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過去≒傾慕 side翔琉

あああ遅くなりましたあぁorz

 その日は両親が揃って出掛けていて、翔琉の帰りも遅くなった。肌を刺すような冷たい空気の夜のことだ。

 店の裏口から入ってすぐの階段を上がると、二階のリビングに明かりが点いていた。消し忘れたのかと覗き込めば、ソファに座って大きな本を読んでいる華奢な人影。


「……弥夕姉? 何でこんな時間にここにいるの?」


 ぴくりと肩を揺らした弥夕は、本をローテーブルに置くと立ち上がって真っ直ぐに翔琉に向かう。

 見上げてきた黒曜石の瞳は、雨でも降った後のように水を溜めていた。


 ━━パァンッ!!


 突然、左の頬に熱が走る。

 響き渡ったいっそ小気味いいほどの音。遅れて熱から変化した痛み。

 弥夕に平手で打たれたのだと気づいたのは、使った手を握りしめて震えている彼女と目が合ってからだった。


「━━いい加減にしなさいこのバカっ!!」


 ついぞ聞いたことのない怒声がまた翔琉を打つ。


「あんたが今してることで満たされるんならそれでいい。ちゃんと生きていく気になるんならそれでいいよ。でも、違うでしょ? 生まれたときからの幼なじみとしてあたしが断言してやる、翔琉は絶っ対にそんなこと望んでない。今のあんたの行動は、全力で自分がどうでもよくなってるからでしょうが。だからやりたくもないことして自分貶めて傷つけて……ふざけないでよ。何で一人で勝手に意地張って自己完結してヤケ起こしてんのよ、しんどいならしんどいって、怖いなら怖いって言えばいいじゃない! いっぱい傷ついてるの治してる途中なのに、何で強がった挙げ句に重ねて自分のこと傷つけようとするのよバカ! あんたは今、自傷行為繰り返してるのと一緒よ! あたしの大事な大事な幼なじみを傷つけるんなら、翔琉本人だってひっぱたいてやるんだから!!」


 言い切った弥夕の睫毛から、ぼろぼろと大粒の雫がこぼれていく。

 呆然とその清らかな様に見入っていた翔琉は、じわじわと染み込んできた弥夕の言葉と思いを理解して、心臓を掴まれたような気分になった。


 ━━弥夕の言う通りだ。

 今までの自分を形成していた欠片を失くしてしまって、たまらなく怖かった。

 翔琉にはないものを他のみんなは当たり前のように持っていて、それが辛かった。

 でも怖いも辛いも情けないような気がして、言い出せなかった。

 確実に自分を侵していく不安。そこに掛けられた甘い声に癒された訳でもなく、ひたすらに不快感と自己嫌悪だけが積もって。怖いも辛いも消えてくれないのに、更に自分を貶めて大嫌いになって━━もう、どうでもよくなった。

 だから膿んでいく傷も気づかないふりをして、やりたくもないことに流された。

 最低だ、屑じゃないかと自分の中で膨らむ糾弾の声に、知らない内にまた自分自身を傷つけられていたのに。

 全てを見抜いた弥夕に激怒されて初めて、増えていた己の傷に気づく。

 じゅくじゅくと、痛い。


 喉に空気の固まりが詰まったようになって、急に苦しくなった。泣きながら翔琉を見つめる弥夕の姿が歪む。

 翔琉のために全力で怒ってくれたひとは、翔琉の後頭部を優しく押さえて屈ませた。いつの間に、自分はこの女の背をこんなに越えていたのだろう。

 額がぽすんと載ったのは、翔琉のそれより頭一つ分低い肩。後頭部の繊手はそのままゆったりと髪を撫でて、もう片方の手で背中をあやすようにぽんぽんと叩かれる。滑らかな首筋にいくつも雫が落ちるが、弥夕は気にせずにいてくれた。

