤みがかった茶色でまとめられた室内で、藍色のスーツをぴしりと着こなす人物が目を引いた。

 彼が現綾深市長、吉岡周平だ。

 年は四十代後半から五十代前半辺りだろうか。黒髪をオールバックにした、随分と若々しい雰囲気の人だ。数ヶ月前に春穂の短大の卒業式で来賓祝辞を述べた人でもあり、話が巧い人だったなという印象だ。

 市長は微笑を浮かべて春穂達を出迎えた。


「ようこそお出で下さいました。綾深市長の吉岡と申します」

「指定経済地域、ベーカリー《Harbest》より参りました、佐々木と申します」

「同じく、宮野です」

「綾深プリムラ教会神父、高崎です。本日はどうぞよろしく」


 つつがなく自己紹介を終え、市長に案内されてソファに座る。市長と話すのは主に春穂なので、市長の正面には春穂が座り、その隣に律希、神父さんという順番だ。

 全員にお茶が出されたところで、市長が話を切りだした。


「本日はお呼び立てして申し訳ありません。どうしても、私から直接お話したかったものですから」

「いえ、こちらとしても前々から内情をお伺いしたかったので、丁度良かったです。開示された情報があまりに少ないこの状況下では、私達は手も足も出せませんから」


 にっこりと笑顔を作って、春穂は初っ端から皮肉を投げた。市役所の対応にはうららロード一同腹を立てていたので、ちょっと尖った対応で行こうと指令を受けていたのだ。春穂としても自分の大切を奪おうとする人に優しくする気など一ミリもないので、自然と言葉が鋭くなってしまう。

 対する市長は苦笑いだ。


「申し訳ないとしか言いようがありません。まずは、今回の指定経済地域からの移動請求を行うに至った経緯をお話ししましょうか」

「お願いします。あ、後で会合で資料として使いたいので、録音しても?」

「ええ、構いませんよ」

「ありがとうございます」


 持たされていた小型のテープレコーダーを鞄から出し、録音のスイッチを入れてテーブルに置く。

 録音中を示すランプが点灯しているのを確認して、春穂は市長に向き直った。


「では、お話ししましょう。……お二人は随分とお若いようですが、指定経済地域が何故存在しているかはご存じですか?」

「市の土地を安価で使用可能にし、そこに様々な商業施設を出店させることによって市の経済発展を狙うため、ですよね」

「その通りです。逆に言えば、経済発展が不可能ならばそこに商業施設がある意味などない。随分と直接的な言い方になってしまいますがね」

「……要するに、現在の状態━━うららロードでは、経済発展は不可能だと?」


 険しい顔をして、律希が問う。

 市長もまた表情を厳しくして肯定した。


「もちろん、うららロードの収入は安定しており、毎年黒字を出し続けています。しかし右肩上がりという訳ではない。むしろ下がってきてさえいます。市の経済を発展させんがためにできた場所ですからね、この状況は少々問題ではと議題に上ったところ、ある議員から一つの提案が出ました。━━いっそうららロードを解体して、新たに大型の商業施設を建設してはどうか、と」


 その議員というのが現在高校生の娘がいるそうで、なぜ綾深市にはショッピングモールがないのかと前々から散々文句を言われてきたそうだ。綾深市には駅前に老舗デパートが一軒あるくらいで、ショッピングモールやアウトレットモールなどの大型商業施設に行きたいならば電車で片道三十分ほどかけて都市に出るしかない。アルバイトをしていたとしても収入がそう多くはない高校生にとっては、交通費が財布に痛かったのだろう。

 市にとしても多くの消費者が他市へと流れていくのは喜ばしいことではないため、以前から大型商業施設の建設はしばしば議題に上っていたらしい。うららロードにこれ以上の経済発展への貢献が望めないならば、その土地に新たに大型商業施設を建てた方がお得ではないか━━意見は、大多数の議員の賛同を得た。


