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くるくる≒無知

 ゴールデンウィークは、ベーカリーにとっては至ってノーマルなウィークである。

 常に週休一日制のパン屋仕事にも慣れ、そろそろ春穂の中で祝日の感覚が狂ってきた。定休日は土曜なので、カレンダーの赤字の日は基本的に出勤な日常だ。

 それでも楽しく過ごせているのは、ひとえに《Harbest》のパンがおいしいからだと思う今日この頃。


「今日は曇りですね。雨降らなくてよかった」

「雨だとシート引いたりでめんどくさいからね。お客さんも少なくなるし」


 本日は水曜日ということで、春穂と律希は移動販売に出ている。……駅前の書店、その前のスペースに車を停めて店を広げて、あああたしはここで寝てたんだなぁと思い出して顔を覆いたくなるのは毎度のことだ。

 数種類のパンを値札付きのバスケットに入れて並べ、小さな黒板にドリンクメニューを書き込む。《Harbest》本店では持ち帰りしか行っていないが、移動販売の時は買ったパンを飲み物と共にその場で食べることもできるようになっている。オーブントースター完備なので焼きたての味の再現まで可能だ。

 最後にカフェエプロンの紐を締め直し、開店時刻まで残り小一時間というところで準備完了である。


 蘭子が持たせてくれた朝食(今日はホットドッグ)をイートインスペースで食べていると、一足早く食べ終わった律希がカフェオレを淹れてくれた。


「ありがとうございます」

「ん。……なんかやっぱ、ここ来るとカフェオレ淹れたくなるね」


 言いつつ春穂の頭をわしゃわしゃやる律希は、どこかからかうような表情だ。律希がこの表情の時は、春穂は唇を尖らせるのが定番となっている。


「あたしの人生史上一番情けないところなんですから、なるべく早急に忘れてください」

「ああ、うん……ごめん、つい。……逢えたなって思うと」


 独り言のように呟かれた最後の言葉。無意識だろうか、春穂の髪をかいぐる手つきも少しゆっくりとなる。

 最近、今のように慈しむような視線を向けられることが時折ある。その度に少し心臓が落ち着かなくなってしまうのは、律希の顔が端正すぎるから仕方ないと思う。


「まあ……確かに律希さんに会えたからこそ、《Harbest》に就職できて路頭に迷わずに済んで、おいしいパンにも巡り会ってますよ」

「うんうん、もっと食べな」

「……前々から思ってましたけど、なんかあたし律希さんに餌付けされてるような気が」

「ああ、気分としては近いかも。見てると和むから、いっぱい食わせたくなるんだよね」

「……そろそろ体重増加が心配になってきました」

「じゃあ食べないでおく?」

「不可能だと分かってて言ってますよね、それ。どうせ食いしん坊ですよ」


 ホットドッグの最後の部分を一口に食べ終え、春穂は「ごちそうさまでした」と言ってカフェオレを口に含んだ。律希の淹れてくれるカフェオレは甘さ控えめで、すっきりしていて朝に丁度いい。

 そうこうしているうちに、近くの道の往来が激しくなってくる。


「そろそろ店開けようか」

「そうですね」


 テーブルに置いてあった『Open』の看板を入り口の支柱に掛ける。《Harbest》移動販売開始の合図だ。

 すぐにやってきたお客さん第一号は、毎週買いに来てくれる常連のOLさんだ。

 移動販売の時は女性客の割合が高いが、律希目当てで買いに来る人も結構いる。春穂が入るまでは律希一人でやっていたので、頻繁に話しかけてくる女性をあしらいつつ店を回すのは大変だっただろう。と、隣で現在進行形で繰り広げられている狩猟を見て春穂は思った。

