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ふっくら≒じゅわっ

「百九十八っ、百九十九……にひゃ、くっ!」

「はい、お疲れー」


 気合いを入れてきっちり二百回、生地をこねあげた春穂は若干ぐったりだ。パン作りって肉体労働労働なんだな、と実感する。

 けれどこねている内にべとついていた生地がもっちりと弾力を持ってきて、結果がよく分かるためとてもやりがいがあった。久々に味わう達成感だ。

 酷使した右腕を肩からぐるぐる回していると、律希がおもむろに台の上に鎮座する生地を伸ばした。そして満足そうに頷く。


「ん、上等上等。春穂ちゃん、見てみて」

「?」

「引っ張ったとこ、薄い綺麗な膜できてるでしょ。これでこね上がり。ここがボソボソしてたらこねが足りないってこと」

「わ、ほんとだつるつるですね」


 この状態になったら、中心から外に引っ張るように表面を張らせて生地をまとめる。丸くなったすべすべもちもちお肌の生地に、なんだか愛着が湧いてくるものだ。願わくば春穂もこんなお肌になりたいものだ。

 温度計を差すと、二十八度。こね上げた時の温度は二十八度からプラスマイナスで一度の範囲内にあるのが適当なので、丁度ぴったりだ。これでこねの行程は終了になる。


 さて、続いては一次発酵だ。


 ボウルに生地を入れて、空気に当たらないようにラップをかける。


「夏だったらそのまま放置でいいんだけど、今日はオーブンの発酵機能使おうか。四十分くらいで、足りなかったらもう一回入れて」

「はい」


 後は文明の利器にお任せして、空いた時間は洗い物である。律希に曰く、作業場を綺麗に保つのも成功の秘訣らしい。

 二人がかりですれば洗い物は五分程度で済み、パンはまだまだ絶賛発酵中だ。

 時計を見ると、律希の家に来てから既に一時間は経っている。


「やっぱり昼またぐね、これ。仕込んどいてよかった」

「何をですか?」

「まあ、後のお楽しみということで」


 何なんだろう。……律希さんが仕込んだってことは、おいしいものかな?

 オーブンの中で膨らむパン生地と一緒に、春穂の期待もふかふかと膨らんだ。……律希と出会ってから、春穂の食いしん坊が成長してきているような気がするのはきっと気のせいではない。



 テレビでも見ながら四十分後、オーブンから短いメロディが鳴った。発酵が終了したのだ。

 どんな風になっているんだろう、とわくわくしながらボウルを取り出すと、


「ふわぁ、ちゃんと膨らんでる!」


 両手の平に収まる大きさだった生地は見事に発酵し、二倍程度になっている。発酵前はむっちりしていた生地が今はどことなくふかふかとしていて、ガスが中で発生しているのが分かる。大きくなったなぁ、と春穂は最早子の成長を見守る親のような気分だ。

 ただしまだきちんと発酵しているかは分からない。なのでフィンガーテストという発酵具合の確認を行う必要があるのだ。

 強力粉を人差し指に付けた春穂は、えい、とふかふか生地にその指を突っ込んだ。そしてゆっくりと抜く。

 ここでもし生地に指の穴が残らずに塞がってしまう場合は発酵が足りず、また穴の周囲の気体が抜けて全体的にしぼむようであれば発酵しすぎになる。穴がそのまま保たれていれば良いのだが━━。

 果たして結果は、穴はちゃんと開いたままでしぼむこともなかった。発酵完了だ。

 よし、順調順調。にへっと笑った春穂は生地を軽く押さえてガスを抜き、次の行程に進む。


 今は大きな一つの生地だが、これを分割するために使うのがカードもしくはスケッパーだ。カードは生地をこねる段階で使ったが、スケッパーというのは円筒と板が合わさったような形の金属製の道具だ。どちらかと言えば分割の主力はこちらである。

 スケッパーで生地を等分して、量りで均等か確かめる。全部が同じになるように生地を足したり取ったりして、多分この辺が作り手の性格が出るところだと春穂は思う。とにかく今日は初めてなので、慎重に、慎重に。


 全部分け終われば、今度は丸める番だ。表面が張って滑らかになるように丸めていく。

 春穂が両手でせっせと一つを丸めている間に、隣で律希が二つ同時に丸めているのはプロの技か。片手に一つずつで台を使えば、瞬く間にまんまるな生地が出来上がるという早業だ。いつか春穂もやってみたいものだ。


「春穂ちゃん、丸め終わったの並べといて」

「バットでいいんですね?」

「うん」


 生地をバットに並べ、乾燥しないよう上にしっかり絞った布巾をかける。ベンチタイムと呼ばれるこの行程で生地を休めるのは、切られて丸められて散々痛めつけられた生地を回復させ、伸びのいい生地にするためだ。

