繋がり≒照れ顔
大変長らくお待たせ致しました……。
うららロード、反撃開始です!
蝉が死に物狂いで嫁取りをする声があまりに大きくて、夏だなぁとしみじみ思う。
綾深市役所はその敷地をぐるりと落葉樹の木立に囲まれているので、全方位から様々な蝉の鳴き声が聞こえてくるのだ。蝉達が命懸けの恋のためにこの混声合唱を奏でているのだと思えば、なんだかロマンチックな気分にならなくもない、かもしれない。
暑さにとろけかけた脳で、春穂はぼんやりとそんなことを考えた。スーツ姿というのもあり、現在体感温度と湿度がとんでもないことになっている。
「うぅ、日傘さしてても暑い……」
「今年初の猛暑日に今年初のスーツ着用とは思わなかったなぁ、ほんと」
「律希さんも入りますか? 日傘。ちょっとは楽になりますよ」
「ん、入れて。俺持つわ」
レースの縁取りが入ったシンプルな日傘を律希と共有しつつ歩いて、やっとの思いで屋内に入る。アポイントメントは事前にちゃんと取っているので、その足で最上階へと向かった。
目的の部屋の前では、先に到着していたらしいうららロードの教会の神父さんがこれまたスーツ姿でソファに腰掛けていた。先日あった義晴の結婚式で、なぜか律希にヘッドロックを決めていた御仁である。
「おっちゃん早いな」
「こんにちは、神父さん」
「おう律希、春穂ちゃんも。俺はここから家が近いからな、歩きで早めに来てたんだ」
にかっと豪快な神父さんの笑顔に、この間からずっと胸を縛っている緊張がほんの少しほぐれた気がした。静かに一つ息を吐いて、本日の戦場への入り口を見つめる。
飴のように艶めく木製の扉を持つここが、綾深市長室。
本日、春穂達は直接請求の件について市長に直談判すべくここに来たのだ。
春穂がうららロード解体の打開策を思いついた日の夜、急遽カフェ《Iberis》において会合が開かれた。話題はもちろんその打開策━━直接請求を行うかについてだ。
発案者として春穂が内容を述べると、皆は実に様々な反応を見せた。
それも当然のことだと思う。
直接請求は強力な手段なだけに、とても大勢の協力を必要とする。逆に言えば、署名が集まらなければ一切効力を発揮しない。某国民的マンガにある究極奥義と似たようなものなのだ。うららロードが解体された後に建つのが便利な大型商業施設ということで、有権者の署名が集まりにくいのではないかという大きな懸念がある。必要数が集まるまでの時間もどれほどかかるか分からない。
それに、そもそも指定経済区域というイレギュラーな存在であるうららロードに直接請求が適用されるか、という点もある。本来ならば条例の制定や撤廃、議会の解散などを求める直接請求をどこまで拡大解釈できるか。こればかりはもう市と交渉、に見せかけたゴリ押しをしなければならない。
全てを踏まえた上で、しかし春穂は。
「……あたしは、何もしないで失うのだけは嫌なんです」
就職先が潰れたのを知った、あの時。工場は既に経営破綻していて、春穂に為す術など何一つなかった。理不尽な現実を受け入れるしかなかった。
けれど、今は違う。
「手段があるなら、賭けてみたい。たとえそれが失敗に終わっても、結局行き着くところは同じなら、抗いたいんです」
絶対に受け入れてたまるものか。
まだ為す術はあるのだ。まだ失われていないのだ。
あたしの大切を、誰にも奪わせはしない。
春穂が口を閉ざしたことによって生まれた沈黙を切ったのは、たおやかな響きを備えた鶴の一声だった。
「やりましょう、皆さん」
発したのは、先月ケーキ屋の義晴と結婚した新妻の志帆だった。義晴とは別の職業に就いているらしい彼女は、今日は仕事が早く終わったとかで会合に参加していたのだ。
志帆は纖手でそっと下腹部を撫でると、落ち着いた声で続けた。
「春穂さんの言う通り、どの道結果が同じなら可能性のある方へ進みたいもの。……この子がうららロード以外で育つ姿なんて、想像できないし、ね」
一瞬の静寂。
そして、盛大な歓声。
志帆の隣で顔を真っ赤にした義晴が友人一同にどつかれながら何度も何度も彼女に確かめて、彼女は照れくさそうに頷いて、最終的に義晴が嬉し泣きになって志帆を抱きしめた。
春穂も律希も驚いて、それから嬉しくなって、笑う。
うららロード初の三世代目が、志帆の胎内に宿っているのだ。
育まれゆく命を知って。うららロードの中できちんと時代が受け継がれていることを知って。
