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訪問≒律希先生?

 約束の週末、スマホに送ってもらった地図の通りに歩いて春穂が着いたのは、綾深市でも高級志向と名高い分譲マンションだ。庶民志向の春穂のアパートとは、物理的な高さからして違う。入り口自動ドアだし。


 ……律希さんって実はお金持ち?


 おっかなびっくり中に入ると、ちょっとしたホテル顔負けのエントランスが広がっている。青と白を基調とした空間は開放的で、敷き詰められた絨毯は土足で踏んでいいものかと若干迷うほどのふかふかさだ。

 律希の部屋にお邪魔するというのは別に大丈夫だが、別方面でにわかに緊張してきた。

 溢れまくる高級感は努めて気にしないようにして、教えられていた部屋番号を機械に入力してインターホンを鳴らす。

 程なくして律希の声がした。


『……はい』

「おはようございます、春穂です」

『おはよ。エレベーターのところまで迎えに行くから来て。十五階ね』

「はい」


 エレベーターに乗り込んで天井の凝った模様を眺めていると、十五階にはすぐに着いた。

 降りたところに居た律希に、まずは軽く頭を下げる。


「今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ。部屋こっちだよ」


 案内される間に、春穂は率直な疑問を述べてみた。


「律希さんってお金持ちなんですか?」

「ん? ああ、このマンション? 無駄にでかいでしょ。ここは俺の母親が使ってたのを『もういらない』って言ったから、俺が名義とか諸々譲り受けてそのまま使ってるだけ。俺の収入は春穂ちゃんと同じくらいだよ」

「……ダイナミックなお母さんなんですね」

「まあ、そうだね。……それより春穂ちゃん、今日髪型いつもと違うね」


 歩く振動に合わせてふわふわと揺れる春穂のポニーテールの毛先を、律希が面白そうに指先でいじった。

 いつもは仕事中は一つの横括りにしている春穂だが、今日はパンを作るということで悩んだ末ポニーテールにしたのだ。これだと大半の髪は前に来ないので、生地に髪が入ってしまう心配も少ない。


「高校でチアやってたとき以来してなかったんですけど、後ろにやったほうがいいかなと思いまして。昔は髪も黒だったので、久々にしてみたらかなりイメージ違ってました」


 春穂が何気なく言ったその瞬間。律希のおもしろそうに細められていた目が開かれて、まるで春穂を透かしてどこか遠く━━それこそ不可視のものでも見ているようになる。

 転瞬、その眦がふわりと和んで。いつものわしゃわしゃした感じではなく、そっと髪を撫でてくる。


「そっか。……似合ってるよ」


 少しとろりと変わった声の雰囲気は、自分でも驚くほどに春穂の心臓をぎゅうっとさせた。色気ってこういうことなんだろうか。

 動機を打ち出した心臓を宥めていると、ネイビーの扉の前にたどり着いた。部屋番号からしてここが律希の部屋のようだ。


「部屋ここ。さ、入って」

「お邪魔します」


 律希の後に続いて中に入ると、その広さにまた驚愕する。しかも扉は多いわ奥がガラス張りだわ部屋の中なのに階段があるわ。

 これを「もういらない」と言ってのけた律希の母はやっぱりダイナミックな人だなぁ、と春穂はつくづく思った。


 荷物はリビングに置かせてもらい、いよいよ今日のメインイベント・パン作りである。

 粉がかかるということで持参のエプロンを身につけた春穂は、同じくエプロン姿で材料を並べた律希を見上げた。


「律希先生、今日は何を作るんですか?」

「今日は定番中の定番ってことで、バターロールを作りたいと思いまーす」

「バターロール!ふかふかのやつですね!」

「そうそう」


 春穂が買った本にも、当然のごとく掲載されていたバターロール。テーブルロール━━要するに食事用の小さなパンの代表格で、日本でも有名だが出身はアメリカだ。

 アメリカでパンは二分の一ポンド(約二二六.八グラム)を境に区別され、小さい方がロール、大きい方がブレッドと呼ばれる。ロールはホッドドッグのバンズやハンバーガーのバンズでもあるのだ。

 ちなみに先に挙げた『バンズ』という呼称だが、英語で小さな丸パンや細長のロールパンを『バン』と呼ぶその複数形である。日本では単数ではなく複数形で定着している。


「じゃ、やりますか」

「はい」


 最初にふっかけたのは春穂だが謎の料理番組ノリを続けるのもしんどいので、春穂と律希は早々に通常運転に戻って作業を開始した。

 目の前にある大きなテーブルに並べられているのは、強力粉にバター、砂糖に塩、卵に水と━━どことなく漢方薬のような、黄土色をベースとした顆粒だ。


「これがイーストですか?」

「そう。店だと生イーストとドライイースト使い分けてるんだけど、保存きくから家ではドライイースト買ってるんだ。店のとは違うから、これは予め発酵しとかなくていいやつ。スーパー行けば普通に売ってるよ」

「へえ」


 今時のスーパーはすごい。


「じゃあ春穂ちゃん、まず準備の段階からポイント解説していくね」


 そう言って、律希に渡されたのは卵だ。

 一見何の変哲もないように見えるが、これが何かの鍵なのだろうか。


「……あれ、この卵けっこう温い?」

「よく気づいたね。準備として、卵とバターは常温に戻しておくこと。パン生地は温度が重要だから、適温に保つべきところにいきなりキンキンに冷えたもの突っ込まれたらイースト菌がやる気なくすんだよ。バターは固まりすぎてたら練り込む時にやりにくいしね」