 この状態で二十分ほど置く。


 再びテレビを見て時間を過ごし、頃合いで成形に取りかかる。今作っているのはバターロールなので、あのくるりと巻いた形にしなければならない。

 律希が生地の一つを取ってお手本を見せてくれるのを、どうやるんだろうと春穂は興味津々に見つめた。


「まずは三つ折りね」


 律希は手のひらで生地を押し潰すと、裏返して中心へと三つ折りをした。そして更に二つ折りにして、そのまま転がすように生地を細めていく。最終的に、生地は片側の先がやや細い円錐に似た形になった。


「これでまた五分休ませる。その間に他もこの形にするから、春穂ちゃんもやってみて」

「了解です」


 このくらいなら春穂にだってできる。

 黙々と作業をこなしていると、最初のものが五分経っていた。


「今度は一緒にやってみようか」

「あたしでもできますかね?」

「一回覚えればいけるよ。まず先細の方を手前にして持って、太い方を伸ばす。で、次は細い方へ向かって伸ばすと、細長い三角になる。ここまで大丈夫?」

「えっと……綺麗な三角形にならないです」

「大体でいいよ。それで十分。そしたら太い方から、最初はしっかりめに巻いて、後はくるくる転がす感じで」


 聞くだけなら拍子抜けするほど簡単だが、上手くいくだろうか。持っていた麺棒を置いて、教えてもらった通りにやってみる。

 最初はしっかり、後はくるくる。巻き終わったところを下にしてみると、律希のものと比べると少し歪だが、ちゃんとバターロールの形になっている。

 ……なんかむっちりした幼虫っぽい? と、春穂は食欲の失せることをふと思った。


 春穂が続々と成形をしていると、いつの間にか律希がどこかへ行っていた。見れば台所に立って何やら作業している。

 さっき言っていた、仕込んでいたものだろうか。興味を引かれてよそ見をしていてもバターロールの形が整うくらいには、春穂も手慣れてきた。今、春穂の手はバターロール作りに特化しているかもしれない。

 成形を終えた生地を、オーブンシートを引いた天板に並べていく。


「律希さん、全部終わりました」

「お。すごいね、思ったより早かった。それじゃ最終発酵させようか」

「またオーブンですか?」

「そうだよ。ただ、一つ注意。最終発酵は湿度高めっていうのが大事なポイントだから、庫内がちゃんと湿気るようにしないといけない。だから今日はお湯の入ったボウルを一緒に突っ込んで、中の湿気を保ちます」

「なるほど、乾燥肌になったら大変ですもんね」


 パンにも人のお肌にも、うるおいは大切である。

 オーブンに天板とお湯の入ったボウルを入れ、一次発酵と同じ四十分に設定して、最終発酵開始だ。これを終えれば後はもう焼くだけになる。


 待ち遠しく春穂が洗い物に取り掛かろうとすると、律希がそれを止めた。


「春穂ちゃん、昼過ぎたけどそろそろお腹空かない?」

「……そういえば」


 作業に集中している時は気が付かなかったが、自覚した途端に空っぽだよぉと胃が悲鳴を上げんとしてくる。

 何か買いに行くべきだろうか。空腹の寂しさも相まって困り顔で律希を見上げると、彼はふはっと吹き出した。


「泣きそうなうさぎって感じだね」

「……一応、お肉も食べたい雑食ですが」

「なら丁度よかった。昼飯作ってあるんだけど、食べない?」

「崇め奉らせてください律希さん! 食べたいです!」

「了解。そこのテーブルでいいよね? コップとか取り皿は食器棚にあるの適当に出しといて。箸いらないし」

「はい」


 丁度よかったってことは、お肉系かな? 弾む心をどうどうと宥めつつ、春穂は食器棚からガラスのコップを二つと皿を二枚取ってダイニングのテーブルに置いた。

 ややあって律希が持ってきたのは鍋敷きと、白く曇ったガラス製の鍋だ。

 ……いや、鍋ではない。あれは多分。


「蒸し器ですか?」

「当たり。蘭子さんがいらないから持ってけってくれたのがあったから、使ってみた」


 テーブルの真ん中にそれらが置かれて、律希が蒸し器の蓋を開ける。

 もわっと解放された湯気の下、現れたのは具を包み込んだ白く艶やかな存在。


「わ、肉まんだー!」


 はしゃぐ春穂に、律希が微笑ましげに口元を緩めた。


 中国で、主たるパンは蒸したものだ。その中でも基本となるのが饅頭マントウ。日本で言えば白米のようなもので、身近なものだと肉まんの皮になる。

 同じ生地でも形や中に何か入るか否かによって名前は変わり、表面が滑らかな丸形などの形のものを饅頭マントウ、渦を巻いているものや花びらのような形のものは花巻ホワチュアン、そして中に具が入っているものを包子パオズと呼ぶ。肉まんやあんまん━━つまり中華饅頭はこの包子のグループに入っているのだ。

