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三日月≒転機?

 クロワッサン━━フランス語で『三日月』は『croissant』という。名の通り三日月の形をしたこのパンは、バターを何層にも折り込んで焼くことでお馴染みのサクサクとした食感が生まれるのだ。言わずと知れた有名なパンである。


 今となってはフランスのパンの顔であるクロワッサンだが、出身はオーストリアだと言われている。

 一六八三年、トルコ軍の旗印である三日月をかたどって、ウィーンでパンが作られた。それがクロワッサンの原型だ。後にかのマリー・アントワネットがオーストリアからフランスへと嫁いだ際、彼女のお抱えのパン職人によりもたらされたのだという。そこからバターを折り込む製法の今日のクロワッサンとなったのは、一九〇〇年代前半だそうだ。


 ━━そんなことは露ほども知らぬ春穂は、漂ってくる香りに急に空腹を覚えた。十数分前まではむかつきを訴えていたのに、まったく現金な胃だ。


「ありがとう、ございます」


 春穂は精一杯の笑顔でいただきますと言った。

 端からちぎって口に運ぶと、途端に幸福感に満たされる。サクサクした歯触りの次に、一瞬遅れて染み渡るバターの芳香と言ったら! きっと大量のバターを使っているのだろうに、まったくくどさを感じさせないのが不思議だ。朝食にぴったりの優しい甘さは舌に残らず軽やかにとろけ、もう一口と後を引く。

 どこか懐かしい、泣き疲れて強ばっていた表情筋がひたすらに緩む味わいだ。


「おいしぃー……」

「なら良かった。カフェオレ冷めちゃったけど、新しいの淹れようか?」

「あ、大丈夫です。お構いなく」

「そう」


 カフェオレをちびちび飲みつつ二個目に入ったクロワッサンを一口。香ばしさがより膨らむ幸せのローテーションだ。

 今まで朝食はご飯派だったが、にわかにパン派になりそうな予感である。


 そう言えば、確か彼は毎週水曜に店を出しているのだと言っていた。


「これから水曜日の朝はパンにしようかな」

「ああ、でも━━」


 微笑ましげに春穂を眺めていた彼が唐突に言葉を切ったので、春穂は首を傾げた。

 どうしたのだろう。臨時休業の週でもあるのだろうか。


 彼は少し思案するようなそぶりの後、屈託のない笑みを浮かべて身を乗り出した。柔らかいダークブラウンの髪がふわふわ動く。


「ねえ。君、うちで働いてみない?」


 いきなりの提案に、春穂はきょとんと目を丸くした。


「うち……って、このお店ですか?」

「まあ、半分はそう。この移動販売は水曜だけなんだけど、ちょっと離れたところに本店があって。俺、普段はそこで働いてるんだけど……どう、かな?」

「え、どうかなって……いいんですか?」

「まだ多分としか言えないけどね。親父さんと奥さんに聞かなきゃだし……でも最近奥さん腰が痛いって言ってたから、人員増えたら助かると思う」


 また、春穂の瞼にじわりと水が滲む。

 この人は━━一体どれだけ春穂を救おうとしてくれるのだろう。やけ酒に酔い潰れていたはた迷惑な小娘に、どうしてこうも親切に手を差し伸べてくれるのだろう。


 人の情が、擦り切れそうだった心に静かに染みる。嬉し泣きなんて生まれて初めてかもしれない。


 春穂は食べかけのクロワッサンを皿に置いて、居住まいを正した。


「働きたい、です……! お口添え、お願いします」


 面接対策で習ったことを総動員させて丁寧に腰を折ると、彼は「了解」と短く答えた。


 じゃあちょっと連絡してくるね、と彼が席を外したので、春穂は残りのクロワッサンをちまちま食べる。端からちぎられていった三日月は残すところあと少しとなり、なんだか寂しい。

