先輩≒過保護
「で、きたぁ……!」
《Harbest》定休日前夜、仕事を終えて帰宅した春穂は、一枚のルーズリーフを掲げて歓喜していた。
先日頼まれていたパンの城のデザインが、やっとできあがったのだ。
明日が試作の日ということで、今日は帰ってからずっと空腹も忘れて仕上げに没頭していた。食いしん坊がの春穂が夕食そっちのけで集中とはこの上ない珍事だが、その分満足いく仕上がりになったと思う。
デザイン画を写真に撮って、『できました!』とSNSで律希に送信すると、ほっとしたのか急に胃が空っぽなのが意識された。
お腹が空いて力が出ない。春穂はそのままくたりと後ろのクッションにもたれかかる。
ご飯を作らなければご飯は食べられない。が、ご飯を作る気力もない。というかそもそも何を作るか考えるのも億劫だ。
……お腹空いたなぁ。
ぼんやり思いつつ脱力していると、律希から返信が来た。
『お疲れさま。見事にかわいいね』
……律希を思い出すと更にお腹が空くのは何故だろう。いつもおいしいパンで餌付けされてるからだろうか。
『良かったです。帰ってからずっと没頭してました(^^;)』
少しして、また返信が来た。
『もしかして晩飯まだ?』
『まだです。お腹と背中の皮がくっつきました』
『あ、既に。今大学終わったんだけど、良かったら一緒に飯食いに行かない?』
作る元気はないが、食べに行く元気はギリギリ残っている。春穂はがばっと身を起こして『行きます!』と打った。
『今日終わるの早かったんですね』
『講師が季節外れのインフルで一コマ潰れた』
『わお』
『なんか大学の奴が何人か一緒に行きたいって騒いでるんだけど、いいかな? あれだったら撒くし』
『あたしは大丈夫ですよ~』
撒くってすごいな、と思いつつ着替えにかかる。律希だけならまだしも、同じ大学のおそらくは友人が一緒なのだ。職場の後輩として、あまり気の抜けた格好で行くわけにはいかないだろう。悩んだ末に、濃い緑のプリーツスカートに白のオフショルダーという組み合わせに落ち着いた。特急で化粧を直し髪も整えて、鞄に財布を突っ込む。
スマホを確認すると、律希から店の場所が送られてきていた。春穂の家から徒歩五分圏内にある、小洒落ていると噂の居酒屋だ。
春穂は行ったことがないが、ご飯がおいしいといいなと心から思った。
指定の居酒屋に着くと、律希と他数人も丁度到着したところだったらしい。春穂に気づいて手を振ってくれた。
店先まで小走りに行けば、再会の挨拶のように髪を撫でられる。
「お疲れ。早かったね」
「ここ、家から結構近かったので。律希さんこそお疲れさまです」
「律希律希、その子が店の後輩ちゃん?」
律希の肩に腕を回して、眼鏡をかけた茶髪の男性が顔を覗かせる。真面目そうなのにどことなくやんちゃそうな、不思議な雰囲気の人だ。
律希はうっとうしそうに彼の腕を払うと、「そうだよ」と言って視線で春穂に自己紹介を促した。
「こんばんは、佐々木春穂と言います」
「━━えっ、はるりん!?」
数年ぶりにそのあだ名で呼ばれた。
ぎょっとして律希の後ろの面々を見ると、春穂より少し背の低い女性が大きな目をぱちくりさせていた。シュシュで低めの二つ括りになっているオレンジベージュの髪は先をくりんと巻いており、甘めピンクのワンピースと相まって全体的に『守ってあげたくなる』系の人だ。身長のせいか上目遣いがしっくり来る、この人は━━見覚えが、ある。
「……もしかして、桃先輩?」
「そうだよー! やっぱりはるりんだ!」
嬉しそうに胸の前で軽く指を組んだ彼女は、桜井桃香。高校時代、春穂が所属していたチア部の先輩だ。
まさか律希の知り合いだったとは。
「あれ、知り合い?」
「はい、高校の部活の先輩です」
「そっか。じゃあまあ、とりあえず店入ろうか。ここでたむろしてるわけにもいかないし、春穂ちゃんお腹空いてるんでしょ」
「割と餓死しそうですね」
「そりゃ大変だ。飯食おう」
「はい」
初めて入ったその居酒屋は、なるほど確かに小洒落ていた。ワインが主らしく、とりどりのボトルが奥に並んでいる。仄かに漂ういい香りは春穂の胃をきゅっとさせて、これは期待できそうだ。
隣に律希、前に桃香という角席に座らせてもらい、春穂はメニューを繰った。
