赤面≒メルヘン
「春穂ちゃん、ちょっと来て」
律希がそうやって春穂を《Harbest》の厨房に手招きしたのは、翌週の日曜の終業後、閉店作業を終えて春穂が一服していた時だった。一般的には休日なので、今日は律希の大学も休みということで比較的のんびりした雰囲気である。
座っていた椅子から立ち上がって、春穂は小走りに厨房へと向かった。
「どうしましたか?」
「これ、見てみて」
そう言って律希が示したのは、平均身長の春穂より少し低いくらいの機械だ。メタリックな輝きを帯びた上部の横にレバーが付いていて、下には大きくて深いボウルがセットされている。
ボウルを覗き込むと金属の棒があって、上部の中心から伸びているそれは途中で二段階に折れ曲がり、ボウルの側面に近くなっている。これはおそらく。
「こねる機械ですか?」
「うん、正解。この間春穂ちゃんもやってわかったと思うけど、あの一番疲れる行程をやってくれるのがこいつ。ミキサーって言って、ここに材料突っ込んでスピード調節していけばこねあがる優れ物にございます」
「大きいですね。これでどのくらいできるんですか?」
「食パンだったら一回で七本分かな」
「七本!」
七本とはまた、一体一回にどれほどの小麦粉をこねるのだろう。そしてそれを運んだりするのは人なのだから、パン作りというのはやはり肉体労働かつ重労働だ。
ミキサーの隣にあるオーブンも、春穂や律希の家にあるオーブンレンジとは比べ物にならない大きさだ。律希と剛志はこの巨大オーブンのすぐ側で働いているのだから、夏場はさぞ暑いだろう。季節は初夏に近づいてきているし、そろそろ熱中症対策を考えておくべきかもしれない。
やっぱり基本は水と塩だよね、などと春穂が考えていると、裏口のドアが開く音がした。
「律希いるかー?」
蘭子でももちろん剛志でもない、あまり聞き慣れていない声に春穂は首を傾げた。
呼ばれた律希は覚えがあるようで、「ああ、そっか」と呟く。
程なくして厨房に現れたのは、先月の歓迎会で自己紹介を受けたケーキ屋の人だった。名前は確か、滝浦義晴だ。
「義さん、もう店しまったの?」
「うんにゃ、どうせ後は売るだけだからお袋に任せてきた。お前、今大丈夫か?」
「いいよ。どうせ後帰るだけだし」
何やら律希に用事がある様子なので、春穂はいないほうがいいだろう。律希の袖を軽く引いて辞意を述べる。
「あの、律希さん。あたしお先に失礼しますね」
「うん、お疲れ」
「あ、ちょっ……と待って春穂ちゃん」
焦ったように食い気味になった義晴の言葉に、春穂きょとんと目を瞬いた。横で律希も同じようになっている。
義晴はぱんっと両手を合わせて春穂を拝んだ。
「ごめん、ちょっと女性の意見も聞きたいんだけどいいか?」
「え、はぁ、いいですよ。でも何の?」
「ええと、その……」
「実は義さん、来月の結婚式で奥さんに内緒でパンでウェルカムボード作りたいんだってさ。うちのパンが好きらしくて、サプライズで喜ばせたいらしいよ」
……ほう。
途端ににやけてきた口元をそっと手で覆って、春穂は律希に向けていた視線を義晴に向ける。彼は顔を真っ赤にして、どことなく恨めしそうに律希を睨んでいた。
だがなるほど、義晴が女性の意見も聞きたいと言った理由が分かった。花嫁へのサプライズならば、男だけで考えてしまっては花嫁の好みにそぐわずむしろがっかりさせてしまうかもしれない。結婚なんてまだまだ先であろう春穂でも、一応は女の子なのだ。何かお役に立てるかもしれない。生来のお節介気質が疼く。
春穂はにやけを満面の笑みに移行させて、「素敵な花婿さんですね」と囁いた。
「ご協力させてください」
「……あんがと。お願いします」
「休憩室でいいですかね? あたし、蘭子さんにお茶頼んできます」
「あ、お構いなく」
二階の居住スペースにいる蘭子に客人が来た旨を伝えると、蘭子はすぐに麦茶を淹れてくれた。お盆ごとコップを受け取って、休憩室に戻る。
休憩室には基本的に椅子は二脚なのだが、律希が厨房から持ってきたらしい。麦茶のコップを配ってから、春穂も空いた席に座る。
ただ今より、『花嫁はパンでウェルカム大作戦(春穂命名)』作戦会議の開催である。
麦茶のコップを手の中で弄びながら、春穂は口火を切った。
「それで、義さんはどんな風なウェルカムボードにしたいんですか?」
「なんかこう、彼女の好きなもんを詰め込みたいなって。あと……かわいい感じの見た目がいい」
「乙女?」
「黙ってろ律希! 彼女がそういうのけっこう好きなんだよ!」
《Harbest》陣二名に生温い目で見られた義晴は、冷たい麦茶を勢い良く飲んだ。照れるとはっきり顔が赤くなる体質らしい。
「まあ一口にかわいい感じって言っても色々ありますよね。服だってヒラヒラフリフリが好きな人もいれば、シンプルなのが好きな人もいますし」
「んーと……服はいつもシンプルだけど、買い物行くとレースとかフリルとか付いた雑貨とか見てたり買ったりしてるなぁ。あと花系のとか」
