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笑顔≒不穏 side翔琉

翔琉視点です。

 弥夕が逃走した《千日夕》店内では、立場の微妙な男二人が残されるというなかなかに混沌とした状況が生まれていた。

 片や弥夕の元彼で二股かけて別れた挙げ句本日突然襲来した男。

 片や弥夕の幼なじみで絶賛片想い中の高校生男子。

 弥夕がいなければけして繋がることなどない二人である。つくづく人の縁とは不思議なものだ。


 さて、後者である翔琉は弥夕が消えていった方向にひとまず安心した。うららロードの入り口方面、《Harbest》がある方だ。春穂のもとへ行ったに違いない。

 友達できてよかったな、弥夕姉。自分の方が年下なのにどこか保護者のようなことを思いつつ、翔琉は飲みかけだったハーブティーを口に含んだ。弥夕が翔琉の疲労を察知して淹れてくれたそれは、もうすっかり冷めている。

 いっそすっきり冷やした方が美味しいかもしれない。色も綺麗だから透明なグラスに入れて、果物を入れるなんてどうだろう。この頃はフルーツウォーターなんていうのも聞くことだし、女性ウケは━━などとつい商売人思考が働いてしまう。弥夕オリジナルブレンドのお茶は《Iberis》でも提供することが多いので、最近は翔琉もちょくちょく商品開発を一緒に行っているのだ。

 弥夕と話し合って一つのものを作り上げていくというのは、翔琉にとっての憩いであり癒しの時間で。


 それは、今日のように二人でお茶をするのもまた然り。


 翔琉の心が温もるひとときを奪い、そしてかつて弥夕を傷つけた目の前の男はやはり許せない。喉を潤した翔琉は、薄い笑みを浮かべて五歳上の男を見上げた。本人はあまり気づいていないが、翔琉のような陰のある美形が敵意と怒気を露わにして微笑むと、それはそれは冷酷そうな顔に見える。少女マンガでは人物の背後に花が咲くという表現がよくあるが、今の翔琉なら咲いた花も凍り付く。

 元彼が気圧されたようになっているのは気のせいではない。

 極上の微笑を保ったまま、翔琉はゆっくりと口を開いた。


「……ほんとに、弥夕姉とあんたが別れてくれて良かった」


 敬語と敬称は使う気がない。最低の別れ方をした元カノの家に突然押し掛けてくるような常識知らずに払う敬意など、生憎と翔琉の中にはないのだ。

 翔琉とて、自分が誉められた人間でないことは重々自覚している。けれど弥夕を傷つけたこいつだけは論外だ。


「あんた、自分が今どんなことしてるか理解してんのか? 弥夕姉を裏切って散々傷つけたくせにここに来れるとか、どんだけ面の皮厚いんだよ。……もしあんたと弥夕姉が結婚してたらと思うとぞっとするわ」

「っ、お前みたいな━━」

「ガキに言われる筋合いないって? 大いにあるっつの。弥夕姉は俺の大事な姉貴分で幼なじみだ。……で、さっきの言動からして感づいてるんだろうなーとは思うけど、少なくとも俺にとってはそれ以上に大切な女の人だよ。あんたの中でだけでも土俵に上げてくれてどうもね」


 いつもより饒舌になっているのは、きっと怒りのエネルギーが有効活用されているからだ。思考が冷たく冴えてよく働く。

 ひとまず元彼を完封した翔琉は、ふうと一息吐いた。


「まあ、今日は弥夕姉が傷ついてる様子もなかったからまだいいけど。……むしろうれしい誤算があったし」


 翔琉が侮辱され、弥夕がキレた時のこと。

 意地っ張りだの強がりだのおまけに子供みたいだのと元彼以上に翔琉の弱点をぐさぐさ突き刺した後に、しかし弥夕は言った。


 ━━『翔琉は、あんたなんかよりずっと素敵で強い()よ!』


 この時点で翔琉は息を呑んだ。

 そして弥夕は仕事中はいつも着物姿で、女性の和装というのは衣紋を抜いてうなじを見せるものであるが━━その滑らかな白いうなじに、かあっと熱の色が広がったのだ。

 思わず名前を呼んだら逃げられた。色々話したいことがあるのだが、果たして帰ってきてくれるだろうか。春穂に助けてもらおう。


「……それはこっちのことだから置いといて、とにかく、二度と弥夕姉と関わろうとするな。付き合ってた弥夕姉を傷つけてまで関係を持つほど、想う相手がいるんだろ? ならそいつとどうぞ末永くお幸せに」


 極上の冷気を纏いながらこの上なく穏やかな表情で、翔琉は痛烈な皮肉を投げた。

 いくらこの男が常識を遙か彼方に置いてきているとはいえ、自分の浮気が原因で別れた元カノに対して「他の女と付き合ってるけど弥夕とも復縁しよう!」なんてことはまず考えないだろう。もし考えていたら常識以前に人として色々終わっている。弥夕が好いて一度は交際していた相手がそこまでとは思いたくない。