「こうして、うららロードの解体と、大型商業施設の建設は決定された訳です」


 言い切って、市長は冷たい緑茶で唇を湿した。

 うららロード解体決定までの経緯というものを春穂は今初めて知ったが、理由はまあ納得できるものだ。地方行政に明るくない春穂でも、経済の発展が重要だと言うことくらいは解る。

 春穂は一度深く頷いて思考を整理してから、携えていた疑問を市長にぶつけることを決めた。


「経緯は、理解できました。ですが、私達にはどうしても納得できないことがいくつかあるのです」

「と、仰りますと?」

「まず、うららロードの解体を決定事項として移動を請求しているにも関わらず、その後の保障が何ら説明されていないということです。私達のほとんどがうららロードで生活しているということを、市役所の方々が知らないわけはないでしょう。いくら市の土地を使っているからと言って、店と家を同時に失わせて放置とはあまりに酷な仕打ちではないかと。これを市役所の担当の方に尋ねようと電話をさせていただいたところ、自分の一存では何も言えないとのことでまともな回答が得られませんでした。━━ご説明、願えませんか?」


 春穂が小首を傾げてみせると、市長は申し訳なさそうに眉根を下げた。


「市議会の決定としても、保障はもちろん行うつもりです。市民の方々を路頭に迷わせる気は毛頭ありません。……が、その内容を決定して明記する前に、あなた方に書類が送られてしまったのです」

「……? 送られてしまった、とはどういうことです?」

「指定経済地域は、市役所の中では経済政策課というところに属します。うららロード解体を市議会で決定した後、事の主導権は経済政策課に委ねられました。そこで大型商業施設を経営する企業と交渉が始まったわけですが、なんと開始から三日という早さで一つの企業と話がまとまったのです。それが、篠原コーポレーションでした」


 春穂も律希も、同時に目を見開いた。今まで極力無表情無言で威圧役に徹してくれていた神父さんまでもが驚きを滲ませている。

 三日とは、いくらなんでも早すぎる。どんな大企業だとしても、大型商業施設の建設となるとかなりのビッグプロジェクトになるはずだ。そうおいそれと決められるものではない。

 春穂の元就職先は小さな部品工場だったが、そこでも新規の契約が持ち掛けられた際はけしてすぐに了承せず、社長交えたみんなで十二分に話し合ってから決定することが義務付けられていると聞いたことがある。安易に契約を結ぶと損害に繋がることもありうるので、慎重に事を運ばなくてはならないのだとかつて事務員の女性は言っていた。春穂もなるほどと思ったし、たとえどんな企業だろうと当たり前に実践しなくてはいけないことなのだろうなとも思った。

 だからこそ、今。春穂は篠原コーポレーションという企業を心底不気味に感じる。

 大型商業施設を抱えているくらいなのだから、おそらく篠原コーポレーションは大企業の枠に入るのだろう。今まで数え切れないほどの取捨選択を経て成長を遂げた企業だ。安い土地を目の前にぶら下げられたからといってすぐさま飛びつくほど、果たして浅慮な企業なのだろうか。

 春穂の中で生まれた疑問に答えるように、市長は続けた。


「交渉以前に、篠原コーポレーションには新たな大型商業施設建設の計画があったようです。篠原コーポレーションは昨年とある大企業の傘下に加わってから、随分と活発になっていましたから。確か……築山ホールディングスでしたか」

「━━っ」

「そこの後押しもあって、今回の速すぎる決定になったものと思われます」


 ひゅう、と春穂の喉の奥に空気が貼り付いた。驚きと憤りに似たものが思考回路を一瞬ショートさせて、まるで自分だけが現実から隔離されたように周囲の音が遠く聞こえる。

 春穂が我に返ることができたのは、対応が遅れた春穂に代わって会話を続けた律希の声が聞こえてからだった。

 いつの間にか春穂の拳の上には律希の手が乗っており、人肌のぬくもりの中で初めて自分が震えていたことに気づく。徐々に力を抜いて拳を解くと、律希の手はそっと手の甲を撫でてから離れていった。……律希には初めて会ったときに洗いざらい話してしまっていたので、春穂が今し方受けた衝撃を悟ってくれたらしい。安心させるような触れ方だった。