 喉の空気を吐き出して、翔琉は恐る恐る、目の前の温かな存在に縋りついた。


 二人してひとしきり泣いて、大分落ち着いてソファに座る頃には翔琉の中は幾分すっきりしていた。

 腫れぼったくなった目を濡れタオルで冷やしていると、隣で同じ状態だった弥夕が不意に立ち上がって冷蔵庫に向かった。昔から行き来しているので、今となっては勝手知ったる他人の家だ。

 ややあって弥夕が取ってきたのは湿布だった。

 左の頬に張り付けられた冷感に、翔琉は一瞬顔をしかめた。打ったのと同じ手が、湿布の上からそっと翔琉の頬に触れる。


「……ぶってごめんね、翔琉」


 未だ水気を帯びて照明を反射する黒瞳。淡い色の唇がほころんで、慈愛に満ちた表情を生む様は━━とても、とても美しかった。


 それはきっと、一目惚れにも似て。


 ぎゅうっ、と。締め付けられるような感覚が鮮やかに胸に宿る。


 覚えている限りで初めての、恋。


「……俺も、いっぱい泣かせてごめん、弥夕姉」

「じゃあ、これでおあいこね」

「うん。……あのさ」

「ん?」

「……俺、すごい情けない、けど……お願い、嫌いにならないで」

「バカ。嫌いになんかならないわよ、絶対」


 ふにゃっと笑って紡がれた「絶対」に、心の底から安堵する。体のどこかにある器から温い水が静かに溢れて、指先まで巡った。


「……話、聞いてくれる?」

「もちろん」


 まとまりのない負の感情をぽつりぽつりと落とす翔琉に、弥夕は根気強く付き合ってくれた。時折挟まれる柔らかな相槌が、弥夕がちゃんと受け止めてくれているということを伝えてくる。

 ふと視線を投げると確かに目が合って、そっと話の続きを促してくれる。……昔はただ受け入れるだけだったそのサインが、もう今となっては愛おしい。


 やがて話す感情が尽きて、場に沈黙が落ちる。


「……ねえ翔琉、お腹空かない?」

「……空いてるけど」


 唐突な言葉に翔琉が首を傾げると、弥夕はテーブルに置いてあったレジ袋を取った。うららロードのベーカリー、《Harbest》のロゴが入った袋だ。


「帰り遅くなるかなって思ったから、夜食にパン買っておいたの。どう?」

「食べる」

「ん。ちょっと待ってて、トースターで温め直して来るから」


 弥夕が台所に立って急に手持ちぶさたになると、不意にテーブルの上の大きな冊子が目に留まった。弥夕が翔琉を待つ間に読んでいたものだ。

 ぽってりとした水色のそれは、翔琉の家に保管されていたアルバムだった。

 何でこんなの見てたんだろうとめくっていると、台所からチン! という音がして、弥夕がリビングに戻ってきた。手には白い皿に乗せられた、麦の穂の形のパンがある。漂ってくる少しスパイシーな香りが食欲を刺激した。後から知ったがベーコンエピというやつらしい。

 隣に座った弥夕に、翔琉は「ねえ」とアルバムを掲げて見せた。


「何でアルバム見てたの?」

「ああ……ネットとかで見てみたら、無理に思い出させようとするんじゃなくて、親しい人と話したりするのもいいって書いてあったから……なんか、いい感じのエピソードないかなって思って見てたの。聞いてる内にふっと思い出すかもしれないんだって」

「聞きたい」

「うん。あたしが知ってる限りは、ちょっとずつ、話してく」


 弥夕が温めてくれたベーコンエピを二人で食べつつ、その日は長い時間弥夕の翔琉との思い出話を聞いた。


 翌日から、翔琉はほぼ毎日弥夕の話を求めるようになった。


 ほぼ、というのは弥夕には翔琉より優先しなくてはならない人がいたからだ。約束がある時は必ずそっちに、といういい子ぶった翔琉の言葉に、弥夕は申し訳なさそうに、でも照れくさそうに笑っていた。

