光明≒春風
週末にかけて本州を襲った台風は、幸いなことに甚大な被害を及ぼすこともなく綾深市を通り過ぎていった。ついでに空気中の湿気を全て連れていってくれたかのように、明けた翌週はカラリと晴れ模様だ。
お天道様がきらきらと夏の光を飛ばす下で、しかしうららロードの嵐は未だ去らずに猛威を振るっていた。
「やっぱり難しいみたいね」
三時のおやつ時、休憩室にフルーツポンチを持ってきてくれた蘭子は渋い顔でそう言った。ほんの数分前まで、交渉という名の抵抗を行うために市役所に電話をかけていたらしい。
サイダーの中で宝石のように輝くフルーツに手をつけるのも忘れて、春穂はきつく唇を噛んだ。隣では、律希が拳を握り締めている。
「電話たらい回しにされた挙げ句にようやく責任者か担当者かと話せたと思ったら、『市の土地をどう使うかは市議会によって決定されますので、私の一存では……』とか何とか宣いやがったわよ。保障のことも質問してみたけど全く同じ。のらりくらりでマトモな回答なんて得られなかったわ」
「単純に縦割り行政のせいで分からないのか、それともわざとかわしてるのかって感じですね……」
「さて、ね。でも流石に、担当者にまで電話してもこんなザマなんて思わなかったわ。もういっそ議会に乗り込んでやろうかしらね」
いつもはほのぼの朗らかな蘭子の雰囲気が殺伐としている。余程その担当者とやらにご立腹のようだ。
うららロード解体が決定されて以降、各店舗が各々のツテやコネを使って内情を知ろうとしているが、どうにも巧くいっていないのだと弥夕が言っていた。立ち退きに抗おうにも、あまりに情報量の少ないこの状況では不利すぎる。
「……まだまだ、頑張らなくちゃね」
自分に言い聞かせるかのような呟きの後に、ふう、と疲労が滲む溜め息を一つ吐いて、蘭子は店内へと戻っていった。
ほんの一週間前には他愛ない話が弾んでいた休憩室が、重く静まり返る。時が止まってしまったのかと思うほどの静寂の中で、シュワシュワと浮かんでは消えていく炭酸の泡だけが現実は止まらないことを伝えてくれる。
意味もなくその光景を眺めていると、段々と意識がぼんやりしてくる。
……いっそこのまま何も考えることができなくなれば楽なのに。
春穂が思考を手放す寸前で、グレージュの猫っ毛越しにふわりと微かなぬくもりを感じた。
「……春穂ちゃん」
「……はい」
見えたのは横顔で、表情がよく読みとれない。ただ、何となく、どこか泣きそうな顔に映った。
春穂の温度を確かめるように、指の腹がやんわりと地肌を撫でる。
「もし……もしあの日、俺達が出逢ってなくて、春穂ちゃんがここで働くこともなかったら……春穂ちゃんは、今頃どうしてたかな」
自信なんてどこにもなさげな、弱い声。一字一句を受け止めて、春穂はゆっくりと目を見開いた。
もしかして━━この人は、後悔しているのだろうか。あたしを《Harbest》へ連れてきたことを、悔いているのだろうか。
優しくて、手先は器用なのに心は不器用で━━馬鹿な人。
ぎゅうっと顔をしかめた春穂は、心の赴くままに手を伸ばして律希の頬を抓った。もちろん軽めに、だが。
「……律希さんの馬鹿」
こちらを向いた律希を真っ直ぐに見つめて言えば、今度は彼が目を見開く番だった。
「あたしは、もしもの未来なんてどうだっていい。律希さんがここに連れてきてくれたおかげで、たくさんの大切な人に、ものに出逢えたんです。……もしもなんて考えて、あたしが得た『大切』を否定しないでください」
今は失いたくなくてもがき苦しんでいるけれど、それはもううららロードそのものが春穂にとってとても大事なものになっているからだ。大切なものが増えるという喜びを、律希はたくさんたくさん春穂にくれた。
だから、律希が悔いる必要なんてない。春穂の胸を締め付けているのは、ある意味幸せな苦しみなのだから。
最後にやや強めにむにっとやって、律希の頬から手を離す。
律希はしばし呆然としていたが、やがて柔らかい苦笑を浮かべながら春穂の頭をいつも通りに撫でだした。
「そう、だね。ごめん。……うん、確かに、俺もそうだよなぁ」
「? 何がですか?」
「ううん、何でもない。春穂ちゃんはすごいなって思っただけ」
「そう、ですか? 基本的にはただのお節介焼きな食いしん坊ですよ、あたし」