 熱々こそが醍醐味ということで、総じて賞味期限は蒸したてすぐ(ちなみにレンジなどで蒸し直せば復活する)。


 賞味期限を逃さないよう律希がてきぱきお茶を淹れてくれて、二人で食卓につく。


「辛子はないから、他何か付けたいのある?」

「えっと……家ではいつもウスターソースでした。でも、これはとりあえずそのままいきたいです」

「うん、どうぞ。召し上がれ」

「いただきます」


 暑そうなので指先でそろりと取って、皿に移す。底には蒸す際の貼り付き防止か、切ったオーブンシートがくっついていた。

 剥がすと生地が所々持って行かれた。


「この紙にくっついたやつ、取らずにはいられないんですよね」

「ああ分かる。口に持ってって歯でやらない?」

「します。いつも前歯活用してます」


 二人して紙を口に当てて歯で生地をこそげ取っているという、なかなかに不思議な光景を経ていざ本体を食す番である。

 見るからに熱そうなのでふぅふぅと念入りに息を吹きかけて、具まで届くように口を大きく開けてかぶりつく。


「~~ん~~……ほいひぃ……!」


 噛みちぎるより早く口の中に飛び込んでくる、火傷しそうなほどの熱々の肉汁。ネギなどの香味野菜や調味料で豚肉の臭みは見事に消されていて、純粋な肉の旨みが口いっぱいに回るというこの幸福感はパン作りの疲れなど軽く吹き飛ばして余りある。

 そしてゆっくりと噛みしめていけばいくほど広がっていく小麦本来のシンプルな甘みが、肉だけ突出しすぎようにまとめているのがまた凄い。全てをそっと包み込むこの感じは、ちょっとおかしな表現かもしれないがまるで具が生地に抱きしめられているようだ。

 包容力って大事。パンにも、多分人にも。


 二口、三口と春穂が幸せに浸っていると、向かいで律希が笑み崩れていた。


「ほんと、食べさせ甲斐あるなぁ。幸せそう」

「おいしいイコール幸せですよ。律希さんはきっといいお嫁さんになります」

「あれ、俺嫁ぐの?」

「結婚式は白無垢ですか、それともドレスですか?」

「うん、ドレスかな。ってこら」


 軽いノリツッコミと共に、こつんと額を小突かれた。えへへと笑って、春穂はまた肉まんを頬ばる。


「それにしても、肉まんって久々に食べましたよ。高校帰りにコンビニ寄ってた頃以来」

「……昔は、高校帰りに《Harbest》に寄ってたんじゃなかった?」

「あれ、あたし律希さんに言ってましたっけ? そうですよ、でも……一年の時だけ、ですね。すごくおいしかったんですけど……まあちょっとした理由で、行くの躊躇うようになっちゃって」


 食いしん坊を自負する春穂でも、当時はその『理由』とパンを天秤にかけると『理由』の方に傾いてしまった。

 もう少し突っ込んで言うならば、かつて春穂のお節介気質が過去最高に暴走した場所の先に《Harbest》があったために、どうしても足が向かなかったのだ。

 だって、もし、逢いでもしたら。……そう思うと、春穂の心にじんわりとわだかまっていた気まずさが「無理!」と悲鳴を上げて、帰宅ルートの変更を選ばせたのだった。もちろん途中に食べ物が売っているルートを。


「もしあたしがずっと通い続けてたら、律希さんにもその時とっくに会えてたかもしれませんね」

「……そうだね」


 ふっと苦笑した律希の手が、春穂の頭に乗る。そっと慈しむような手つきで撫でられるは今日二回目だが、前回とは違い、目の前の律希は寂しそうな申し訳なさそうな、複雑な表情を浮かべていた。

 春穂は思わず食べるのを止めて、律希を見つめる。


「……律希さん? どうかしましたか?」

「いや、何でも」

「ならいいですけど……何かあったんなら、とりあえず肉まん食べて和みましょう。めちゃくちゃおいしいですよ?」

「うん。和んどく」


 髪に指を通すように、壊れ物を扱うかのように。片手で肉まんを食べながら、もう片方の手で律希はしばらく春穂の頭を撫でていた。

ちなみに作者はコンビニ肉まんを食べたことがないのです。食べてみたい……

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