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二日酔い≒始まり

本日2話目です。

 濃密な泥の底から、ずるりと意識が這い上がってくる。ささやかばかりの手土産にと、頭痛と胃の不快感を伴って。

 春穂は寝起き早々顔をしかめた。同時に感じる肌寒さに、柔らかい毛布を肩まで引き上げる。


「ん……うぅ……」


 呑まれた。それだけは分かる。だがそこに至るまでの記憶が曖昧だ。

 億劫ながらも瞼を持ち上げた春穂の目を、陽の光が鋭く射る。部屋の日当たりこんなに良かったっけと首を擡げると、大きな黒丸が少し先にあった。……タイヤだ。


 瞬間、春穂はぎょっとして飛び起きた。


 同時に胃の中が暴動を起こさんとしたので、胸元をさすりながら考える。部屋のインテリアにタイヤを据えた覚えはない。ならばここはどこだ。

 辺りを見回すと、シートで作られた屋根と壁の中に、テーブルと椅子二脚の組み合わせが三セット。そしてその奥にはアイボリーの地に何やらロゴの入った移動販売車がある。筆記体で恐らく《Harbest(ハーベスト)》と読むのだろうか、麦の穂をバックにピンクとオレンジのグラデーションで書かれているのが可愛らしい。


 そんな車の奥で作業をしていた見知らぬ青年と目が合ってしまった刹那、春穂は危うく悲鳴を上げかけた。


「━━っ!?」

「ああ、起きた?」


 すんでの所で堪えることができた理由としては、率直に彼の顔が端正に整っていたのが大きかったと思う。女顔の部類に入るだろう面立ちは、爽やかと表すのがしっくりくる。


 しかし男は男、起き抜けに身近に居るはずのない存在だ。

 動揺と混乱この上ない春穂に彼は苦笑し、とりあえず、と前置きして告げた。


「そういう過ちは一切無かったからそこは安心して」

「あ、……はい」


 ひとまず良かった、と春穂は胸を撫で下ろした。いくらイケメンとはいえ一夜の過ちは遠慮しておきたいところである。


「あの……ここ、は……」

「ああ、駅前の本屋って分かる? そこの前のスペース」

「駅前……」


 こめかみを軽く押さえながら、春穂は何となく思い出してきた。

 そうだ、確かゆうべは……工場が、潰れたのだ。それでお酒が呑みたくなって、繁華街でお店に入って━━そこからぷっつりと記憶がない。一体どれほど呑んだんだ。

 ああ、もう嫌な予感しかしない。


 うなだれそうになった春穂の耳に、コトンと小さな音が届く。見れば最寄りのテーブルに水の入った紙コップがあった。次いで隣に湯気の立つ紙コップが置かれる。

 いつの間にか近くに来ていた彼が、据え置かれた椅子に腰掛けた。テーブルのものと同じ紙コップに口を付け、小さく笑む。


「カフェオレと、一応水ね。飲めたら飲んで」

「あ……ありがとうございます。あの、あたし、どうしてここに……」

「んー……まあ、端的に言うと、ここで行き倒れてたんだよ」


 嫌な予感は見事的中した。


「俺、毎週水曜だけここで店出してるんだけど。今日もいつも通り来てみたら、車停める場所で女の子が寝てたもんだから流石にびっくりしたよ。声かけても起きないし。で、そのままだと確実に轢くからちょっと運ばせてもらいました」


 穴があったら入りたい。

 むしろ自ら掘りたい。

 春穂は両手で顔を覆って俯いた。激しい自己嫌悪が高波のごとく押し寄せてくる。


 年頃の娘が酔い潰れてその辺で熟睡など、実家の母が聞いたら鉄拳の一発や二発は飛んでくること間違いなしだ。下手をすれば今朝こうして目覚めることも叶わなかったかもしれなかった。