「律希さん、ここって何がおいしいんですか?」
「基本何でも旨いよ。何飲むかにもよるけど、肉だったらこの辺かな。赤に合うよ」
「……今更ですけど、ここって居酒屋でしたよね」
「うん、眠そうになってきたら止めるね」
例の黒歴史勃発以降に春穂が己に敷いていた禁酒令は、先月の歓迎会で儚く散ったところだ。反論をざっくざく潰す律希の誘惑スタイルは、なんだか昔やったモグラ叩きに似ていた。
が、今日は言う前に詰んだ。
ここから何を言ってもモグラ叩きが始まるだけということは、春穂はとっくに理解しているので。
「……律希さんのおすすめ、適当に見繕ってください」
「了解。それなら、春穂ちゃん炭酸は大丈夫?」
「大丈夫です」
律希が他の人の分と合わせて注文してくれたのは、スパークリングのロゼワインだった。細身のグラスの中でシュワシュワと弾ける細かい泡は見ていて楽しい。
乾杯はしないようなのでちびりと口を付けてみると、きりりと清冽な味がした。
「おいしい。辛口ですね」
「すっきりしてて呑みやすいかなと思って。俺の場合、あんまり甘いと飯進まないから」
「それは同感です」
「えー、あたしいっつもカシオレだよー?」
「桃先輩、もしかしてお酒弱いんですか?」
「うん。すぐ酔っぱらっちゃうの」
それより、と桃香は身を乗り出した。小首を傾げて密やかな声で春穂に問うてくる。
「ね、春穂ちゃんってもしかして、律希くんの彼女?」
……以前、弥夕の家に泊まったときに「律希くんのお嫁さんとして来たのかと」という発言をくらったことを思い出す。
あれで耐性がついたのか、今回は飲み物が気管に入ることもなく答えることができた。桃香の質問が弥夕のそれとは全くもって意図が違うことは、同性ゆえか交流があったゆえか何となく感じ取れるけれど。
「違いますよ。律希さんは店の先輩です」
「そうなんだー。てっきり付き合ってるのかと思ってたぁ。だってほら、さっきすっごく仲良さそうだったよね」
「それは……」
「春穂ちゃん」
「はい? ━━ふむっ」
解答に窮したところでいきなり呼ばれて横を向くと、口に細長い棒が突っ込まれた。
こういう場合は大抵食べ物なので、まずは唇を使ってもう少し口に送ってみる。
餌付けもされ慣れてきた今日この頃。
「腹減ってるんでしょ。話す前に何か食べな」
「ふぁい」
「律希くん、あたしにはー?」
「ユキの前にあるから自分で取って」
「えー、冷たぁい。はるりんにはあーんしてるのに」
「後輩は餌付けしたくなる性分なんだよ」
「じゃあ同期は?」
「セルフサービスで」
「ちぇー」
……助け船、出してくれたのかな?
桃香の興味が食べ物に誘導されたのを見て、春穂は口をもぐもぐさせながらちらりと律希の横顔を盗み見た。
律希は目が合うとおもしろそうに笑う。
「なんかウサギ感増したね。それ食ってるせいかな」
「……ほれ、はんへふは?」
「グリッシーニに生ハム巻いたやつ」
「ふひっひーに?」
「イタリアの細長いパンだよ」
かのナポレオンも好んで食べていたというグリッシーニ。彼はこのパンのことを『トリノの棒』と呼んでいたそうで、その呼称の通りイタリアのトリノ出身のパンだ。かつてイタリアの王家であるサノヴァ家に胃弱な人がおり、その人がシェフに消化の良いパンを求めたことから生まれたのだという。水分量が少ないので日持ちがすることが利点だ。
前菜やワインのおつまみにとして、地元イタリアでは大抵のレストランがグリッシーニを提供している。春穂のように生ハムを巻いたり、オリーブオイルをつけたりして食べるのだ。
春穂は口から伸びるグリッシーニをつまんで適当なところで折り、改めて噛みしめてみた。程良い塩気とカリカリした食感はどことなくスナック菓子のようで、そこに入ってくる生ハムの柔らかい食感によってよりグリッシーニの堅さが引き立っている。手作りなのか太さが不揃いで、太めのところは中が若干ふわっとしているのもおもしろい。
そしてこの塩気と食感が、律希が選んでくれたスパークリングのロゼによく合うのだ。
「おいしぃー……」
「もうちょっとしたら飯来るから、それまでこれで凌いでて」
「はい」
しばらくして店員が持ってきた料理もこれまたお酒にぴったんこで、春穂はいつも通りほわほわ笑っておいしくご飯を食べた。