「じゃあそんな食いしん坊さんに悲しい知らせを送ろう。フルーツポンチ、めちゃくちゃぬるくなってるよ」
「え、わあ、忘れてたっ!」
慌ててスプーンを取って、炭酸の中で春穂を待ちわびていたフルーツを掬う。口に運べば炭酸のシュワッとした刺激の後に果汁の洪水が発生して、果物特有の爽やかな甘さが気持ちいい。
春穂はストレスが溜まると味覚が鈍って食欲が落ちていくタチなので、最近あまり食べ物の味がわからなかったのだが、今はくっきりと伝わってくる。さっきまでと比べると身も心も随分と清々しい気がするのは、きっと軽く怒って感情を外に出したせいだ。
みかんと桃の甘酸っぱい二重奏を感じながら、春穂は数分前の自分を心の中で叱りつけた。
思考を手放すなんて、絶対に駄目だ。
考えろ━━手段はきっとある。
冴えた頭は糖分を供給されて、力強く働き始めた。流石は蘭子お手製おやつだ。
これ以上ぬるくならないうちにフルーツポンチを味わいつつも素早く完食して、春穂と律希は各々の仕事場に戻った。
店内には客が一人もいなかったので、パンを買う際のトングやトレイの補充などをしていると、しばらくしてドアベルが客の来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
やって来たのは常連客のきぃちゃん親子だった。先週、春穂が例の噂を知らされて以来二度目の来店だ。
今日もかわいいきぃちゃんは、春穂を見るなり髪の青いリボンを揺らして駆けてきた。
「おねえちゃんっ!」
「ん? どうしたの?」
しゃがんで目線を合わせると、きぃちゃんは何やら決心したような面持ちで堂々たる宣言をした。
「きぃ、ここのパン大好き!」
胸を張って大きな声で、突然のことに目を白黒させた春穂はただ目の前の少女を見つめるばかりだ。
転瞬きぃちゃんは弱々しく眉尻を下げると、俯いてぽろぽろ涙をこぼし始めた。すわ何事かと動揺した春穂の耳に、小さな声が届く。
「もっといっぱい食べるの。……だから、なくなっちゃだめなのっ……」
それは、小さな女の子の大きな望みで。
まさに春穂の写し鏡のようだった。
春穂にしがみついてしゃくりあげるきぃちゃんをおろおろとあやしていると、母親がそっと側に来て「ごめんなさいね」と遠慮がちに笑った。
「この間から、店員さん少し元気なさそうに見えたから。ほんとになくなっちゃうのかなってきぃと話してたら、そんなのやだって言って聞かなくて……。もう一回ちゃんと訊きに行ってみようかって来たんですけど」
そっときぃちゃんの頭を撫でる母親も、寂しそうな声音をしている。
うららロード解体のことを知ってから、確かに春穂は意気消沈していた。それが大切なお客様に不安を与えていたと思うと途端に申し訳なくなってくる。
でも、それ以上に。
どうしようもなく嬉しくて━━。
胸で泣く小さな同士に、春穂は口元をほころばせた。
「きぃちゃん。……ここのパンを大好きでいてくれて、ありがとう。おねえちゃんも同じだよ。ここがなくなるのなんて嫌なんだ」
「ほんとに、なくなっちゃうの……?」
「わからない。でも、今、みんなでとっても頑張ってるから。おねえちゃんもいっぱい頑張るから。絶対なくならないって、信じて」
頑張ろう。頑張ろう。
春穂達の他にもちゃんと、《Harbest》を、うららロードを大切に想ってくれる人がいるのだから。春穂がへこたれてはいられない。
きぃちゃんは春穂の言葉に何度か瞬きをすると、いい返事と共に満面の笑みを見せてくれた。
「さ、きぃ。いつものコロネ買って帰りましょうか」
「うんっ」
「きぃちゃんはコロネが好きだねー」
春穂が微笑ましく言うと、きぃちゃんはきょとんとなる。
「きぃも好きだけど、ママとパパの方がもっと好きだよ。なんかね、ママとパパの、はつデート? の思い出なんだって」
「わ、そうなんだ」
「こら、きぃっ!」
真っ赤になった母親に、昔からご愛顧頂いてたんだなぁ、とありがたく思う。
「初デートの思い出があるなら、尚更なくなるわけにはいきませんね」
「もう、店員さんまで……。でも、あたしも旦那も、ここがなくなっちゃうのは嫌ですから。どうか頑張ってください」
「はい」
コロネを三つ買ったきぃちゃん親子を見送って、閉店時刻までてきぱき仕事をこなす。
