臆病≒共犯
春穂視点に戻ります。
弥夕がひたすらにもだもだしております。
「━━あたしの中で、翔琉がもう完全に男だったことにすごい驚いたのよね」
事の顛末を話し終えた後で、弥夕は膝を抱えながら言った。
頬はまだまだ赤いが、話したことでいくらか思考の整理整頓ができたらしい。春穂が淹れた冷たい麦茶で喉を潤して、彼女は続ける。
「体はいつの間にかあたしより大きくなって、仕草もどこか大人びてきて、それでも翔琉が五歳下っていうのは変わりない事実じゃない? 昔から姉弟みたいに接してたし……それにあたし、翔琉がランドセル背負ってる時から元彼と付き合ってたし。だからずっと意識なんてしてないって思ってたの。翔琉も彼女いたことあったし、向こうもあたしは圏外だろうなって」
「え、翔琉くん彼女いたんだ。なんか意外」
「なんかお友達が教えてくれたんだけど、初カノは中一でだったかな」
「中一かー……」
弥夕が元彼と付き合いだしたのは高校生の頃で、学年差から考えて翔琉は小学六年生。話から考えると、弥夕に恋人ができて少ししてから翔琉にも恋人ができたことになる。
もしかすると、と春穂は高校の倫理で出てきた内容を思い出した。
「ねえ。翔琉くんが彼女作ったのって、弥夕に彼氏ができたからじゃないの?」
「……え?」
「えっとね……確かそういうの、防衛機制ってやつで代償って言うんだよ。叶わない欲求を別のものを代わりにして満たす、っだったかな。あくまであたしの推測なんだけど、翔琉くん、その頃から弥夕に憧れてたんじゃないかな。それが他の人と付き合いだしたもんだから、無意識に代わりを求めたって感じで」
防衛機制とは、ざっくり言えば満たされない欲求をどうにかして解消しようとする無意識のシステムだ。弟妹が生まれたときに兄や姉がいわゆる「赤ちゃん返り」をするのも『退行』と呼ばれる防衛機制の一種だ。
その中で『代償』というのは概ね春穂の言った通り、満たされない欲求を別のもの(大体が本来の目標より容易に満たされるもの)を代わりにして満たすことだ。単純な話、翔琉は弥夕の代わりとして他の女を求めたのかもしれない。
「それは……なんかこう、なかなかに彼女さんに申し訳ないというか……」
「まあ、幼なじみのお姉さんに初恋ってけっこうよくあるパターンだと思うし。もしあたしの推測が当たってるとしたら、ずっと昔から弥夕は圏外なんかじゃなかったんだろうね、翔琉くんにとっては」
「……そっ、か」
「でも弥夕にとってはその頃は完全に圏外だったでしょ?」
「それは流石にね。小学生だったし」
「じゃあ、いつから弥夕の中で翔琉くんは男になったの?」
弥夕は少し目を伏せてから、立てた膝の間に顔を埋めた。
「……多分、元彼と別れた日だと思う」
「ふむ」
「元彼と別れた日、あたしそんなに強くないのにお酒入れちゃってね。したたかに酔っぱらって家に帰ってきたのよ」
「い、家に帰れたんだ。なら良かった」
「うん、外で寝たりはしてないから大丈夫。それでね、あたし酔っぱらっても記憶はなくさないけど、喜怒哀楽が若干激しくなるのよね。……で、家に帰ってちょっと店でうたた寝してたら翔琉が来て……抱きついて泣いちゃって。……それで」
元彼に触られたのが気持ち悪いから、抱きしめて、と。要するに上書きしてくれと、弥夕は翔琉に願ったのだという。
「……わお」
ここで春穂の表情筋がいかれたのは仕方ないことだと思う。涙目の好きな女に「ぎゅーして」とおねだりされた翔琉の心中たるや、想像するだに甘酸っぱい。にやつく顔を手で覆った春穂に、弥夕は分かりやすく眉根を寄せた。
「うん、ごめん。それで、ぎゅってしてくれたの?」
「……してくれたわよ。その時はそのまま号泣しちゃって泣き疲れて眠ったんだけど、次の日酔いが醒めて頭すっきりしてから思い返してみて……ちょっと動揺したのよね」
「ほう。どうして?」
「……あたしの体が、簡単に翔琉の腕に収まったの。力も強くて痛いくらいで、しがみついてもびくともしなくて。成長したって頭では分かってたんだけど、改めて実感してびっくりしたの。……今思うとその時かな、翔琉を男だって思い始めたのは」
頬の赤みをまた一段強くした弥夕は、汗をかくグラスを手の中で弄ぶ。
この光景を翔琉が見たら、天使に矢で胸を打ち抜かれて死ぬかもしれない。それほどに今の弥夕はかわいい。元が凛とした美人だから、今のように乙女な時とのギャップが大きいというのもあるだろう。
これはひょっとすると、あの難攻不落の魔王城さえ陥落してしまうかもしれない。
━━瞬間、今日も出しなに春穂の頭を撫でた大きな手を思い出して、嫌な風に心臓が跳ねたのは気のせいだろうか。まるで何か病の発作のような、一度だけの動悸。
