襲来≒自覚 side弥夕
弥夕視点です。プチ嵐、襲来。
━━時は少し遡って、夕方。
客足が途絶えた《千日夕》店内で、弥夕は休憩がてら熱いハーブティーを啜っていた。日本茶だけでなく紅茶に中国茶、果ては「君は一体何者だい?」と訊きたくなるようなマイナーなお茶まで取り揃えている《千日夕》は、独自に茶葉やハーブのブレンドもしている。今飲んでいるのも、新作の試作を兼ねた弥夕お手製のものだ。
ハイビスカスをベースに、クランベリーとビルベリー、ワイルドストロベリーも加えた赤いお茶には、酸味を中和して飲みやすくするために蜂蜜を垂らしてある。……だから。
「そんな微妙な顔してないで、一口飲んでみてよ。甘酸っぱくておいしいわよ?」
「……うん」
赤さに慄いてなかなか飲もうとしない翔琉に、弥夕は唇を尖らせて薦めた。
恐る恐るマグカップに口をつけた翔琉は、転瞬きょとんと目を見開いた。
「ほんとだ。……うまい」
「でしょ? 疲労回復効果狙って作ったから、丁度いいと思って」
つい先程、学校帰りに弥夕の元を訪れた翔琉がどことなくだるそうだったので、弥夕は急遽この配合でお茶を淹れたのだ。栄養ドリンクとは違うが、それでもいくらか効果はあるものだ。実際、香りだけでも少し気分がすっきりしてくる。
ふと視線を感じて顔を上げると、翔琉の目元がふっと和んでいた。……また大人びた表情するようになったわね、と弥夕は何気なく目を逸らす。
翔琉に背を追い越されたのは、一体いつだったろうか。今となっては弥夕が限界まで背伸びしてみてやっと頭の天辺が翔琉の耳に届くくらいになってしまった。成長期真っ直中だから、きっとまだ伸びるのだろう。
見上げればすぐに「どうしたの?」と応えてくれる黒の双眸は、いつまで弥夕の傍らにあるだろうか。
思う度に極細の針を通されたような鋭く冷たい痛みが胸を走るのは、翔琉が弥夕へと向ける感情の種類がいつからか変化して━━それが今までよりなお脆いものなのだと、薄々気づいているから。いずれ手放すべき存在だから応えてはならないと、理性がちゃんと働いて常に叱ってくれているから。
けれど大切な存在なのは変わりないから、手放すときまではせいぜい姉貴分面させてもらおう。
弥夕はマグカップを置き、場に流れた落ち着かない空気を払うように伸びをした。
「雨こそ降ってないけど、どうにもどんよりした天気よね」
「だね。……お茶ありがと、弥夕姉。元気出た」
「なら良かった。クッキーもあるけど、食べる?」
「うん」
クッキーの缶は確か奥の戸棚にしまってある。取って来ようと椅子から腰を浮かせたその時、店のドアがガチャンと開いた。
「あ、いらっしゃいま━━」
せ。の口のまま唖然として固まる。
「……弥夕」
昔と同じように名前を呼んだ声に、いっそ寒気すら覚えた。おかげで思考が止まらずに済んだが、だからとて一体ここからどうしたらいいのか。正直なところ会話したくない関わりたくない。
一週間前に偶然再会してしまってから、なんだか嫌な予感はしていたけれど。
幼なじみとの穏やかな時間から急転直下で弥夕を混乱の渦に突き落とした人物は、誰であろう。━━言わずもがな、元彼である。
終業後に直接来たのかスーツ姿で、各パーツのある程度整った柔和な面立ちの男。……昔は外見も好きだったと思うが、今や眺めているとイライラしてくるのだから人の心というのは不思議なものだ。
「……弥夕姉」
後で玄関先に粗塩撒こう、などと弥夕が考えていると、後ろから控えめな声がかかった。
振り向けば翔琉の瞳は不安げに揺れながら弥夕を窺っている。「俺、いない方がいい?」とほとんど吐息に近い問い。
弥夕はふるふると首を横に振った。
「居て。……お願い」
奴の意図が分からない現状で、二人きりなんて絶対に嫌だ。
そしてこの状況下で弥夕が毅然と立ち向かうためにも、慣れ親しんだ安心できる気配が背中にあるのは心強い。
弥夕は一度深呼吸して、何故か複雑そうな表情をしている元彼を睨みつけた。
「何の用よ。お茶買いに来たの?」
「いや……会い、たくて。この前会ったとき、全然話できなかったから」
それもそうだろう。義晴の結婚披露宴会場に入る前に元彼を見かけて目が合ってしまった瞬間、関わってなるものかと弥夕は全力逃走を決めたのだから。そもそもあんな別れ方をしておいて、しかも二股をかけた分際で、よく話してもらえると思ったものだ。
━━今でも思い出せる。この男が二股をかけているのを知ったときのことだ。
早朝の市街地。その日は珍しく早くから買い付けの仕事があって、弥夕は紙袋を抱えて歩道にいた。
不意に風に乗って知った声が聞こえてきて、車道を挟んだ向かいを見てみると久しく会っていなかった恋人の姿があった。行って声をかけてみようか。そう思って進行方向を変えようとすると━━
彼の腕に、同年代と思しき女が絡みついていた。
『朝帰り』。その言葉は簡単に浮かんですとんと落ちた。
同時に胸を満たした感情は、とても言い表せるものではない。ただ一つ確かなのは、当時の弥夕はちゃんと彼が好きで付き合っていたということだ。
……ああ、あたし、あんなのに触られてたんだな。