 いくら恋しくてもこれだけはと決めた、翔琉のせめてもの強がりだった。弥夕に依存しきってしまわないように━━そして何より、わがままを言う子供だと思われないように。


 五歳差、というのはこと恋愛においては十分過ぎる歳の差だと翔琉は思う。弥夕が高校生になった頃、翔琉はまだランドセルの年齢だったのだから。恋愛対象の枠に入れてもらえていない可能性は大いにある。というか分かる、確実に入れてもらえていない。

 歳を重ねて、翔琉が男として弥夕を求めるようになっても、歳の差は変わりはしない。ならばせめていじましく、心だけでも追いついて大人ぶっていたかった。

 年齢も、翔琉より年上の彼氏がいることも知った上で、それでも恋をしてしまったのだから。


 ……ただ。恋は独占欲とお友達で。

 弥夕が幸せそうに出掛けていった日の夜は寂しくて痛くて、どうしようもなく弥夕のぬくもりが欲しくなった。


 そんな日々に良くも悪くも変化が訪れたのは、弥夕が短大を卒業して数ヶ月が経った初夏のこと。

 いつものように夜、アルバム片手に弥夕の部屋へ行くと、居るはずの弥夕が居なかった。


「……?」


 裏口の鍵は開いていたので誰か居るのだろうが、その日弥夕の両親は仕事で静岡まで行っていると聞いていた。となると弥夕はどこにいるのだろう。

 二階の居住スペースから降りて、《千日夕》の店内へ向かう。勝手知ったるバックヤードを抜けて扉を開けると、

 種類豊富な茶葉がしまわれた棚に、白と青のストライプの着物を着た弥夕がくたりと力なくもたれ掛かっていた。

 音がしそうなほど一瞬で血の気が引く。


「……弥夕姉!?」


 一も二もなく駆け寄って、細い肩を揺さぶる。しばらく揺さぶりながら名前を呼ぶと、弥夕が不意に顔をしかめて震えた。無意識のうちに詰めていた息をゆっくりと吐き出す。

 睫毛の影がかかる瞳はいつかのように濡れていて、よく見れば泣いた跡があった。


「……ん……」

「弥夕姉、大丈夫? 寝てたの?」

「……寝て、た……の」


 弥夕の笑みは、へにゃんと弱々しい。散りかけの花のような、危うく儚い美しさがあった。

 近づけば、ほんのりと酒精の香り。


「弥夕姉、もしかして酔っぱらってる?」

「よってなーい……もーん……」

「うん、酔ってるよね」

「ふふっ……かーけるー」


 酒は強くないのに何で呑んだ、と訊く前に、翔琉の体に柔らかな存在が抱きついた。

 目を丸くした翔琉は、自分の首筋に弥夕の頬が擦り寄せられていることに気づいて更に動揺した。恋しいひとが、理由はどうあれまるで甘えるように腕の中に飛び込んできてくれた。その事実が翔琉を昇らせる。