きぃちゃんの涙で若干濡れたシャツの胸元は、五時の時報の音楽が鳴る頃にはすっかり乾ききっていた。
午後にあった色々のおかげで、久しぶりに機嫌がいい春穂である。
鼻歌交じりに『Open』の看板を『Closed』に裏返していると、店内で売れ残りのパンをまとめていた律希が優しく笑った。
「ご機嫌だね」
「はい。今日はなんだか嬉しい日でした」
「それはよかった。俺もなんか元気になったわ」
「明日からまた頑張りましょうね」
「みゃあ!」
「「……ん?」」
律希のものではない返事に二人して首を傾げれてみれば、春穂の足下に淡い茶色をした縞模様のもふもふがすり寄っていた。
うららロードの教会猫の一匹、縞模様のしまである。
「わ、律希さん! しまがこんなところにまで来ちゃってます!」
「あーあー、いつの間にここまで来れるようになったんだお前」
「にぃー」
「わー! 店の中に入っちゃ駄目ー!」
大慌てで胴体を捕まえる。食品を扱っている店に動物が入るのは大いにマズい。
しまは律希のところへ行きたいのか、春穂の両手の中でじたばたしている。大変愛くるしいが許すわけにはいかないので、ひとまず教会の小屋に戻すことになった。
「お仕事終わったらちょっとだけ律希さん来てくれるからねー」
教会の裏手にある小屋にしまを入れて、指で顎下をくすぐる。しまはゴロゴロと気持ちよさげに喉を鳴らした。
小屋の屋根を閉めると、不意に春穂の頬を涼やかな海風が撫でた。崖下から水平線まで広がる細波の水面が、夕日に変わり始めた太陽の光を反射して黄金に橙にと輝いている。
思い出すのは、律希にうららロードを案内してもらった時のこと。
教会の中、ステンドグラスを透かした色の光。夕焼けと波の音。言葉を失うほどに綺麗で、同時に胸が高鳴った。
「やっぱり、綺麗だなぁ……」
波音に春穂の呟きが溶ける。
そう言えば、うららロード解体と言ってもこの教会と結婚式場はそのまま残るらしい。あの薄青の封筒に入っていた計画案に曰く、店舗の並びと道路を全て潰して大型商業施設を建て、式場と連携させて結婚率増加と経済発展を狙うのだと。
うららロードがやってることと大して変わりなくね? と律希が言っていたのを思い出す。春穂も心から同感だ。
「なんでうららロードじゃ駄目なんだろ」
わからない。
どうしてうららロードがなくならなくてはいけないんだろう。なくならないでと訴える声が、あるのに。想ってくれる人が、いるのに。
同じようにうららロードを好きな人も、これから好きになっていく人も、きっともっとたくさん━━
「……あ……っ」
瞬間、春穂の脳裏に古い記憶が蘇った。
━━ある。たった一つだけ。
たとえどれほど手持ちの情報が少なくとも、それが市役所━━『地方公共団体の決定』ならば覆せるかもしれない、最大にして最強の手段が。
閃くが早いか、春穂は地面を蹴って駆け出した。
視界の端で店の並びが後ろに後ろに消えていく。石畳の上を無我夢中で走って、辿り着いた《Harbest》のドアを春穂は勢いのまま押し開けた。
けたたましいベルの音を伴って店内に文字通り突っ込んだ春穂に、律希がぎょっと目を瞠る。
「う、わっ!」
「ちょっ、春穂ちゃん!?」
勢いを殺せず派手につんのめった春穂を、律希が寸でのところで抱き留める。
「……セーフ……」
「ご、ごめんなさい……」
「またどうしたの? 滅多にない勢いで」
力強い腕にしがみつきながらなんとか立ち上がった春穂は、全力疾走で乱れた呼吸を整えてから律希を見上げた。
律希の茶色の瞳に、真っ直ぐに春穂の顔が映る。
「律希さん。━━方法、あります。うららロードを失わなくていい道が、手段が、一個だけあるんです」
それは、社会科で誰もが一度は習う権利。
地方公共団体の住民が、同機関に対して持つ直接選挙権の一種。
「直接請求です。条例を決めたりなくしたりするのと同じように、うららロードの存続を要求する旨で有権者の署名を集めれば、市議会の決定をひっくり返せるかもしれません━━!」
嵐を生む暗雲に、季節外れの春風が一陣。
切り裂かれた雲の隙間から射した微かな光明が、この先で消えてしまうのか強く輝き出すのかは、まだ誰も知らない。
個人的には第一章、完! みたいな感じです。
次回からはうららロードのターン!