 報いだバカ、という思いを込めて最後に笑顔を解き、睨みつける。瞬く間に場の空気が冷えきったその時、


「翔琉くん、いるー?」


 ドアが開く音と共に、至って通常運転のほのぼのした声が、冬に舞い込んだ春風のように響いた。

 ふわふわしたグレージュの猫っ毛に、大きな灰茶の瞳。今時の小中学生より薄化粧かもしれない大人かわいい系の顔を覗かせるその人は、紛れもなく弥夕の友人の春穂だ。仕事着のまま来て、かつ翔琉を呼んだということは、予想と違わず弥夕は春穂の元に走ったのだろう。

 凍結した空気をすぐに溶かした彼女はふと視線を元彼の方に向けて「ああ」と何やら納得したような声を出した。

 そしてにっこりと、愛らしく笑う。


「くたばれ」


 ……弥夕姉、ほんとにいい友達できたな。

 目元の力が一気に抜けた翔琉は、しみじみ思った。春穂は翔琉と同じ、笑顔でキレるタイプらしい。

 弥夕の元彼をにこやかに斬って捨てた春穂は、怒りの笑みを消していつもの表情で翔琉のもとに来た。


「翔琉くん、今さっき弥夕が『匿って!』って言って《Harbest》に駆け込んで来たんだけど、何があったの?」

「……俺じゃ説明できないことが多いので、弥夕姉から聞いてください」

「そっか、了解。とりあえず、お宅のお姫様は今晩我が家にお泊まりになると思いますのでよろしく。……あと、傘忘れたので貸してください。弥夕の分と合わせて二本」

「ちょっと待っててください」


 ずっと座りっぱなしだった椅子から立ち上がると、いつの間にやら元彼の姿はどこかへ消えていた。弥夕の両親が帰ってくる前に玄関先に塩を撒いておこう。


 奥から弥夕がいつも使っている傘と、持ち主不定の傘を一本持ってきて春穂に渡す。


「ありがと」

「……春穂さん、連絡先教えてほしいんですけど、いいですか?」

「うん、いいよ。……弥夕のこと、どんな感じか報告したらいい?」


 いたずらっぽく笑う春穂に、翔琉は目を伏せて頷いた。


「お願いします。……勢い良かったし、パニックになってたから……ちゃんと確かめたいけど、多分俺が訊くと余計パニックになると思うので」

「……なんだかよく分かんないけど分かった。その辺の経緯は弥夕からだね」


 春穂はジーンズのポケットからスマホを取り出すと、SNSのIDを画面に表示した。下には電話番号もある。

 翔琉も自分のスマホを出して、春穂のIDと番号を登録した。


「……春穂さん、どんだけパン好きなんですか」


 そっと翔琉から目を逸らした春穂のSNSのアイコンは、クロワッサンの耳がくてんと垂れて生えた茶色いうさぎだ。どこから拾ってきたんだろう、こんなイラスト。

 春穂は少し頬を赤らめて、「……てへ」と照れくさそうに笑った。


「だって《Harbest》のパンおいしいから。この頃日増しに食いしん坊が加速してるんだよねー……」


 ウサギもクロワッサンも、見ると律希さん思い出して余計お腹空いちゃうんだけど。口元を緩ませたままの呟きは、本人は自覚しているのかいないのかどことなく幸せそうな響きを持っていた。


「まあ、とにかく後で連絡するね。あたし明日も仕事だから、そんなに遅くはならないと思うし」

「ありがとうございます。あと、店仕舞いはしとくって弥夕姉に言っといてください」

「了解。じゃあね」


 にへっと笑って帰っていく春穂を見送って、翔琉は《千日夕》の閉店作業に取りかかった。いつもよりやや早い時間だが、店番をしていた看板娘を逃走させてしまったのでこの際仕方ないだろう。翔琉は弥夕と自分の分のマグカップを二階の居住スペースの台所に置き、代わりに調味料置き場から塩を取ってくる。

 玄関先に塩を撒いてせっせとお清めしていると、《Iberis》から出てきたらしい下着屋のキヨさんが通りかかった。


「あら翔琉ちゃん、お清め? えらいわねぇ」

「あ、うん。キヨさん、塩って撒いたらこのままで良かったっけ」

「そうねぇ、お水で流しときましょうか」

「分かった、ありがと」


 ホースってどこにあったかなと記憶を探っていると、不意にキヨさんがぽつりとこぼした。

 真顔のキヨさんを見たのは初めてだった。


「……ほんとうに、こっちも水に流れたらいいのにねぇ」


 ずしり、と。空気が重たくなったのは、気圧のせいだろうか。そういえば週末にかけて巨大な台風が来ると言っていた。……そのせい、だろうか。

 翔琉は言い難い不安と共に何か口を開こうとして、しかしその前にキヨさんはいつものほんわかおばあちゃんに雰囲気を戻してしまった。


「お清め、がんばってちょうだいね」

「あ、うん……」


 ━━季節は六月の半ば。

 天蓋をくまなく覆う鈍色の雲が、やがて来る嵐の影響を受けて、勢い良く動き始めた。

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