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真実≒……

長らくお待たせ致しました。いよいよ……です。

 それから後は、詳しくは覚えていない。いっぱいいっぱいになった頭を懸命に働かせて、どうにか仕事だけはこなせたと思う。

 けれど、いつもおいしくて楽しみにしているお昼ご飯の味がいまいち分からなかった。

 昼食を運んできてくれた蘭子の様子はやはり不自然で、そんな不自然さももしあの噂が事実だとしたら納得がいく。例えば……春穂の元就職先のように、どうしようもない外的要因のせいで店を畳まざるを得なくなったならば。いつも通りでいられないのなんて当たり前のことだ。


 考えれば考えるほどに信憑性がまとわりつく噂は、春穂の嫌な記憶をじくじくと刺激する。

 蘭子に噂の真偽を問いたいのに、もし事実だったらと思うと身も心も竦んで動けない。律希と出逢う前日に味わった、あの世界の底が抜け落ちるような恐怖が春穂の頭の中で蘇っては最悪の想像をさせる。


 不安が喉の奥でぐるぐると渦巻いて、気持ち悪い。


「━━るほちゃん。春穂ちゃん、大丈夫?」

「え、あ……ごめんなさい、ちょっと、ぼうっとしてました」


 心配そうに顔を覗き込んできた律希に、はっと我に返った春穂はぎこちなく笑んだ。接客が終わってほっとしたのか、閉店後の掃除中に動きが止まっていたようだ。

 いけない。思考に気を取られて、目の前の仕事をおろそかにはしたくないのに。

 思わずこぼれた溜め息に、律希の表情が少し険しくなった。


「どうしたの? 昼もちょっと様子変だったけど、もしかして体調悪い?」

「いえ、平気です。ただちょっと考え事してただけで」

「なら良いけど……」


 言いつつ律希は労るように春穂の頭を撫でる。ふわふわした髪越しに伝わる、どうしてかいつも春穂を甘やかしにくるぬくもり。もうすっかり慣れ親しんでしまった心地よい手のひら。


 《Harbest》がなくなると同時に、失うかもしれないもの。




 ━━嫌だ。




 どくん、と心臓が脈打った。まるで凍った血液でも通ったように、サアッと胸が冷えていく。

 きっと春穂の心の一番脆い部分で生まれた叫びを、認識するより先に手が動いていた。気づいたときには、春穂の手は律希のカフェエプロンの裾を握って震えていた。

 律希が目を瞬く。


「……春穂ちゃん?」

「あ……ごめんなさい、あたし」

「謝んなくていいよ。どうしたの?」


 頭に乗っていた律希の手が、春穂をあやすように優しく動く。

 胸で凍った血液が少しずつ溶けだして、奥に溜まっていた言葉が喉元までせり上がった。律希によって散々に甘やかされてきた春穂の思考はそれを押し止めることができずに、こぼれ落ちる。


「……ここ、が。《Harbest》が、なくなるって噂を、聞いたんです」


 傍らで、律希が息を呑んだ気配がした。


「蘭子さんの様子も変だったし、もしかしたら本当かもって訊こうとしたんですけど……こわ、くて。就職先潰れて、でも律希さんと出会って居場所を貰えたのに、また失うのかって思ったら、ずっと頭の中ぐるぐるしちゃって……」


 胸の内を伝え終われば、律希のカフェエプロンの裾を握っていた手からは自然と力が抜けた。

 滑り落ちた春穂の指先に、不意にそっと律希の指先が触れる。もう片方の手では春穂の頭を撫で続けながら、律希は人差し指と中指の二本だけを春穂のそれと繋いだ。

 律希の指のあまりの温かさに、春穂は自分の手が冷えきっていることに気づく。さっきまでかなり強く握っていたから、血行が悪くなっていたのだろう。指先からじんわりと温度が移ってくる感覚と連動して、春穂の心に安心感のようなものが広がった。

 見上げれば、緊張した面持ちの律希がいる。


「……蘭子さんに、確かめよう。ここの存亡は、俺にとっても命題だ。二人でならお互いちょっとは怖さも減るし、一緒に」

「……はい」


 指先を繋いだまま、厨房へと向かう。閉店後、蘭子はいつも剛志と共に厨房の片付けをしているのだ。

 番重を拭いていた蘭子は、春穂と律希に気づくと「どうしたの?」と首を傾げた。


「蘭子さん。……《Harbest》がなくなるって噂が流れてるんですけど、本当ですか?」


 律希の静かな問いに対しての、蘭子の反応で春穂は全てを悟った。

 目を見開いて硬直して、次の瞬間には若々しい美貌が悲しそうに歪む━━繋ぐ二人の指先に、同時に力が籠もった。


 あの噂は、本当なのだ。


 堅い床の感触がどこかへ消える。人生で二度目の感覚にぐらりと傾ぎそうになる体を春穂がどうにか支えられているのは、一度目にはなかった指先のぬくもりのおかげだ。肌を介して直接確かめている存在が、春穂の意識を現実に留めてくれている。

