子供みたい?≒捨て犬
短めです。
昼食を終えて、春穂に襲ってきたのは強烈な眠気だった。満腹の昼下がり、おまけに律希の部屋は日当たりが良くて暖かい。これで眠るなという方が無理な話だ。
知らぬ間に春穂はテーブルに突っ伏してうたた寝をしてしまっていたらしい。
遠慮がちに春穂を呼ぶ律希の声に、ふっと目が覚めた。
「春穂ちゃん、発酵終わったよー」
「……ふぁい……」
眠い目を擦って台所に行き、オーブンから天板を取り出す。
「おお、また膨らんでるー!」
発酵前と比べて三倍ほどに膨らんだ生地に、春穂の眠気は一瞬で吹き飛んだ。きちんと感覚を開けて並べたので生地同士がくっつくこともなく、一個一個が大きくなったのがありありと分かる。
さあ、いよいよ焼き上げだ。
オーブンを二一〇度に余熱して、その間に最後の仕上げに取り掛かる。焼き上がった際の表面のツヤを出すために、溶き卵を表面に塗るのだ。成長した我が子に晴れ着を着せなくては。
刷毛にしっかりと溶いた卵を付けて、毛先が生地に刺さってしまわないように、またムラになってしまわないように丁寧かつ素早くしなくてはならない。
天板に並ぶ全てを慎重にツヤツヤにして、律希を見上げる。
「こんなもんでどうでしょう」
「うん、いい感じ」
少し待つとオーブンが余熱を終えたので、天板を入れて十分に設定してスタートボタンを押す。
待ちきれずにオーブン前にかぶりつきの春穂を眺めて、律希が微笑ましげにグレージュの猫っ毛を撫でた。
「そんなに楽しみ?」
「はい! 人生初の自家製パンですから」
「春穂ちゃんってやっぱり、たまに子供みたいな感じになるよね」
「へ? 子供みたい、ですか……?」
来週には二十一になるというのに、言うに事欠いて『子供みたい』とは。それもパン作ってみてちょっとは成長できたかな? とか思っているときに『子供みたい』とは。
流石にショックだ。……こうやって頭を撫でられてるのもあれかな、もしかして子供扱いの表れかな? いつも距離感近めだなぁとは思っていたけれど、いや別にその点は構わないんだけど、それって自分は大人であたしは子供と認識していたからですかね?
春穂のふるふると傷ついた表情から言い方を間違えたことに即座に気づいたようで、律希は慌てて言葉を修正した。
「違くて、その……純粋というか、無邪気だな、っていうこと。思ったことが素直に表情とか行動とかに出るから、くるくるしててかわいいなって……子供扱いとかじゃなくて」
さらっと言われた『かわいい』がもはや子供扱いにしか聞こえないのは、疑心暗鬼のなせる技だ。むぅ、と唇を尖らせかけて、これも子供っぽいかと止める。
何故か無性にむかっ腹が立つ。
「……お願いだからそのジト目やめて……」
「ああ、ごめんなさい。しょっちゅう頭撫でられてると、どうにも信憑性ないなぁと思いまして」
「……嫌だった? 撫でられるの」
「それは全然ですけど。ただ、大人と子供の距離感のように思えてなりません」
「それは断じて違うから。何ていうか……つい撫でたくなるというか。嫌だったらもうしない」
「だから嫌じゃないですってば。頭撫でられるの自体は好きですよ」
「なら良かった。子供扱いじゃないから、ほんとに。さっきも言ったけど、無邪気で素直だからかわいいなってだけ。見てて楽しくなる」
伝わったかと不安げに春穂を覗き込んでくる律希の表情は、なんだか捨て犬に似ている。春穂より一つ上の大の大人なのに、不覚にもちょっとかわいい。ゆえに抱くそこはかとない罪悪感。
つい、春穂は律希の頭に手を伸ばした。
「……分かりましたし、許します、から。そんなしょぼくれた顔しないでください。胸が痛いです」
「……はい。ごめんなさい。春穂ちゃんを子供だと思ったことはほんとにありません」
「分かりましたって。……あ、いつの間にかパン膨らんでる」
春穂と律希がごたごたしている間にも、当然オーブンは稼働してパンを焼いているのだ。透明の扉越しに、生地のサイズがふっくらと変化しているのが見えた。段々と香ばしいいい匂いもしてきている。
何となく二人してそのままオーブン前で待っていると、やがて軽やかなメロディが焼成の終了を告げた。
「焼けた!」
「熱いから気をつけてね」
「はいっ」
急いで手にミトンをはめて、オーブンの扉を開ける。解放された熱気と一緒に、《Harbest》で慣れ親しんだ香りがぶわっと広がった。春穂の口元がへにゃんと綻ぶ。
天板を持って恐る恐る引き出すと、
「ふわぁ焼けてるー!」
表面は見事に照ってツヤツヤ、ふんわり膨らんだバターロールが出来上がっていた。
「律希さん、これうまくいきましたか?」
「うん、ちゃんと膨らんでるし焼き色もいいね。上出来だよ」
「やったぁ!」
「焼きたて、味見したい?」
「したいです!」
天板をシンク横の調理スペースに置き、焼きたてバターロールを一つ手に取る。思ったよりも熱かったので指先で持って、息を吹きかけて少し冷ましてからひと思いにかぶりつく。
「~~ほいひぃー……! ほいひぃへふひふひはん」
「うん、良かった良かった。俺も一ついい?」
「ふぁい」
口中を満たすバターと小麦の風味で、春穂の表情筋は完全にKO負けしている。ゆるゆる顔の春穂に笑まれた律希は、どことなく幸せそうに、穏やかに笑み返して春穂の頭を軽くかいぐった。
幸せの一口目を終えて、春穂は二口目に入る。
油分の割合が多いためにふわふわとソフトな生地は、噛むとすぐにバターの香りが行き渡る。かつて律希が食べさせてくれたクロワッサンよりは格段に少ないはずなのに、それでも贅沢感に溢れているのは卵のおかげだろうか。柔らかな甘さと相まって、春穂に充分な満足感を与えてくれる。
そして驚きなのが食感だ。よう売っている一般的なバターロールとは違って、この焼きたてバターロールは表面にサクッとした極薄の膜がある。
「バターロールなのに、焼きたてってみんなこんなにサクッてしてるものなんですか?」
「そう。時間経つと段々しっとりしてくるよ。ただこれは仕上げに卵塗ったから、クラストの厚みが増してるってのもあるけど」
「クラスト?」
「パンの耳とか、皮のこと。要するに外の焼けた部分だね」
「へぇ」
パンの耳にもそんなお洒落な名前があったとは。
「ちなみにこのパン、配合変えて牛乳でこねたらミルクロールになるよ」
「それもおいしそうですね。牛乳に卵だから、よりお菓子っぽいかも」
「卵はふんわりするし、牛乳はコクが出るからなぁ。俺も甘い系のパンの試作するときは、とりあえずその二つから考えてみてる」
「お、次は夏の新作ですか?」
「なんかアイディアあったらちょうだい」
「考えてみます」
夏だから涼しげなのがいいかな? そんなことを思いながら、春穂はまたバターロールを頬張る。
より良い新作を考えるためにも、もっと精進しなくては。
天板二枚分焼いたバターロールを最後に律希と半分こして、律希先生主催・春穂のためのパン教室は終了と相成ったのだった。