 しばらくお酒は控えよう。そう心に決めた春穂だった。


 とにもかくにもまずは彼に頭を下げる。


「ごめんなさい、大変ご迷惑をおかけしました……! ……昨日は、その……色々と、あって……」

「ああ、いいよいいよ。ただまあ、この町そこそこ平和だけど、やっぱり良からぬことを考える輩も居ないわけじゃないから。あんまり無防備なのは危ないと思うよ」

「はい、すいません……」


 春穂は唇を噛んだ。

 あんまりにも━━あんまりにも、自分が情けなくて。


 外で寝ちゃいけません、なんていくつの時に覚えたことだろう。それを二十歳も超えた今更、初対面の男性に諭されて。


 もう、昨日から散々だ。


「え、ちょっ……!?」


 彼の狼狽の声が上がる。

 気づけば春穂の睫毛からはぽろぽろと涙が滴っていた。

 喉に気持ち悪さよりも強く熱い塊がこみ上げてきて、顔がくしゃりと歪む。春穂はとっさに顔を隠した。


「っごめ……なさ、何、でも、ないので」


 押し寄せてくる一波一波を堪えて、戸惑う彼にどうにか言葉を紡ぐ。


 何でもないから。お願い。

 こんなみっともないところを見ないで。

 これ以上醜態を晒したくないのに。


 惨めな気持ちが涙と共に溢れて止まらない。


 せめて声を殺そうと奥歯を噛みしめる春穂の視界を、不意にベージュが覆い尽くした。


 暗くなった世界に驚いて目をしばたたく。頬に触れるその肌触りと色合いには覚えがあった。

 春穂の体に掛けられていた毛布━━それが今、何故か春穂の頭に掛けられている。布が長く下まで垂れる光景は、珍妙なベールにも見えた。


「……俺の仮眠用に使ってたやつだけど、一応定期的に干してある、から……」


 恐る恐る言葉を探しているような彼の声が近くで落ちる。その、えっと、と毛布越しには更に聞き取りづらいごにょごにょ声の後にしばしの沈黙が落ちて。


 ぽふ、と春穂の頭に何かが乗った。


 わしゃわしゃわしゃ、とそれが動く度に毛布と春穂の髪も動く。

 かき回すように少し乱雑な仕草に、無上の優しさが滲む大きな手が、春穂の頭を撫でていた。


 ━━あ、そうか。

 この毛布はあたしが泣き顔を晒したくないことを悟ってくれたから。

 この人のもどかしそうな気配はあたしの慰め方を頑張って考えてくれていたから。


 なんて、不器用で温かい。


 温い水が心の堤防に押し寄せて、瞬く間に決壊する。溢れた出口はもちろん春穂の目。


 久々に、子供のように泣きじゃくった。


 ひっ、ひっ、としゃっくりのような泣き声を上げる春穂の頭を、彼はひとしきり撫でてくれた。

 盛大に泣いた分落ち着くのも早く、しばらくすると自然と涙は引っ込んだ。静かに深呼吸を始めた春穂に、彼の手がそっと離れる。

 それをささやかに寂しく思った。


「ごめん、なさい。ご迷惑を」

「いいって。……辛いことがあったんなら、話くらいなら聞く、よ?」


 初対面の男でいいなら、と彼が呟く。春穂は鼻をすすって、毛布に落ちる彼の影を見つめた。

 ーーこの人になら全て吐き出したいと思ったのは、既に人生最大の恥を晒しきったからだ。


「……いいん、ですか?」

「うん」

「あ、でも、お店……」

「開けるまであと小一時間はあるから大丈夫だよ」


 気負いのない自然体の声に、春穂は一度目元を拭ってからおずおずと毛布を引いた。ぼろぼろの顔だが毛布ルックのまま話すのは間が抜けていて嫌だ。

 椅子に座り直していた彼は、目が合うと柔和に笑った。


 泣いて声が掠れていたのでひとまず水で喉を潤す。二日酔いは号泣の前にすごすごと逃げ去ってくれたようだ、吐き気はもうない。

 紙コップを両手の内で弄びながら、春穂はぽつぽつと昨日のことを語った。


 話してみれば案外短いものだが、それでも話し終えた後には、彼は痛ましそうな顔になっていた。


「……きっついね、それは」

「……はい。それでお酒入れてあの様です」


 話すといくらか楽になった。ずっと消化しきれていなかった感情の塊が崩れて言葉と共に出ていった気がする。

 実際、「あの様です」と苦い思い出をこぼすように苦笑しながら言うことができた。


 彼はそんな春穂にふっと笑み、また頭を撫でた。出逢って一時間と経っていないのに、気心知れた仲のようになっている不思議である。

 号泣してしまったことで、一気に壁が取り払われたようだ。人前で泣くことを好まない春穂にとって、赤の他人の目の前で(毛布越しではあったが)泣くというのはかなりハードルの高いことだったのである。


「ちょっと待ってて」


 言うや彼は席を立ち、車内もとい店内で何やらし始めた。

 春穂が小首を傾げていると、二分ほどで、チン! と明るい音が鳴る。


「はい。俺の奢りね」


 白い丸皿に乗って差し出されたのは、軽く温められたクロワッサン二つだった。

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