 どうして、と春穂は震える唇で紡いだ。


「どうして……なんですか? お客さん、たくさん来てくれてるのに。剛志さんと律希さんが、毎日おいしいパン焼いてるのに。何で……なくなっちゃうなんて」

「春穂ちゃん……」


 蘭子は番重を置くと、春穂に手を伸ばして頬を撫でた。


「春穂ちゃんは、このお店が好き?」

「はい……大好きです」

「りっくんは?」

「当たり前です。……俺は、ここでやっと、ちゃんと進めるようになったのに」

「そう」


 嬉しさと切なさの混ざった笑みだった。初めて見る類の蘭子の笑顔は見とれてしまうほどに綺麗で、春穂は余計に怖くなった。


「りっくん。今日、大学に遅れても構わないかしら。二人にきちんと話しておきたいの」

「必要な単位はこの間全部取れたから、大丈夫です」

「なら休憩室で少し待ってて。温かいココアでも淹れてくるから」


 言われた通り休憩室で待機していれば、ややあって蘭子が丸い盆にマグカップを三つ乗せてやって来た。

 いつの間にか降り出していた雨のせいで、室内の気温は若干肌寒くなってきていた。絶妙な甘さの温かいココアが冷えた心身に染みる。

 張り詰めていた空気がやや和んだところを見計らって、蘭子はココアと共に持ってきていた一通の封筒を律希に手渡した。


「綾深市役所から?」


 薄青の封筒の下の方には、市名に市の花である金魚草を添えた印が押されてある。春穂も家に届く郵便で何度か目にしたことがあるものだ。

 今律希が持っている封筒には切手も宛先もないので郵便ではないのだろうが、中に入っているのが綾深市からの正式な文書だということは分かる。

 訝しげな表情をして中を漁った律希は、一枚の書類を開いた。春穂も横から覗いてみると内容はいかにもお役所っぽい形態で、無機質な黒のフォントで書かれた文章を素早く目で追う。━━そして、言葉を無くした。


『━━この度は市の経済振興事業の一環として、市の指定経済地域、通称うららロードを解体し、新たに株式会社篠原コーポレーションが全国展開中の大型商業施設を建設する案が市議会において賛成多数で採択されました。

 よって、現在指定経済地域において商業活動を行っている皆様には、本年度末までに同所より移動していただくことを請求します』


 要するにだ。

 綾深市が、ここから立ち退けと言っているのか。《Harbest》だけでなく、うららロードそのものを潰すと言っているのか。

 生まれてから今まで二十一年春穂を育んでくれた故郷に、初めて強烈な怒りが湧いた。


「何、なんですか、これ。何でいきなり、こんな」

「移動請求って、余程のことでもない限り市にこんなこと命令する権限なんてないのに。……そもそもこの指定経済地域って聞いたことないし」

「まあ、今となってはあまり広く知られてる政策じゃないもの。初耳で当然だわ。何しろ始まりが三十年以上前のことだから、りっくんや春穂ちゃんなんて生まれてさえいないしね」


 蘭子は自分のマグカップをテーブルに置くと、膝の上で手を組んだ。


「ここら一帯は、元々市の土地なのよ。昔は市役所なんかがあったんだけど、老朽化やらで何やらで取り壊されて今の場所に移転してからちょっと持て余してたらしくて。このまま宝の持ち腐れ状態で放置するくらいなら、いっそ安く土地を提供して店出させて商業地域にして市の経済回しましょうって議会で決まったの。……市によって定められた経済のための地域だから、指定経済地域。うららロードは、その恩恵を受けて作られたの」


 安く提供された土地に、一軒、また一軒と店が集まり。いつしか商店街のように店が立ち並んでいった。やがて全体に『うららロード』と名前が付く頃には、指定経済地域は見事に人々で賑わっていたのだという。

 やがてそこに教会と結婚式場が加わり、現在のうららロードが完成したのだ。


「でも、いくら年月が経ったって結局のところ土地の所有権は市なのよね。だから市にはあたし達をここからどかす権利があるし、何だったら強制退去も可能よ。……流石にちょっと性急すぎると思うんだけどね、これは」

「これ、蘭子さんはいつ知ったんですか?」

「昨日。会合に来てた役所の人にそれ渡されたわ」


 弥夕と翔琉がもどかしい感じになったことに春穂がにやついている間に、店主世代は《Iberis》店内で衝撃の事実を宣告されていたそうだ。

 だから今朝いきなり蘭子の様子がおかしくなっていたのか、と春穂は一人納得して頷く。昨日の今日では動揺も治まるまい。


「……あれ? でも蘭子さん達が昨日初めて知ったのに、噂がもう広まってるっていくら何でも早すぎませんか?」

「誰かは知らないけど、外堀を埋めてる奴がいるんでしょうね。通告のこの突然さと言い……どうにもキナ臭いわね」

「この会社とどっかで癒着でもしてるんじゃないですか?」


 苛立っているのか、珍しく律希の言葉に険がある。


「しかもこの書類、移動の際の保障も何にも書いてないし……いきなり店と失わせて放置なんて役所の仕事的にいくら何でもおかしいでしょ。全員揃って路頭に迷えってか」

「そこはもう市と掛け合わないとわからないわ。最初の契約自体、昔のことだからいまいちはっきり内容覚えてないし……改めて色々と確認しないといけないわね」


 呼吸を置いて一度言葉を切ってから、でも、と蘭子は強い語調で言った。


「春穂ちゃんもりっくんもここが大好きって言ってくれたから、まずは頑張って抗ってみないとね。昨日聞いてからずっと呆然としてたんだけど、おかげでちょっと気力湧いてきたわ。ありがとう、二人とも」


 身を乗り出した蘭子に頭を撫でられた春穂と律希は、その明るい笑顔を見て、声にこそ出さないものの同じことを考えていた。


 今ここにあるのはなのに。……抗うことなど、できるのだろうか。


 疑問ではなく反語で意味を取ろうとする思考を、春穂は頭を振って無理矢理止めた。

 知った真実は不安を恐怖へと進化させて、毒のように春穂の全てを浸食していく。膝の上で握りしめた手は冷たくなっていて、ついさっき律希に分けてもらった温度も消え失せてしまっていた。


 静まり返った部屋の中で、やけにゆっくりと大きく鳴る自分の心臓の音と、激しい雨音が春穂の耳朶を打つ。


 うららかな道に、嵐が訪れた。

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