 アプローチする女性vs鉄壁営業スマイルの律希という構図に見慣れてくると、段々と女性が難攻不落の魔王城に孤立無援で突撃する勇者に見えてくる。

 だがまあぶっちゃけたところ春穂にとっては対岸の火事なので、肉食ってすごいと感心しつつ次々来る他のお客さんの対応をこなす。


「……あの」


 消え入りそうなかわいらしい声がどこからか聞こえてきたのは、開店から一時間弱である程度客が引け、律希が何人目かのハンターをあしらっている最中だった。

 辺りを見渡してみても、斜め前で懸命に魔王城に攻め込んでいる勇者以外の人物は見あたらない。

 もしやと思ってバスケットの乗るカウンターから身を乗り出すと、五歳くらいの女の子が水玉柄のポシェットをきゅっと握って春穂を見上げていた。青いリボンで結んだツインのお団子が愛らしい。


「ちょっと待ってね」


 上から覗き込まれたら怖いだろう。春穂は販売車の中から出て、少女の前にしゃがんで目線を合わせた。


「どうしたの?」

「パン、買いにきたの……。おつかい」

「おお、すごいね。どんなパンがいいの?」

「んと、きいろいクリームのパンと、ウインナーのパンと、あと……えっと、くるくるのパン」


 紅葉のおててで指折り数える少女が最後に言ったパンに、「ん?」と首を傾げる。


「くるくるのパン? ……あ、もしかしてコロネかな?」

「それ!」


 円錐形が特徴のコロネは、日本生まれのパンだ。その名前は形状からつけられており、フランス語で『角』━━つまり『corne』、または英語で『cornet』という管楽器と似ていることから来ている。

 生地を焼き上げた後に空洞にクリームを詰めるので、火が入ることのないそのままのクリームが味わえる。

 《Harbest》ではチョコクリームと生クリームの二種類を定番として販売しているが、秋になると期間限定でさつまいもクリームとかぼちゃクリームに変わるそうだ。


「チョコのクリームのと、生クリームのとあるけど、どっちがいい?」

「えっとね、チョコふたつと、生クリームひとつ」

「他のパンはいくつかな?」

「みっつずつ」

「ん。ちょっと待っててね、今袋に入れるから」


 かわいいなぁと頬を緩ませて、春穂は車内に戻る。小分けのビニールに入れていくと結構な量になったので、レジ袋は二つに分けた。

 少女の前に行き、再びしゃがむ。


「全部で千八百円です」


 二千円を出してくれたので手早く会計を済ませ、おつりを渡す。少女は渡された袋の中身をまじまじと眺め、ぱちぱちと目を瞬いた。


「どうかした?」

「このくるくるのパン、まんなかあいてるの?」

「そうだよ。そこにクリーム詰めるの」

「どうやって穴あけるの?」

「穴? ……んーと、」


 どうやってやるんだろう。

 そう言えば春穂も知らない。……これでもパン屋さんなのに。

 《Harbest》に就職して、ベーカリー従業員という肩書きを得て、早一ヶ月半。自分の就いた職業のことについて━━パンのことについて学ぶには十分な時間があったはずなのに。

 無知の知とはこのことか。高校の倫理の授業で学んだ、哲学者の言葉が思い出される。


 答えられない春穂の代わりに回答してくれたのは、見事ハンターを退けていつの間にか側に来ていた律希の声だった。


「穴開けるんじゃなくて、生地を細長くして、ソフトクリームのコーンみたいな型にくるくる巻き付けて焼くんだよ。生地はあっためると膨らむから、間がぴったりくっついてこんな形になるの」

「ほえー」


 へー。と、春穂も一緒になって感心している場合ではない。

 満面の笑みで手を振りながら帰る少女に手を振り返して見送ると、自然と溜め息が出た。もし律希が助け船を出してくれなかったら、春穂はあの笑顔を見ることはできなかったのだ。ちゃんと、勉強しなくては。