胸の奥に消えない違和感のせいか、弥夕の愛らしさににやつこうとした口元から急に力が抜けた。
「……春穂? どうかした?」
「あ、ごめん。なんでもないよ。……ね、弥夕。弥夕は今のところ翔琉くんを男として意識してるだけなの?」
「……う、ん……」
「あれ、どうしたの急にちっちゃくなって」
春穂が質問したとたんに弥夕は元々抱えていた膝を更に強く抱えて、再び顔を埋めてしまった。この上なくコンパクトサイズだ。
目を瞬いた春穂は、これはもしや、と首を傾げた。
「好きなの?」
「……分からないの。……元々大切で特別だし、単に絆されてるのかもしれないし」
「え、絆されてるってことは、翔琉くんの気持ち知ってたってことだよね?」
「うん、まあね。あたしもそう鋭い方じゃないんだけど、かなり分かりやすかったから。……ただ、翔琉があたしに向けてる感情は、ほんとの恋じゃないって思うのよね」
ぽつりと弥夕の唇から落ちた言葉に、春穂は己の耳を疑った。
翔琉が弥夕に向けるあの熱を帯びた瞳が、愛おしそうな声音が、恋でないのなら一体何なのだ。
「……どうして?」
「春穂もさっき言ってたでしょ? 幼なじみのお姉さんに初恋ってけっこうあるパターンだって。そういうのってあたし、大抵がすぐそばにいる女を最初に意識して好きだと錯覚しちゃうって感じだと思うの。……翔琉はちょっといろいろあったから、一番そばにいて親しかったあたしを好きだと勘違いしてるんじゃないかな、って。……だったらそんなの、応えちゃいけないじゃない。ちっちゃい子の初恋と一緒でいずれほんとに好きな人ができるんだから、むしろ手放すべきだわ」
それに、と弥夕は苦笑する。
「ただでさえ五歳下で、翔琉の世界はこれからまだまだ広がっていくもの。……今離れても寂しいし痛いのに、この上好きになんかなったら、もっと痛い。……怖い」
最後の呻くような呟きに、春穂の中ですとんと腑に落ちるものがあった。
なんだ。
結局、怖がってるだけじゃない。
好きになったら、いつか翔琉に離れていかれるのがとても辛くなる。しかも元々大切で特別な存在だから尚更痛い。だから好きにならないように、勝手に翔琉の想いを曲解して、好きになってはいけない理由を作る。
それは単純に、初めての恋愛で素直な心を抉られて臆病になった女の子が、必死になって翔琉と自分の感情から逃げているだけだ。
きっとまた痛いんでしょう? もう痛いのは嫌、と。
まるで注射を嫌がって駄々をこねる幼子のように。
一人納得した春穂は、ふ、と笑んだ。
「うん、そっか。分かった。……ここから先は、多分あたしにはどうにもできない領域だね」
「え?」
「あ、ごめん弥夕、あたしそろそろお風呂入って寝なきゃいけない時間なんだけど、弥夕はどうする?」
「あ……じゃあ、あたしももう寝る。ごめんね、明日も仕事なのに」
「いいよいいよー。話聞きたかったし。お茶なくなったら冷蔵庫にあるから、好きに飲んでね」
「うん、ありがと」
春穂はにへっと笑うと、ベッドの上に置いてあったパジャマを抱えて立ち上がった。
廊下を抜けて、脱衣所の扉を閉める。ポケットから取り出したのは、行きしなに充電器から外して取ってきたスマホだ。
今日知ったばかりの番号を呼び出してコールを数回すると、待ち構えていたかのようにすぐに繋がった。
「もしもし、あのね━━」
春穂が全てを伝え終わると、電話越しの彼は困ったような、呆れたような溜め息を吐いたのだった。
◇ ◆ ◇
翌朝。体内時計の整うまま、春穂は今日も元気に四時起きである。
弥夕まで起こしてしまわないようにと鳴る前に目覚ましを止めて、そろりと台所へと向かう。
冷蔵庫から昨日貰ったスコーンを出して、アルミホイルに包んでからトースターに入れて温める。同時並行で湯を沸かして紅茶も淹れる。茶葉はこの前買いに行ったときに弥夕がおまけしてくれたダージリンだ。
しばらくすると、トースターが軽やかな音を響かせる。
その音で目が覚めたのか、弥夕がむくりと起きあがった。
「……春穂?」
「あ、おはよう弥夕。朝ご飯できてるよー」
「ん……ありがとー……」
春穂と違って四時起きが標準でない弥夕は、寝ぼけ眼で頭を振っている。もう完全にこの時間帯に慣れちゃったんだなぁあたし、と春穂は《Harbest》に勤めたばかりの頃を思って小さく笑った。
トースターの扉を開けると、甘く香ばしい香りが解放されて条件反射のようにへにゃんと春穂の頬が緩む。《Harbest》の香りだ。
スコーンを皿に並べて、一つは春穂の分として別の小皿に置いてテーブルに持っていく。適度に蒸らした紅茶もマグカップに注いで苺ジャムを出せば、朝食の準備が完了だ。
ここでようやく睡魔が去った弥夕は、手櫛で軽く黒髪をまとめて食卓についた。