「卵とバターは常温……温度が重要ってことは、もしかして水もですか?」

「お、賢い。そうだよ、生地の温度が高すぎても低すぎても駄目だから、水は気温とか考えて温度調節しなくちゃいけない。今は水道水そのまんまで丁度だけど、冬は温かく、夏は冷たくっていう感じかな」

「デリケートなんですね、パンって」

「デリケートだよー。じゃ、やってみようか」


 まずは各材料を量って、ボウルに強力粉の半量を入れる。ドライイーストを入れてまんべんなく行き渡るように混ぜる。

 次に別のボウルに水を入れ、砂糖と塩を加えて混ぜ合わせる。そこに卵と先程の強力粉をを投入し、木べらで滑らかになるまでしっかりとよく混ぜていく。


「ダマにならないようにね」

「はい」


 粉を入れたときはたくさんあったつぶつぶが見えなくなったところで、律希に指示されて春穂は残り半分の強力粉も入れた。ここからは木べらではなく手仕事だ。

 粉に水分が回るように手でこねる。この行程を水和というらしい。

 生地をまとめようとする春穂の手に、水気を含んだ生地が絡みついてくる。


「わ、べたべたする……」

「大丈夫、段々まとまってくるから」

「こ、これで合ってますか?」

「うん、上手いよ」


 しばらくすると綺麗に水分が回って、生地が一つにまとまるようになった。それでもまだかなりべとつく上、ボウルに粉っぽい生地がくっついている。

 そこで登場するのが、四つ角のうち二つが丸い長方形、カードだ。これの丸角の部分を使って、ボウルに付いている粉っぽいものを丁寧にこそげ取って生地に合わせる。

 それでも側面に残る粉は生地を叩きつけてくっつけ、材料を無駄にしないように。これもおいしいパンの一部になるんだから少しでも減らしたくない、と春穂の食いしん坊気質はこういうときにも発揮される。


「ん、そろそろバター入れようか」

「そのまま突っ込めばいいんですか?」

「そうそう。量が多かったらちぎるけど、このくらいならそのままでいいよ」


 塊のバターを生地に放り込み、とりあえずぐにぐにと押してみる。常温にしてあったので柔らかい。


「えっと、律希さん」

「ん?」

「バターがうまく混ざってくれません」

「指で生地の中に押し込むみたいにやってみな。潰しつつ潰しつつってしてると、指の温度とかでもクリームみたいになって混ざるから」

「潰しつつ……」


 言われた通りに指先でバターを解していくと、確かにクリームのようになってきた。少しずつ混ぜ方のコツを掴んできた気がする。

 均一にバターがなじむまでこね回して、ある程度まとまったら生地を伸ばして畳むを繰り返す。春穂の手に付いていた生地も徐々に取れてきたので、指を動かしやすくなってきた。

 ひとまとまりになった生地を取り出し、律希の指示に従って台に打ちつける。

 ぺしゃ、と間抜けな音。台にでろんと貼り付く生地をなんだかスライムみたいだなぁと思っていると、律希が隣でくつくつ笑った。


「優しすぎ」

「え?」

「ちょっと貸してみて」


 優しすぎって? 内心で小首を傾げた春穂だったが、律希と場所を変わるとすぐにその意味を知ることになる。

 台から生地を剥がした律希は手際よく生地をまとめ直すと、


 ━━バンッ!


 と、春穂がびっくりするほどの音を立てて生地を台に叩きつけた。

 なるほど、この力加減なんだ。春穂が納得している間に律希は生地を引き伸ばして奥に畳み、九十度回してまた叩きつけていく。流石は現役パン職人、惚れ惚れする手さばきである。


「律希さんって職人歴何年なんですか?」

「んー……高三の始めからだから、今で丸四年になるかな。まだまだ半人前だよ」

「高三ってもしかしなくてもそれ、受験しながらの修行ですよね?」

「うん。ほんとは元々高卒でいいやって思ってたんだけど、親父さんと蘭子さんが大学は行っとけって言ってくれたから。息子同然だからって言って、受験までずっと面倒見てくれたんだよね。……たくさん恩がある、俺にとっては親みたいな人達なんだよ」


 はい、交代。律希に生地を渡されて、春穂はさっき学んだ力加減で台に生地を叩きつけてこねる。慣れてくると粘土遊びみたいで面白い。

 調子が出てきてバン、バン、とリズムよく音を響かせながら、春穂はぽつりと呟くように言った。


「あたしにとってのたくさん恩がある人は、間違いなく律希さんですね」

「……そう?」

「律希さんがいなかったら、あたし今どうなってたか分かりませんもん。路頭に迷うか、……初対面の時律希さんが言ってたみたいに、最悪犯罪に遭ってた可能性だってあったんですから。今こうやってパン生地こねてられるのは、律希さんがあたしを助けてくれたからですよ」


 今更ですけど、本当にありがとうございます━━。

 満面の笑みで言われた律希はきょとんと目を瞬いて、ふはっと破顔した。和んだ眦を見るのは本日二度目のことだ。

 頭を撫でる代わりか、手の甲で頬をふにふにされる。


「俺こそ。……ありがとう、春穂ちゃん」


 お礼にお礼を返されて、今度は春穂がきょとんとする番だ。

 どうして律希さんがあたしにお礼を。春穂が尋ねるその前に、いたずらっぽく笑った律希が宣った。


「さて。━━頑張れ春穂ちゃん、この行程の目安は二百回だよ」

「にっ……二百!?」

「店だと機械でやるから楽なんだけどねー」


 あまりの回数に素っ頓狂な声を上げた春穂は、抱いた疑問を律希にそっとはぐらかされたことなど、気づきもしなかったのだった。

まだまだ続きます、パン作り編!

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