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差異≒知らせ

初回投稿時、うっかりサブタイトルを間違えて投稿していました! 7月22日、訂正致しました。


「春穂ちゃん、どうしたのそのほっぺ」

「さっき弥夕にほっぺつねりの刑に処されまして」


 色々あったが今日もいつも通りの朝食前。赤くなった両頬をさする春穂に、律希はくつくつ笑った。


「いつの間にかすっかり仲良くなったね。春穂ちゃんがウチに来てからもう三ヶ月か」

「早いですね。もうそんなに経ったんだ」


 律希と出逢ってから、真新しい日々はめまぐるしく過ぎていった。思い返せば、あっと言う間にいろんなことがあったものだ。

 三月のあの日、世界の底が抜けるような感覚に震えていた自分に言ってやりたい。お前は未来で何だかんだ充実した毎日を送れているから大丈夫だよ、と。


 感慨に浸っていると、不意に律希の手が春穂の頭に乗った。


「パン屋の店員も板に付いてきたね」

「そうですか? まだまだ勉強不足ですよ」

「熱心だなぁ」


 わしゃわしゃ、と微笑ましげに髪を撫でられる。


「また今度作り方教えよっか? 今度は……そうだね、フランスパン辺りかな」

「わあ、作ってみたいです!」

「じゃあ来週の定休日でどう?」

「あ、お願……いしたいのは山々ですけど、流石にお邪魔しすぎじゃないですか? あたし」


 この前は『律希さんは紳士だしお互い誤解されて困るような人もいないし大丈夫かー』ということで律希の家で講習会だったのだが、今頭をよぎったのは先日会った春穂の高校の先輩である。

 彼女━━桃香は明らかに律希に狙いを定めて攻略中なのに、そんな女性を差し置いて春穂が律希の家にお邪魔するのは申し訳ないような気がする。別に彼女ではないのだから構わないと言えば構わないのだろうが、何となく気が引けてしまうのだ。

 お邪魔虫にはなりたくない。

 胸中の不安のようなものが表情に出ていたのか、頭を撫でる律希の指が少し荒っぽくなった。乱れたグレージュの猫っ毛が幾筋かシュシュから抜けていく。


「わ、律希さん?」

「春穂ちゃんはちょっと遠慮しがちって言うか、気にしいなところあるよね」

「そう、ですか? 別にそんなつもりはないんですけど……」

「結局のところお人好しだってことかな」

「うーん……あたし、別にそんなお人好しではないと思いますよ? お節介焼きなのは自覚してますけど、そこそこドライな時だってありますし」


 律希はたまにこんな風に春穂をお人好しだと言うが、春穂自身そう思ったことは一度だってない。嫌いな人ははっきり嫌いだし、苦手な人は適当にあしらったりもする。その辺の線引きはちゃんとしているつもりだ。

 小首を傾げて律希を見上げると、彼はふわりと柔らかく笑って言った。


「それでも俺からしたら充分すぎるくらいお人好しだよ、春穂ちゃんは」


 ……いくら耐性が付いていると言ったって。慣れてきたと言ったって。

 至近距離で不意打ちの笑顔はやっぱり色々と心臓に悪いんですよ律希さん! あなた美形なんですから!

 和太鼓レベルの鼓動を打つ心臓に、ちょっと鳴りすぎじゃと春穂が自分で動揺していると、急に外からガタン! と大きな音がして肩が跳ねた。

 よく聞けば、細く甲高い風の声もする。


「大分風出てきたね」

「何か倒れましたかね? 一応、黒板は中にしまっといたんですけど」

「ああ、だったら大丈夫。植木鉢もないし、倒れるものって言ったらそれくらいだから。もうちょい風強くなったら、あの開店閉店のちっちゃい看板も中に掛けないといけないけど」

「分かりました。後でやっときます」

「ありがと」


 現在、梅雨前線と台風がお手々繋いで本州に接近中である。今週末には綾深市にも上陸とのことで、そろそろ用心しなくてはならない頃だ。

 春穂は乱れた髪を一度ほどいて、手櫛で梳きつつ溜め息をついた。出勤は大変になるし客足は遠のくしで、最近は特に風雨の日が好きでない。じめじめした空気を逃がすように、春穂はいつもより心持ち上めに髪をまとめた。


「お待たせ、朝ご飯よ~」

「わーい」


 本州がどれほどの低気圧でも、だがしかし蘭子が皿を二枚持って休憩室にやって来ると気分は高気圧と化す春穂である。それを見て律希が笑い、蘭子も朗らかな笑みを見せるというのがここ三ヶ月で《Harbest》の恒例となった。

 けれど。


「……春穂ちゃんは、今日も可愛いわね」


 突然そう言った蘭子は、何故かひどく安堵したような表情をしていて。朗らかさの代わりに切なさのようなものがそこにはあった。


「りっくんも男前よ」


 次にその表情を向けられた律希も違和感に気づいたらしい。

 二人して唖然としている間に、蘭子は普段と同じように厨房へと戻っていった。


「……蘭子さん、様子が……」

「変、だったね。あんな顔見たことない」

「律希さんでもですか?」

「うん……何かあったのかな。そう言えば、親父さんも朝からずっと険しい顔してたし」


 その日の朝食はツナとニンジンとチーズのオープンサンドだったが、胸騒ぎと共に咀嚼したからかあまり味わえなかった。





 《Harbest》には食パンやクロワッサンなどの定番的なパンとは別に、店主の気分によって作られたり作られなかったり種類が変わったりする『気分屋店主の変わり種パン』なるものが存在する。商品名を示すカード(蘭子お手製)にそう書いてあるのだ。