 自分でも知らぬ間に眉が下がっていたらしい。ぽん、と律希の手が春穂の頭に乗った。


「どうしたの、落ち込んだ顔して」

「……気にしないでください」

「職場の後輩が落ち込んでたら、何か力になれないかなって思うのが先輩心じゃない?」


 このまま言い返しても多分勝てないだろうということは学習している。

 どうしてか、この人はいつも春穂を甘やかしにかかるのだ。


「……律希さんって、パンのことどうやって勉強したんですか?」

「んー……基本は親父さんと蘭子さんから教わったけど、他は本読んだりしたかな。でもやっぱ俺の場合作る側だから、作って学ぶってことが多かったと思う。体で覚える感じかな」

「作って学ぶ……」


 高校の途中で父の転勤があり、転校を嫌がった春穂だけ綾深市に残って一人暮らしを開始したので自炊歴は長く、一般的な家庭料理ならお手のものな春穂だが、流石にパンを作った経験はない。しかしパンのことについて学ぶのに一度作ってみるというのは、確かに良さそうだ。

 ネットでレシピを検索したらいいのが出てくるだろうか。難しそうだ。


「何なら教えようか?」

「え?」

「作り方。一応俺本職だし、自力でやるより教えてもらいながらの方がスムーズでしょ」

「いいんですか?」

「うん。俺、どうせいつも定休日は新作考えてみたりしてるから家に一揃い道具と材料あるんだよね。店でやるのはちょっとあれかなって思うし……作るとしたら俺の家でってことことになるんだけど、むしろ春穂ちゃん的には大丈夫? 一人暮らしの男の部屋になるから、行くの嫌だったら別の考えるよ」


 イケメンで優しくて気遣いもできる、非の打ち所がどこにあるんだよ状態の律希だ。

 ハンター達が不屈な理由がよく分かる。


「そう提案してくれる時点で律希さんは紳士ですし、女に飢えてるとも思えないし、誤解されて困るような人もここ数年いないのであたしは大丈夫です。というか、あたしの方こそお邪魔していいんですか? 彼女さんとかいたら……」

「ああ、そこは春穂ちゃんと同じ。今フリーだから問題ないよ」

「……じゃあ、お願いします、律希さん」

「了解。休みだから明々後日でいい?」

「はい」


 やがて閉店時刻が来て、店じまいを終えた後で律希が家までの地図をSNSで送ろうとしたところ、今更ながらお互い連絡先を知らないことに気がついた。

 一通りの連絡先を交換して、土曜日の午前十時に律希の家という約束を取り付ける。


「何のパン教えてくれるんですか?」

「当日までのお楽しみ。でもまずは基本的なのからかな」

「基本的……」


 基本的なパンと言われて春穂が思いつくのは、食パンとバゲットくらいだ。だがどちらも初心者には難易度が高い感じがする。

 さっぱり予想ができないのを見抜かれたのか、微笑ましげな律希に頭をわしゃわしゃやられる。

 無知だから仕方のないことではあるのだが、その笑みが何だか悔しかった。





 終業後、少し遠回りして春穂が立ち寄ったのは今朝も移動販売に行った書店だ。レシピ本のところだろうかとあたりをつけて、並んだ背表紙を辿る。するとすぐに『パン』と書かれた仕切り板が見つかった。

 結構いっぱいあるんだなぁ。思いつつ、『基本』や『初めての』などの文句がついているものを適当に開けてみる。

 製法は《Harbest》独自のものがあると思ったのでレシピ本は避け、歴史や種類が書いてあるものを探す。図鑑形式のものや用語集のようなものが数冊あったが、どれもそれなりのお値段はするので慎重に吟味してとりあえずその内の一冊を選んだ。本当はもう一~二冊買いたかったが、そうなるとちょっと苦しい。お金を貯めてまた今度にするか、図書館で見てみることにしよう。

 選んだのはイラストと写真のついた図鑑形式のもので、他よりいくらか値は張るものの、パンの歴史から種類、基礎的な行程に至るまでが網羅してあるものだ。


 ……悔しいから、自分でもちゃんと勉強!


 明々後日までにざっと予習しておこう、と春穂は決意新たに本の表紙を見つめた。

次回、お宅訪問回!

春穂は警戒心ゼロです!

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