「でも義さん、ウエディングケーキ作るんだろ? ウェルカムボードとネタ被らない方が良いんじゃない?」
「ああ、そこは決めてあるから大丈夫。試作してみたから、ちょっと写真見てくれよ」
ポケットからスマホを取り出した義晴は、ちょこちょこと操作をしてそれをテーブルの真ん中に置いた。
純白の生クリームが滑らかに塗られた、それは五段重ねのウエディングケーキだ。たっぷりのベリーがとりどりの宝石のように散りばめられて、砂糖細工だろうか、一番上からピンク色のリボンがかかっている。そのリボンの結び目のところに、赤い封蝋を押された封筒━━そっと書かれた『For you』の文字が、このケーキが彼の最高傑作であることを感じさせる。
またしても春穂は、にやつく口元をそっと隠した。隣を窺ってみると、律希は職人魂がくすぐられたのか興味津々で写真を見ている。ちょっとにやっとしているけれど。
「かわいい。プレゼントですね」
「ベリーが多いからけっこう豪華だろ? だからそういうふわふわしたかわいさとは違うんだよ」
「ってことは、ウェルカムボードのテーマは、『ふわふわした女の子っぽいかわいさ』でいいんですか?」
「うん、それがいい」
ざっくりとしたテーマは決まった。後は具体的にどのようなウェルカムボードにしていくか、である。
ウェルカムボード。……ボード。ボードといえば大抵があまり厚みのないものだ。ふっくらしたパンに馴染み深い春穂には、そもそもいどんな風に、どんなパンで作るのかがいまいち想像できない。
こういうときは。
「律希先生」
「うん?」
「ボードって、パンでどうやって作るんですか?」
「んー……要するに形変えればいいわけだから、生地としては何でもOKなんだよ。だから型と分量考えれば簡単に作れるよ」
「なるほど……」
ふっと律希から視線を戻すと、テーブルに置いたままだった義晴のスマホが目に入った。点けっぱなしになっている液晶には、円柱が積み重なったウエディングケーキ。
なんだかお城みたいだ。
「もしパンのお城とかあったら、おもしろいかもしれないですね」
昔、童話で読んだお菓子の家。幼心に内容そっちのけで興味を引かれて、母親にこれが欲しいとねだった覚えがある。
……今にして思えば、そんな幼い頃から食いしん坊っだったっけと若干遠い目になるが、まあそれはさておき。大人になった今でも、たまにケーキ屋などで小さなお菓子の家や城を見かけるとときめくものがあるのは確かだ。
お菓子でできるなら、当然パンでだってできるだろう。一度見てみたいものだ。
何の気なしに言葉をこぼした春穂がスマホから視線を上げると、義晴がこちらを凝視していた。
「……お城?」
「え、ああ、もしあったらメルヘンチックでかわいいなーって思っただけですよ? ほらお菓子の家とかあるじゃないですか、あんな感じで」
「……それ、良い」
「へ?」
「ウェルカムボードみたいな感じで置きたい、それ。ドールハウスみたいな城だろ? ここのパンでそんなんあったら、絶対いい」
「えええ?」
発言が思いがけず提案になってしまい、慌てた春穂は縋るように律希を見た。すると律希は律希で、おもしろそうに頷いている。
「いいんじゃない? やろうと思えばできるよ」
「じゃあ、それで頼めるか?」
「了解。ウェルカムボード代わりなら何か台に乗せるだろ。サイズどんなもん?」
「あー、今ちょっと分かんないから後で連絡するわ」
律希と打ち合わせをしていた義晴は、一段落したところで春穂を拝んだ。
「春穂ちゃん。それのデザイン頼んでいいかな?」
「え!? あたしでいいんですか?」
「春穂ちゃんにお願いしたいです。彼女の好きな色とかはメモするし、他はさっき言ってたふわふわしたかわいい系でお任せで!」
「えと、はい、承知しました……頑張ります」
じゃあよろしく、と頭を下げて帰っていった義晴は幸せそうに頬を緩ませていた。余程花嫁が大好きなのだろう。
客人の帰った休憩室で、春穂はどうしたものかとテーブルに突っ伏した。
「引き受けたはいいけど、お城のデザインってどうしたらいいんですかね……やったことない」
ぐでんと脱力している春穂の頭を、律希がわしゃわしゃと撫でた。大きな手というのは安心するものだ、とたまに思う。
「俺も城作ったことはないから何とも言えないけど。本体は基本図形の組み合わせでいけるんじゃない? ほら、積み木の家みたいな感じで」
「あ、そっか。って言うことは問題は、それをいかにしてかわいく組み合わせてお城にして、飾り付けとかするかってことですね。……ネットでヨーロッパのお城調べてみようかな」
「俺も生地の配合とか考えとくし、次の定休日に店で一回試作ってことでいい? 一応これ仕事の一環だから、親父さんに許可とっとくし」
「はい。飾り付けに必要な材料とか買っていった方がいいですよね?」
「うん、経費で落ちるから領収書かレシート忘れないでね」
「了解です」
よし━━引き受けたからにはデザインしてみせようじゃないか、ふわふわかわいいパンのお城を!
そう意気込んで、春穂はぐっと拳を握った。