風に乗って届いてくる会話の内容に腹を決めて、弥夕はスマホを取り出した。
電話をかけたら彼が途端に慌てだした。繋がるや否や弥夕は機先を制して。
『━━別れる。……さよなら、どうぞお幸せに』
その後の元彼の言い訳のオンパレードを聞き流せなかったのは失敗だった。余程狼狽したのか余計なことをべらべらと弥夕の耳に垂れ流して、そのあまりの衝撃に思考が停止していた。
こんなのでも、初めての恋人だったのだ。
なんてお粗末でみっともない結末。
その後、仕事終わりに酒を呷って翔琉に絡んでしまったのは弥夕個人のとんでもない失態である。
……失態だから、知ってしまった腕の中の広さと強さは、忘れるべきものだ。
さて、別れるまでの経緯を思い返すと、この男がここにいるということにまた苛立ってくる。
以前春穂はこの男を『よっぽどのバカか最低か』と評していたが、きっと前者だ。二股をかけて別れたのに口を利いてもらえると思ってここに来ている時点で、脳内お花畑としか思えない。
目を据わらせて感情を如実に表した弥夕は低く言った。
「話せなかったから何よ。あたしはあんたと話したくなんかない」
「……少しだけでいいから話したいんだ、頼む」
「嫌。あんたと話す義理がどこにあるの? そもそも話すことなんてないでしょ、今更。とっくのとうに別れてるんだし」
「俺は別れたくなんかなかった! 今だって、」
「━━いい加減にしなさいよ、あんた」
トラウマにも近かった人物に対してこうもざっくりと言えたのは、春穂にもらったたくさんの言葉と、後ろで弥夕より怒気を露わにしている存在があったからだった。
大丈夫。もう、こいつと言葉を交わして痛む傷口なんてない。
「だったら何で二股なんかかけたのよ。途中でどっちか切れるタイミングなんかいくらでもあったでしょうが。……でもあんたは続けた。その時点で、あたしはあんたを切ろうと決めたの。そこにあんたの意見とか願望が入る余地なんて一切ない。……あんたの気持ちがどうだろうが、自業自得よ」
二度と会いたくもない。
吐き捨てるように言うと、元彼はあからさまに傷ついた表情になった。けれど後悔はしていないし罪悪感もない、だってこいつに傷つく権利なんてないのだから。弥夕の中にあるのはさっさと店から出ていけという念だけである。
だが念は届かず、やがて元彼は苦々しげな顔になってちらと弥夕の後ろを━━翔琉をちらと見た。
重い呟きが地を這う。
「……んだよ」
「は?」
「五つも下の、顔だけで何もできないガキのどこがいいんだか」
━━ブチン。
━━パァンッ!!
二つの音が、弥夕の頭の中と外で同時に鳴った。遅れて手のひらに熱が広がる。
「━━ふざけんじゃないわよ!」
弥夕は、深く深く、激怒していた。
全力の平手打ちを元彼に決めてもなお、収まらぬ怒りに腸が煮えくり返っているほど。
「顔だけで何もできないですって!? 冗談じゃない、翔琉が今までどれだけのこと乗り越えてきたと思ってるの!」
記憶を失って悩みもがいた翔琉の姿を、弥夕は誰より知っている。何もできないもどかしさに結局弥夕は怒りに任せてビンタという強硬手段に出たが、それでも翔琉は最終的に自分の心の傷と向き合って、真正面から受け入れて歩みだしたのだ。
それは一体、どれほどの強さだろう。
五つ年上の弥夕だって、姉貴面して翔琉に怒っておきながら、その後盛大に負った心の傷を長い間痛ませていたのだ。
……知らないでしょう、翔琉。
大切な幼なじみである以上に、あなたはあたしにとってとてもとても尊敬する人なの。
だから今あたしは、あなたを侮辱したこいつにここまで頭に来ているの。
「確かに翔琉はあたし達より年下よ。おまけにそこそこ傷つきやすいくせに妙なとこ意地っ張りで、しんどいのを隠そうって、情けない心配かけないようにって、いっそ子供みたいに必死になって背伸びして強がってる時だって高三になっても未だにまあまああるわ。しょっしゅうあるわ。……でも、でもね。そうなるのは翔琉がちゃんと自分の弱くて脆い部分と立ち向かってるからよ。それができる強い人だからよ! 何もできないだなんて、絶対に言わせない! ━━翔琉は、あんたなんかよりずっと素敵で強い男の人よ!」
背後で息を呑む音が聞こえたが、耳に入らなかった。
眼前で呆然とする元彼に言いたいことを一気に言い切って、ようやく落ち着いてきた弥夕ははたと気づく。
……ちょっと待て。
あたし今何口走った?
それは客観視すればごく普通のことで。
けれど弥夕にとっては、弥夕と翔琉にとっては特別な意味を持ってしまうことで━━
瞬く間に顔が熱くなった。
待って、嘘でしょ。自覚さえしていなかったことが意図せずずるりと引き出されて、しかもそれを大声で言ってしまって、弥夕はかつてないほどパニックになった。
視線を送ってくる後ろを、振り向けない。
「……弥夕姉」
「━━っ!」
思考が究極までこんがらがった弥夕は、翔琉の声を「よーいドン!」の合図として、反射的に実家から逃げ出した。
外は、弥夕の顔の火照りを冷まそうとするかのように、しとしとと雨が降り出していた。