 どうにか気力で思考回路を立て直して、春穂はひとまず聞き役に回る。市長と律希の話はまとめに入ったところだった。


「━━篠原コーポレーションの意向では来年度から着手したいとのことでしたから、その通りに進めるとするとうららロードの皆様には今年度内に移動してもらわねばなりません。なのでひとまず通達だけして、細かなことは決まり次第おいおい伝えていこう、と経政課は決めたそうで」

「どうりで性急なわけだ……。でも、いくら何でも対応が雑すぎるでしょう。家も仕事も一切合切失うかもしれないっていう不安を抱えたまま、移動なんてできるわけがない」

「仰る通りです。篠原コーポレーションが好条件だったということで焦りすぎたようで、責任者には厳重注意を行いました。保障については今月中に書類にまとめて送付させていただくつもりです」

「そうですか。……ありがとうございます。事の運びの請求さについても後で尋ねようと思っていたので、一気に理解できました」

「これで、私が話しうる情報はあらかたお渡しできたかと思います。そこで、今日の本題なのですが……」

「直接請求の件ですね?」


 春穂が律希から会話を引き継げば、市長は深く頷いた。膝の上で手を組み、僅かに身を乗り出している。

 表情の険しさは相変わらずだが、それが先程までとは違って申し訳なさから来るものではないということはすぐに分かった。自然、春穂の背筋が伸びる。

 市長は口元だけで苦笑の形を作った。


「正直、まさかこう来るとは思ってもみませんでした。愛着のある場所でしょうから多少の反対は想定していましたが、直接請求の行使とは、と。もちろんそれを止めるつもりはあるませんし、止められません。市民の皆様が持つ不可侵の権利ですから。━━しかし、今回の一件は例外的なものです。適用可能なのは条例の改正・撤廃における直接請求の定義でしょうが、これが果たして条例の改正・撤廃かというとそうでもないですからね」


 ━━来た。春穂はぐっと表情を引き締めた。提案当初から予想していた内容だ。

 ここで退いてはならないと春穂が口を挟もうとした、次の瞬間。


「━━だから、少し取引をしませんか?」


 市長が見せた不敵な笑みと提案に、喉の奥で言葉が潰れた。

 春穂は怪訝に眉をひそめる。


「取引、ですか?」

「ええ。今回の件において直接請求の適応を認める代わりに、こちらからもいくつか条件を付けさせていただきたいのです。まあ、いくつかと言っても三つだけですが」

「その条件と言うと?」


 春穂が問うと、市長は傍らに置いてあったクリアファイルから書類を一枚取り出した。それを机に置き、春穂に向かって滑らせる。

 市の正式な文書として作られているらしい書類の隅には、市長の印といつか見た金魚草の印が押されていた。手に取って、律希と共に文字の羅列を目で追う。

 時候の挨拶も何もかも取り払って極限までシンプルになっている書類には、とても簡潔に春穂達のすべき事が記されていた。


『指定経済地域、通称うららロードによる今回の特殊な直接請求において、以下の三つの条件を設定する。


 一。直接請求に必要な有権者の署名数を、綾深市全有権者数の二分の一とする。

 二。同日までのうららロード全体での総売上額を、前年度の一・七倍以上にする。

 三。上記二つを達成した上で、期限を本年度三月二十日までとする』


 春穂も律希も、どう反応していいか分からずに硬直した。

 直接請求に必要な有権者の署名数というのは何を請求するかによって変わるが、それでも最大で有権者数の三分の一だ。三分の一でもかなり難航すると踏んでいたのに……まさか、半数とは。