 剛志はどうやら昨日今日とカレーの気分らしい、と焼きたてのナンを陳列中に思う。


 ナンと言えばインドのイメージが強いが、他にもパキスタンやイラン、アフガニスタンなどでも食べられている。

 形は様々だが、日本でよく目にする二等辺三角形のような形のものはインド、それも北の方で主に作られているそうだ。タンドール窯という壷に似た形の窯の内側に、生地を指で伸ばしつつ張り付けて焼くことであの形状になるのだ。専用窯が必要と言うことで、本場ではナンは高級品とされている。

 小規模なリテールベーカリー(店の中にパン作りのための厨房があるベーカリー)である《Harbest》にはもちろんタンドール窯はないが、そこは臨機応変にということでホットプレートを使用して作っているらしい。


 じめじめする時には確かに辛いものを食べてスカッとするのもいいよね、と春穂は後でナンを購入して、帰りにスーパーでカレールーを買うことにした。今日の夕飯は夏野菜のキーマカレーにしよう。うん、おいしそうだ。

 もしかすると同じ思考の人もいるかな? と春穂はナンの籠を店内中央の丸テーブルに置いた。この丸テーブルには新作やおすすめの品を二、三種類置くのだが、最近置く品は春穂の決定に任されるようになった。そんなところからも進歩が見えるような気がして嬉しい。

 ……食いしん坊が選ぶなら安心、という感じもまあ否めなくはないが。


 己の食欲につい溜め息をこぼせば、その重さに引きずられてさっきの胸騒ぎが蘇る。一体どうしたのだろう、今日の蘭子は。

 人間誰しも、落ち込む日やしんどい日はあるだろう。けれど、そういう類のものではないというのは何となくでも分かる。


 ……何かあったのだろうか。


 お節介気質も相まってか、春穂は時々こうして考えても仕方のないことをぐるぐる考えてしまう。自分でも悪い癖だとは思うのだが、癖というのはなかなかどうして直ってくれないものだ。

 思考の渦に落ちかけていた春穂の意識を現実に引き戻したのは、いつもと何ら変わらないドアベルの音だった。


「いらしゃいませ」


 瞬時に思考を切り替えて顔をドアに向けると、そこにはいつか移動販売の時におつかいに来た小さな女の子━━きぃちゃんが母親と一緒に立っていた。

 元々母親が本店の方の常連客だったらしいきぃちゃんは、何でもあのおつかい以降お手伝いに目覚めたそうで。最近はしょっちゅう親子二人で《Harbest》に来ては、購入したパンの袋を「ママ重いからきぃが持つの!」と言って聞かないのだとこの前母親が言っていた。微笑ましい話だ。

 最初おつかいに来たときには緊張していたきぃちゃんも、今ではすっかり打ち解けて満面の笑みで春穂に手を振ってくれる。


「おねぇちゃん、おはよー」

「おはよう。いつもありがとねー」

「うん! あのね、今日はね、お友達がおうちに来てパーティーするから、一番おいしいパンください」

「一番おいしいパンか……。だめだ、ここのパン全部おいしいから、お姉ちゃん一番おいしいの分かんないや」

「きぃも全部好きー」


 小さな同士と笑い合っていると、母親が「きぃったら、店員さんと仲良しねぇ」と微笑んだ。


「ごめんなさいね、店員さん。今日のお昼にランチを兼ねてなんだけど、今朝までそのことをコロッと忘れてしまっていて……。ほんとはもっと早くに注文とかできたらよかったんだけどもう無理だし、作ろうにも何も思いつかなくて。何か、良さげなものはないかしら」

「パーティー、ですか……」


 普通に今日のおすすめのパンと言えばナンだが、それをパーティー仕様にするとなるとどうしたものか。

 春穂は内心でうーんと唸る。


「あ、そうだ。カレーでパーティーとかどうですか?」

「カレー?」

「はい。キーマカレーみたいなのを作っておいて、それをナンにつけてからお好みのトッピングを乗せたりして。ほら、ゆで卵とかチーズとかあるじゃないですか。そもそものカレーを辛さ控えめにして、後で好みの分だけ辛いのかければ、大人の方も子供さんも食べれますし」


 『ナン』とはペルシャ語で総じて『パン』を意味する。ざっくり言ってしまえばこれはカレーに特化したオープンサンドパーティーだ。

 春穂の案に、母親は面白そうに頷いた。


「いいわね、楽しそう。じゃあ、ナンを……十枚もらえるかしら」

「はい」


 ナン十枚となると籠丸々一つ分だ。置いたばかりの籠を取ってレジに入ると、これも一緒にとコロネを三つ追加された。

 ソフトクリームのコーンみたいな型に巻き付けて焼くからこんな形になるんだよ、とかつて律希が解説していたのを思い出す。


「全部で三二九四円になります」


 手際よく会計と袋詰めを済ませ、比較的軽いコロネの袋はきぃちゃんに、ナンの袋は母親の方に渡す。荷物持ちを任されたきぃちゃんは今日もご満悦だ。


 いつも通り二人で手を繋いで帰ろうとしたところで、ふと思い出したように母親が振り返った。


「あの、店員さん」

「はい?」


 彼女はうかない顔をして。

 春穂の心のかさぶたを、知らぬままそっと引っ掻いた。


「噂で、このお店がなくなっちゃうって聞いたんですけど━━ほんとですか?」


「━━え?」


 くらり。

 足下が揺れたのは、春穂の気のせいだろうか。


 忘れかけていた絶望が、久しぶりと口元を歪めて笑う。

 外で段々と強くなる掠れた風の音は、まるでそいつの嘲笑の声のようだった。

これからいよいよ、大きな流れに突入です。

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