 しかしいくらいじましく食べたとて減る物は減るのだ。最後の一口を心行くまで堪能して、思いがけない素敵な朝食は終了となった。


 ふう、と満足の息が出る。バターの香りとはどうしてここまで人をリッチな気分にさせてくれるのか。

 すっかり冷めてしまったカフェオレを一気に喉に流し込んだところで、彼が戻ってきた。


「奥さんに聞いてみたら、働いてくれるのは嬉しいけどやっぱり一回顔は合わせたいって。こっちでの仕事終わりに連れて来られないかって言ってたんだけど、これから予定ある?」

「特にないです。……っていうか、本当に、いいんですか?」

「うん。見たところ礼儀がきっちりしてて、はきはき喋れて、何より、めちゃくちゃ美味しそうにパンを食べる。少なくともこの時点でパン屋の従業員としては満点だよ」


 一つ一つ指折り数えられて、とどめに極上の笑顔がついてきた。不覚にも心臓が跳ねる。


「それに、自分の作ったもん幸せそうに食べてくれる子に好感持つのは当然でしょ。もうこの時点で俺は大歓迎。お客さんだって可愛い子に接客された方が嬉しいだろうし」


 これ以上追い打ちをかけてくれるな、と春穂は目をそらす。耳がじわーっと熱くなった。

 これ以上反駁してはいけない。心臓に悪い。そう感じ取って、春穂は素直に厚意に甘えることにした。蚊の鳴くような声で「ありがとうございます」とだけ呟く。


「あと、ごちそうさまでした」

「お粗末様でした。俺、そろそろ店開けなきゃなんないから、この後どうする?」

「えっと、とりあえず一回家に帰りたいです。身支度とか色々したいので」

「じゃあ九時半頃を目処に戻ってきて。スーツとか着て来ないでね、今みたいな格好で十分だから」

「分かりました」


 とは言うものの、スーツというのは何かと便利な服装なのだ。それを持っていかれたならどうするか。毛布を畳みつつ脳内でクローゼットを漁る。

 やっぱりスカートかなぁ、などと考えながら立ち上がった春穂は、後ろから軽く肩を叩かれた。


「ふむっ!?」


 振り向くと口に何かが突っ込まれた。


「おまけ」


 いたずらっ子のような表情をした彼が春穂の口に入れたのはーー春穂が食べたものより一回りミニサイズのクロワッサンだ。


 春穂は目を真ん丸にしてひとまずそれを摘み、もぐ、と噛みきった。

 動作がやたらゆっくりになったのは、いきなり口にクロワッサンを突っ込まれた驚きというのももちろんあるが、彼の表情に見とれたのが大半だ。


 春穂と年近いであろう穏やかな顔に、ほのかにやんちゃそうなあどけなさが浮かぶ━━その破壊力たるや。あれか、これがいわゆるギャップ萌えってやつか。動揺した春穂の心臓は瞬時にしてうるさくなる。胸の中でドラムロールが鳴っているみたいだ。

 硬直する春穂に、彼はやや不安げな色を瞳に滲ませた。


「……まずかった?」

「ふあ、ひえ! ほいひいへふ」


 口をもぐもぐさせながらも真剣な面持ちで言うと、今度はくしゃっと頭を撫でられた。

 本日三回目である。人の頭撫でるの好きなのかなぁ、と髪に差し込まれる指の腹を感じて思う。主に精神面でくすぐったくて心地いい。

 手からほんのり甘い香りがするのは、きっとパンの香りが染み着いているのだろう。今しがた春穂が飲み込んだクロワッサンの香りとよく似ている。


「じゃあまた九時半に」

「はい」


 ひとしきりわしゃわしゃして満足したのか、最後にぽんと叩かれて締めくくりとなった。


 ……あたしは頭撫でられるのが好きなのかな?

 離れた温度が妙に名残惜しくて春穂は小首を傾げた。だがそんな些細な自問は二口目のバターの香りの前に溶け去る。


 手を振る彼に見送られて、春穂は自宅へと足を向けた。

パンの豆知識に関しては、活動報告に参考文献を記載してあります(^-^)

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