二時間ほど経った頃で、全員がなんとなく締めに入ってお開きになった。
「遅くなったし送らせて?」
と、初っ端から狡い聞き方をしてきた律希に、春穂は全力で首を横に振った。
断っても無駄だということは知っているのだ。知っているけれど、律希の発言を聞いた瞬間、桃香が膨れっ面になったのが見えた。
馬に蹴られて死ぬのは避けたい。
案の定というか、膨れっ面のままの桃香が律希の腕に絡みついた。
「何ではるりんだけ? あたしはいっつも送ってくれないのにぃ」
桃香にちらと目配せされたので、意図を汲み取って春穂も微力ながら進言してみる。
「えっと、律希さん。あたしは大丈夫なので桃先輩送ってあげてください。あたし、ほんとに五分で家着きますから。流石に大丈夫ですよ。心配しないでください」
「春穂ちゃん」
「はい?」
「過保護になるには、なるだけの理由があるんだよ」
「……そうですね。そうでしたね」
暗にあの日の出会い方を示唆した律希に、春穂はあっけなく敗北した。それを言われちゃどうしようもない、と顔を覆う。
律希はごく自然に桃香の腕を外すと、春穂の背を軽く押した。
「春穂ちゃんとは色々あったんだよ。桜井はユキにでも送ってもらって」
「えー、色々ってぇ?」
「色々は色々。じゃ、また来週」
まだ何か言いたげな桃香を置いて、律希は春穂を連れてその場を後にした。
角を一つ曲がったところで、春穂は恨めしく律希を見上げた。
「……絶対何かしら誤解されましたよ」
「あれを一字一句言うのは駄目でしょ?」
「駄目ですけど、駄目ですけども! ほんとにあたしは大丈夫だったのに……」
「まあ、出会い方が出会い方だったからね」
「う……それを出すのは狡いですって」
「俺専用の切り札みたいなもんだね」
「律希さんは切り札の使用頻度が高すぎるんです! ……あたしが言えたことじゃないですけど……」
律希が過保護なのも心配するのも、確かに出会い方からして仕方ないことだとは春穂も思う。けれど律希に好意を寄せる人より優先されてしまうのは、なんだか申し訳ない。
むぅ、と唇を尖らせると、春穂の頭に大きな手が乗った。
「俺がしたくてしてるんだから、気にしないで」
気にしないでと言われても、気になるのはなるのだ。だがそんな風に目を細めて優しく微笑まれれば、春穂には返す言葉はなくなってしまう。夏めいてきて濃度を増した空気のせいか、一瞬胸の辺りで呼吸が詰まったように苦しくなった。
髪越しに伝わる律希の手の温度を感じながら歩いていると、春穂がいつもよく行くコンビニの明かりが見えた。
「……律希さん、ちょっと待っててください」
言うが早いか、春穂は小走りにコンビニに向かう。奥を探すと目当ての物はすぐに見つかった。
さっと購入して律希の元に戻って、シールを貼ってもらった包装を開ける。
「春穂ちゃん?」
「律希さん、はい、これ」
中のものを二つに分けて、片方を律希に渡す。
受け取った律希はそれを見て首を傾げた。
「アイス?」
「送ってもらったお礼です。律希さんの分だけ買うと、多分気にしちゃうでしょう? だから半分こで」
律希に渡したのは、春穂のお気に入りのアイスだ。ミルク味のシャリシャリしたアイスキャンデーの中にイチゴがたっぷり入ったもので、二人で分けられるようになっている。熱帯夜とまではいかないが、蒸してきた夜には丁度の冷たさだろう。
春穂が自分の分を一口かじって笑うと、律希もつられたように笑った。
「うん。ありがたくもらっとく」
「おいしいですよ、これ」
「……いつもと逆だね」
「……そうですね」
いつも餌付けされているのは春穂の方だ。
家に帰って、春穂は風呂がはれるのを待つ間おもむろにテレビを点けた。ほとんどの局でバラエティが終わって、ドラマや夜のニュースに移っている時間帯だ。
画面では小難しい顔をした気象予報士が天気図を示していた。
「え、嘘、もう台風?」
曰く、南の海上で発生した台風が本州を掠めるかもしれないとのことだった。梅雨入りもまだなのに、また随分と気の早い。
こっちには来ないといいな。溜め息を一つ吐いて、春穂はチャンネルを変えた。
━━六月の嵐が、春を呑み込みにくることも知らずに。
さて、次回から嵐の6月編でございます。
でもまだ数話は相変わらずほのぼのしてますよ~。




