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雨≒駆け込み

 澱んだ色の雲から、堪えきれなくなったように雫が滴った。一滴落ちると次々と、あっという間に春穂の前には雨のカーテンが出来上がる。

 閉店後の店先で、春穂は「あちゃー……」と呟いた。


「また降ってきちゃった……」


 義晴の結婚式から一週間、あの日の晴天が嘘のように雨続きの日々だ。一応毎日折り畳み傘は携帯しているので帰宅には困らないが、このどんよりとした空気の重たさはどうにも好きになれない。《Harbest》の客の入りも悪くなるし、梅雨前線とはさっさとサヨナラしたいものだ。

 タイムテーブルを書く黒板を濡れないように中にしまい、春穂は髪をほどいた。片づけも終わったので、後は着替えて帰るだけだ。

 うんと伸びをしていると、着替えを終えた律希が奥から出てきた。そういえばもう大学に行かなければならない時間だ。


「あれ、雨?」

「はい。ちょうど今降ってきたところです」

「うわー……マジか」


 渋面を作った律希に、春穂はきょとんとなった。


「もしかして律希さん、傘ないんですか?」

「うん……今日夜までは大丈夫ってあったから。傘借りるにも二人とも出ちゃったし」

「二人ともですか。珍しいですね」

「今日は《Iberis》でうららロードの会合。普段は休みにやってるんだけど、都合付かなかったんだって」

「会合、ですか。……見た目から雰囲気まで全然商店街っぽくないのに、そういうのはちゃんとあるんですね」

「って言ってもほぼ飲み会みたいなもんらしいけどね。あ、だから帰るとき戸締まりお願いできる?」

「了解です。……律希さん、ちょっと待っててくださいね」


 言うが早いか春穂は休憩室へと走った。ロッカーから鞄を出して、中を漁る。目当てのものはすぐに見つかった。

 一分としないうちに店内へと戻って、春穂は律希にそれを手渡した。


「これ、使ってください」

「……折り畳み? でもそしたら今度は春穂ちゃんが」

「あたしは弥夕に借りに行きますから、大丈夫です。ちょうど家のお茶切れてたんで買いに行こうと思ってましたし」


 にへっと笑うと、律希の手が春穂の頭に乗った。ふわふわ動くグレージュの猫っ毛には、ほどいたばかりで少しクセが付いている。

 見上げた律希の顔には優しい笑みが浮かんでいて、双眸には蜂蜜にも似た穏やかな光が滲んでいた。


「じゃあ、借りとく。ありがとね」


 ……ふとした瞬間にだだ漏れになる律希の色気たるや、耐性のない女性が見れば総じて腰砕けになるだろうというもので。日常に律希がいるためにある程度慣れている春穂でさえ心臓がぎゅうっとなって動揺してしまう。

 なのに頭を撫でられるとどこかほっとするのだから、春穂にとって律希という人は矛盾を体現したような存在だ。

 いつも通りひとしきり春穂の頭をわしゃわしゃした律希は、乱れた髪を整えるように梳くと思い出したように言った。


「そうだ。蘭子さんが、今日のおやつにスコーン出そうと思ってたけど忘れてたから、良かったら持って帰って食べてって。俺はいいから、春穂ちゃん平川と一緒に食べたら? 冷蔵庫に入ってるし」

「わーい、いただきます」

「それじゃ、また明日」

「はい。いってらっしゃい」

「いってきます」


 春穂の薄緑色の傘をさして雨の中を行く律希を見送って、さあ春穂も帰り支度をと休憩室へ向かおうとしたそのとき。


 ━━ガチャンチリチリチリチリリーン!