その先の未来を望まない者は、誰一人としていなかった。
かくして直接請求の行使は決定し、市役所に宣戦布告の連絡をぶちかましたところ、何故か一回だけでいいから直接話したいというお願いが返ってきた。
うららロードはそれを聞き入れ、発案者の春穂とフォロー役で律希、そして威圧感担当神父さんの三人で翌土曜日に市役所に赴くことに相成ったのだ。
ツヤツヤの扉を見つめていると次第に腹が括れてきて、これ高そうだけど税金いくら使ったんだろうなぁ、ちょっとおいしそうだなぁ、などと意識が別の方向に向いてきた辺りで春穂は神父さんを振り向いた。
そのまま深く頭を垂れる。
「神父さん、今日は本当にありがとうございます。……巻き込んでしまって」
「どうかそれは言わんでくれ、春穂ちゃん」
言い切る前に、神父さんは春穂の頭をガシガシと撫でる。荒っぽくて少し痛いが、どことなく律希の手の感じと似ていて落ち着く。
「そもそも巻き込まれたんじゃねぇ、俺が来たくて来てるんだ。……お前がやっとの思いで手に入れた居場所だ。奪わせてたまるかってんだよ」
後半は多分律希への言葉だ。言われた律希は照れ隠しのように俯いて、「……ありがと、おっちゃん」と返した。
おうよ、と剛毅な笑みを見せる神父さんは、本当は春穂達と一緒に市役所の決定に抵う必要などないのだ。計画案では、うららロード解体後も教会と結婚式場はそのまま残ることになっているから。
けれど、神父さんはうららロード解体に全力で反対して、今こうして市役所にまで来てくれた。
心強い味方の存在がこの上なく嬉しくてありがたくて、涙が出そうになる。
頭を上げた春穂の頭を撫で続けながら、神父さんはもう片方の手で律希の頭をわっしゃわっしゃと撫でた。
「俺はよ。うららロードは、『春の街』だと思ってるんだ」
「春の街?」
「ああ。寒くて寒くて凍えちまいそうな時ってのは誰しも人生どこかしらであるもんだが、うららロードではそんなもんいつの間にか消え失せちまう。丁度、冬からあったかい春になるみたいにな。だから春の街だ」
春穂にも覚えがあるからよく分かる。かつて就職先を失って凍えそうだった春穂の心を、律希は、うららロードは温めてくれた。今も春穂を包む優しくて穏やかなぬくもりは、まさしく雪解けの春のそれだ。
神父さんは手を止めて、春穂を見据える。
「あのあったかい場所が消えるなんざ、俺はどうしたって許せねぇんだよ。……春穂ちゃんは『春風』だからな。どうか頑張って、来年の春をあの街に連れてきてくれ」
「え、春風? ってどういう……」
「さて、な。いつか律希にでも訊いてみな」
「律希さんに?」
おもむろに律希を見て、春穂はぎょっと目を見開いた。
━━赤い。手のひらで顔を覆っているものの、辛うじて見える目元や髪から覗く耳が熱の色をしている。よく見れば首筋までほんのりと上気している。
照れているのだろうか。でもどうしていきなり。
初めて見る表情があまりに新鮮でつい見つめていると、春穂の視線に気づいた律希が恥ずかしげに目を伏せた。「ごめん、あんま見ないで」と囁く様は……正直に言ってかなりときめいた。照れ顔は正義とどこかの誰かが言っていたような記憶があるが、今心からそのお方に賛同したい。
律希はしばらく目を伏せていたが、やがて眉間に皺を寄せて思い切り神父さんを睨み付けた。
「おっちゃん、後で一発殴らせろ」
「春穂ちゃん助けてくれ」
「へ? えと……律希さん、とりあえず暴力は止めときましょう。パン職人の手が傷つくなんて言語道断ですよ」
「……それもそうだね」
「律希さんのおいしいパンが食べられなくなるなんて、あたし絶対に嫌ですし。それに、来週はパン教室でしょう? 律希先生はケガ厳禁です」
本来なら春穂は本日律希にパン作りを教えてもらう予定だったのだが、市長との話が入ったために急遽後回しになっていたのだ。人差し指を立てて言うと、律希はどこか嬉しそうに微笑んで頷いた。どうやら納得してくれたようだ。
神父さんに撫でられたせいで乱れた髪を直すなどしていると、やがて市長室の扉が開いて、中から年若い男性が一人出てきた。
「大変お待たせいたしました。指定経済地域の方々ですね。どうぞ、お入りください」
いよいよ戦闘開始だ。春穂は気と表情を引き締めて、威勢よくヒールを鳴らした。
……市長室の扉をくぐる瞬間、そう言えば律希に春風のことを訊きそびれたなと意識の隅の方で思った。