「スコーン?」
「そう。昨日貰ったんだけど、蘭子さんお手製のやつだよ」
「へえ」
スコットランド発祥、ビスケットのお仲間のスコーン。オート麦の無発酵生地をフライパンなどで焼いて切っていたものが原型で、ベーキングパウダーの普及につれて、今のように一個ずつ焼き上げる形態になったという。
本来大衆的なものであったスコーンだがが、十八世紀、ビクトリア朝の時代に貴族の間で流行し、アフタヌーンティーのお供として定着した。
今はアフタヌーンどころか超アーリーモーニングだが、そこは気にしない。
「なんかね、ジャムとかクロテッドクリームっていうのを塗って食べるのが本場流なんだって」
「クロテッドクリーム?」
「こってりしたミルククリームらしいよ。イギリスの南の……デボン州、だったかな。そこの伝統的なクリームって本に書いてあった」
紅茶にスコーン、そしてジャムとクロテッドクリームという組み合わせのことを『クリームティー』ということも本で勉強した。先月から地道にパンの勉強を続けているが、自分が食べているものにどんな背景があってどんな組み合わせがあってというのを知るのはとても楽しいし、ああこれ食べてみたいなと更に興味も湧く。
春穂の食いしん坊という性分がここにきて初めて勉強面で役に立っているのだから、人生とは不思議なものだ。
それはさておき、紅茶もスコーンも冷めないうちにと春穂と弥夕は手を合わせていただきますをした。
「あれ、春穂一個でいいの?」
「あたしは出勤してから蘭子さんの朝ご飯が待っているのですよ! だから一個で充分」
「あ、なるほど。じゃあ遠慮なく」
横に割ってから食べるのがお行儀の良い食べ方らしいので、おいしいスコーンの証である割れ目を手で上下に割って、ジャムをつけて一口。
「ん~……ほいひぃー……」
口の中でまず外側がザクッと砕けた後に、しっとりした内側の生地が顔を出す。甘さを控えたシンプルなバター風味に苺ジャムの甘酸っぱさが絡まって、これはもう鉄板の組み合わせとしか言いようがない。
飲み込んでから紅茶を口に含めば、気分は英国の貴婦人である。メニュー自体はシンプルなのにこの贅沢気分、すばらしきかな。
弥夕もいたく気に入ったようで、ご機嫌な様子で食べ進めている。
「ジャムが合うわね。甘酸っぱい」
「これも蘭子さんお手製なんだよ」
すごい、と目を輝かせる弥夕を見て、春穂は内心でぽつりと呟く。
まだまだ。
弥夕には今日これから、苺ジャムより甘酸っぱいことがやってくるんだよ━━と。
身支度を整えて、いざ出勤である。
春穂のアパートからうららロードまでは徒歩で十分弱なので、毎朝運動がてらのんびり歩いている。早朝なので交通量が少ないのが嬉しい。
隣を歩く弥夕は昨日着て干していた着物を着ており、翔琉とはち合わせる前に家に帰るそうだ。一晩経ってもまだ駄目らしい。
うららロードに近づくにつれ微妙な表情になっていく弥夕に、春穂は小さく苦笑した。
「そんなに翔琉くんと会いたくないの?」
「だって……なんか、気まずいじゃない。どんな顔したらいいか分からないし」
「いつになったら大丈夫になるの、それ」
「……一ヶ月、くらい?」
「流石にそれはキツいよ、弥夕姉」
「う……だって……って、え?」
気の抜けた声を上げた弥夕が、ぴくりと足を止めた。
━━すぐそこに《Harbest》の店舗が見える。あれこれと話をしているうちに、いつの間にかうららロードにたどり着いてしまったようだ。
外に出て植物に水をやっていた律希がこちらに手を振ってくれて、春穂もほのぼの振り返したりしている間に、隣では弥夕が華麗な回れ右を決めて逃走を図ろうとして失敗していた。現在、後ろから翔琉に捕獲されてじたばたしている。
最早いちゃいちゃしてるよね、というのは言ったら確実に弥夕に怒られるので言うまい。
「弥夕姉、逃げないでってば。はいどうどう」
「離して! はーなーせー!」
「今五時前だから、あんまり大きい声出すと近所迷惑になるよ」
「うっ……でも、でもっ……! 春穂、助けてっ」
「ごめん、頑張ってー」
「ちなみに春穂さんは俺の味方だよ?」
「っ、いつからグルだったのよ!」
「昨日。いろいろ情報提供してもらった」
「━━っ~~」
もう言葉にならないらしい弥夕は、真っ赤になってしばし暴れていたがやがて翔琉に担がれて持って行かれた。
一部始終を傍観していた律希が、不思議そうに首を傾げる。
「あの二人、何かあったの?」
「昨日色々とあったそうですよ」
「へえ、あそこもとうとうかな」
「かもしれませんね。まだ分かりませんけど」
……まあ、ただ一つ言うならば。
「後は翔琉くんの奮闘次第ってところかと」
健闘を祈る、青年よ。