 更に総売上を前年度の一・七倍になんて、無茶振りにも程があるのではないだろうか。もし普通の企業でこんな命令が出たら、社員全員でストライキ決行は目に見えている。


 書類を神父さんに回して顔を上げた春穂達に市長は一つ頷いて、ソファに深く腰掛けた。


「先日の連絡の後、急遽開かれた議会で決定した条件がそれです。市では指定経済地域の件を綾深市の未来に関わる一大プロジェクトと捉えていますので、それを覆すとなれば当然署名の必要数も多くなる、というのが議会の認識です。そして、先程述べた通り、指定経済地区は経済の発展を目的とした場所です。経済が発展しなければ意味がない。よって前年度の一・七倍━━つまり初年度の総売上額を達成してもらうことで、経済発展に貢献ありと認めるということです」

「もし、それが達成できなければ……」

「本年度をもって、うららロードの皆様には指定経済地域より移動していただきます」


 ━━決定事項を突きつけられるのは、もう何度目になるだろうか。

 春穂が見つけて手に入れた道は、その度にことごとく擦り潰されていく。

 やっとの思いで見つけた一筋の希望さえ、掴み取る前に遙か高みへと浚われて。反動のように滲んでくる絶望が全身にまとわりついて、重い。

 手段があるなら賭けてみたい。その気持ちはずっと変わっていないのに、急激に低くなった可能性が弱気を生んで春穂の喉を萎縮させる。……一体どう返すのが正解なんだろう。受け入れても、果たしてあたし達はこれを完遂できるのだろうか。


 噛みしめていた唇から鉄臭い味が広がったとき、落ちついた太い声が不意に春穂の意識を割った。


「失礼。少し、外で連絡をさせていただきます」


 書類を持ったまま、神父さんが席を立つ。おそらくうららロードと連絡を取ってくれるのだろう。春穂と律希に深い笑みを向けて、神父さんは市長室を出ていった。

 年長者の笑みというのは、どうしてこうも安心できるのだろうか。自然とほどけた唇から、春穂は一つ息を漏らした。隣の律希と目を見合わせて、互いに動揺を宥めあう。


 やがて五分もせずにひょっこりと室内に顔を覗かせた神父さんは、春穂を手招きして外に呼んだ。

 蘭子と通話中のままのスマホを渡されたので、小首を傾げながらも耳に当ててみる。


「もしもし、春穂です」

『ああ、春穂ちゃん。お疲れ様。今ね、神父くんから話聞いて、みんなと相談してみたんだけど……かなり、難しそうね』

「……はい」

『でも、可能性はゼロじゃないものね』

「……は、い」


 ふふっ、と。軽やかな笑い声が聞こえた。


『━━やってみましょう、春穂ちゃん。うららロードは全力で受けて立つわ。あたし達の手で、未来を掴み取ってみせましょう?』


 はい。答えた春穂の声は、震えながらも喜びに溢れていた。

 スマホを神父さんに返し、市長室へと戻る。ソファに座った春穂の表情を見た律希は、それだけで全てを悟ったようだった。

 春穂は一度ゆっくりと目を閉じて、開ける。


 戦の合図にふさわしく。

 背筋を伸ばして、さあ、笑え。


「お待たせしました、市長。私達うららロードは、提示された条件を全て呑んだ上で、直接請求を行います」

「ほう。私が言うのも何ですが、相当に難しいよ思いますよ?」

「いくら難しくても、不可能ではない。うららロードは全力で受けて立ちます。━━大切なものを、守り抜いて見せます」


 蘭子の言葉を借りて伝えるのは、うららロードの宣戦布告。それは春穂の張りのある声によって強さを増し、響き渡った。


 幸せな春をゴールに据えて、今、春穂達はスタートラインに立つ。





【綾深市】


 総人口:十九万五千二百八十二人

 うち有権者:十五万四千百七十三人


 必要署名数:七万七千八十七人分


 現在署名数:ゼロ

次からはちゃんとパンも出てくる……と思います。

気長にお待ち下さると嬉しいですm(__)m

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