 乱暴にドアを開ける音と共に、普段は可憐な音を響かせるドアベルが豪快に鳴って、春穂はぎょっとして振り返った。

 見ればそこには、真っ赤な顔をして息を切らした弥夕がいた。


「弥夕? どうしたの、ちょうど今から行こうと━━」

「春穂っ!」

「うん?」

「匿って!」

「……はいぃ?」


 春穂のテンションがほのぼのしているところを引けば、映画の緊迫したワンシーンのような光景である。混乱しながらも、ひとまず春穂は弥夕を中に入れて休憩室へと案内した。

 弥夕はいつもと同じ着物姿だが、何があったのか涙目で顔の赤みはなかなか引かない。けれどその表情から窺える感情は、悲しみではなく明らかに照れや羞恥の類だ。


「どうしたの、弥夕。いきなり匿ってって」

「━━っ元彼が」

「え?」

「元彼が、うちに来たの。それで……」


 急にごにょごにょと言葉を濁した弥夕の様子とかつて聞いた元彼の最低っぷりから、弥夕の今の有様が元彼のせいではないのは理解できた。かの元彼に対して弥夕が動かす感情など、今や嫌悪くらいしかないだろう。

 と、いうことは。


「翔琉くん?」

「━━っ」


 図星らしい。

 これはじっくり聞かねばなるまいと思いつつも、春穂はまず溜め息を吐いた。

 元彼よ、お前はどこまでバカなんだ、と。

 春穂は最早怒りを通り越して呆れ、そして一周してまた怒りにもどってきた。


「ちょっと待っててね、すぐ戻るから」


 この後だが、怒り心頭の春穂は極上の笑顔を保ちながら弥夕の家である《千日夕》へと行ったことだけ言っておく。何をするためにかはあえて言うまい。

 とりあえず、お茶は買えなかったが、傘は借りた。




 匿ってとのご要望だったので、春穂は弥夕を家に泊めることにした。

 ずっと着物も窮屈だろうということで先に風呂に入って着替えてもらい、その間に夕食を作る。今夜はお好み焼きだ。大阪生まれの父直伝の味である。

 もうすぐ焼ける頃合いで、弥夕が風呂から上がってきた。


「今焼けるから適当に座っててー」

「あ、うん。ありがと……ごめんね急に」

「いいよいいよ。この前あたしも泊めてもらったしね。着替えのサイズ大丈夫だった?」

「うん。あの、ごめんだけど電話借りれる? 親に外泊するって言ってなくて。携帯忘れちゃったし」

「ああ、それなら大丈夫だよ。翔琉くんに会ったとき言っておいたから」


 言った途端、弥夕の頬が風呂上がりのそれとは違う理由で上気した。……乙女だかわいい、と思うのは当然のことだろう。

 翔琉という固有名詞を出しただけでこの反応である。焼き上がったお好み焼きを皿に移して運びながら、春穂はにやつこうとする口元を律した。弥夕もしくは翔琉と関わると、表情筋が鍛えられることが多い。まあいくら鍛えられても《Harbest》のパンの前にはゆるゆるになるが。

 テーブルにお好み焼きを置いて、ソースとマヨネーズ、鰹節も取ってくる。

 弥夕の向かいに座って、春穂は両手を合わせた。


「何はともあれ腹ごしらえしよ? ってことでいただきます」

「いただきます……あ、おいしい!」

「良かった。……うん、今日も上出来」


 バラエティ番組など見ながら、夕餉自体はつつがなく過ぎた。


 後片づけを終え、さてお腹いっぱい思考も働く、ということで。


「何があったのかな、弥夕?」


 わざとらしいほどにーっこり笑って、春穂は本題を切り出した。

 観念したように弥夕は長い睫毛を伏せる。


「……この前の、義さんの結婚式でね」

「うん」

「もう一組披露宴やってて、あいつ、そこの来賓で来てたの」

「……わお」


 なんという悪縁。

 先週の義晴の結婚式と言えば、終始新婦が笑顔だったり、新郎がちょいちょい真っ赤になっていたり、式の後で何故か律希が知り合いのガチムチの神父さんに絡まれていたりと、春穂にとっては基本楽しいものだった。だが、その傍らでそんな忌まわしきことが起こっていたとは。


「それで話しかけられて、関わりたくないなって思って全力で逃げてたら……」

「お宅訪問かましてきやがった、と」


 ストーカー規制法とか適用できそうだなと思うほど大変な緊急事態であるが、弥夕が春穂の元に駆け込んできた直接的な原因は違うものだ。

 それで? と視線で問うた春穂に、弥夕はそっと目を逸らす。


「それ、で……」


 話の核を、弥夕は恐る恐るのように語り始めた。

活動報告に番外編を載せました。前話『お披露目≒眠気』の後、弥夕視点のお話となります。

よければご一読ください(^O^)/

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