 髪から漂う甘い桃の香り。華奢で柔い体。

 骨が軋むほどきつく抱きしめたいのをどうにかこらえて、宥めるように背中を叩いた。


「弥夕、姉?」


 弥夕は危うい笑みのまま、更に翔琉に身を寄せて呟いた。


「なーにが、だめだったのよぉ……」

「は?」

「なーにが、うっかりしてたのよぉ。うっかりでずるずる続けんなばかぁー……!」


 ……よく分からないが、詰られている。

 とりあえず背中をさすって宥めていると、ぽたり、と翔琉の首筋を冷たいものが伝った。首筋には弥夕の顔があって、細い体は微かに震え始めている。

 耳の近くで嗚咽が聞こえた。


「弥夕姉、泣いてるの……? 何で? どうしたの?」

「っ……ぅ……あん、にゃろ……」

「あの野郎って……彼氏? ケンカでもしたの?」


 弥夕の体が強ばった。首をふるふると横に振って、翔琉に縋りつく。


「……う、わき。してた……あいつ、ずっと! ……おんなじ手で、触られてたっ……やだ、きもちわるいっ……!」


 弥夕の言葉を、理解して。翔琉の中に生まれたのは深い怒りと憤りと━━ほんの少しの、悦びだった。

 弥夕を恋人にしていながら、他の女に目移りして関係を持った。同じ手で弥夕に触れた。それは絶対に許せない。

 けれど。

 だからこそ、このひとを手に入れられるかもしれない。

 もしその浮気男と弥夕が続いて、結婚でもしていたら、もう翔琉には手の届かない女になっていた。想う相手が人妻になったからとて慕情が失せる訳ではないのだ、そうなっていたら自分はどうしただろう。……考えたくもない。

 怒りという激情の下に溶ける、仄暗い歓喜。それをよりくすぐるかのように、翔琉の耳元で弥夕が吐息をこぼした。


「……ぎゅー、して……」

「っ」

「いや……? じゃ、あ、あいつ以外なら、だれでもい……から。きもちわるいの、おねがい……!」


 嫌なわけが、ない。

 誰でもいいなら、どうか俺に。

 そう望むまま、腕を回して抱きしめる。


 初めて抱きしめた体は腕の中にたやすく収まって、力加減をしないと簡単に折れてしまいそうだった。漏らされた淡い吐息に、弥夕の弱った隙に付け込んでいるという罪悪感がじわじわと湧いてくる。

 この幸福感に比べれば、些末なことだが。


 やがて子供のように泣きじゃくりだした弥夕は、泣き疲れて意識を飛ばすまで、翔琉の腕の中にいた。


 腫れた瞼で眠った弥夕を部屋に運んで、ベッドに寝かせる。ついさっきまで腕の中に閉じこめていたひとの傍をまだ離れたくなくて、翔琉は静かにベッドの端に腰掛けた。流れる黒髪をそっと指で櫛削る。

 ……弥夕から思い出話を聞くうちに、たまにだがふっと記憶が蘇ることがある。

 弥夕との過去を取り戻す度に慕情が募るのは、きっとずっと、無意識のうちに憧れていたのだろう。物心つく前から傍にいた、年上の幼なじみに。

 弥夕への恋慕は、翔琉の芯の部分━━原点に存在している。そのことに気づくまでに、気づくために、随分遠回りして災難を被ったものだ。

 きちんと知った感情は、今や止め方も分からないほどに流れ溢れて心奥の器を満たしている。夜の部屋で二人きりというこの状況でも、欲よりただ無性に大切にしたいという想いが勝る。そもそも翔琉はまだ十六で、手を出せば何も悪くない弥夕が処罰されるかもしれない。それは、絶対に嫌だから。


 いつかこの、どうしようもない望みを叶えることができたなら。ありったけの恋情を存分に捧げて、弥夕が浮気男に負わされた傷など即座に癒してしまおう。

 そのために、これからどう気持ちを伝えていこうか。

 言葉で伝えるのは、多分まだ早い。少しずつ少しずつ、秘めていたものを溢れさせていこう。

 指からするりと流れ落ちた黒髪を再度手に取り、月光に艶めく一房に唇を忍ばせる。弥夕の桃の香りに、自らの存在を溶かすように。恋心を染み込ませるように。


 ━━この関係に次の変化が訪れるのがいつかは、翔琉も弥夕もまだ知らない。

 ただ、嵐はしとしとと雨が垂れる頃に。

キーワードの溺愛は、最初は律希かな~って感じで付けたのです。だから?をつけたのです。

が、書いてみて初めて分かった、その上を行ってましたよ翔琉くん。全てのキャラクターの中では1番常識人なのですが、愛情の深さは常識外れです。元カノいましたが、なんで付き合ったのかとかはおいおい出てくるかな……? いらないですかね……。

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