過去≒欠落 side翔琉
今回、翔琉の株が大暴落を起こすかもしれません。ご容赦ください。
そして作者は医学・心理学的知識に関してはド素人ですので、ここおかしくね? という箇所があればご報告ください。可能な限り直させていただきます。
己の原点というものがあるとすれば。
それは間違いなく彼女だろうと、少年はかつて、すぐ近くで眠る幼なじみを見て思った。
◇ ◆ ◇
生まれも育ちも綾深市、生粋のうららロードっ子の翔琉には、昔からずっと『姉』と慕う人物がいた。
同じくうららロードっ子の平川弥夕。翔琉より五歳年上だが、うららロードの子供世代の中では一番歳が近かったということもあり、またお隣さん同士ということもあって、しょっちゅう構ってもらった幼なじみのお姉さんだ。物心ついた頃には既に大の仲良しで、一人っ子の翔琉は姉のような彼女を弥夕姉と呼んでいた。
手を引かれる年齢ではなくなっても幼なじみという括りは続き━━弥夕に恋人ができても、翔琉に恋人ができてもそれは変わらず。五歳という大きくも小さくもない歳の差のおかげで特にお互いを意識するでもなく、会えば姉弟として楽しく言葉を交わしてじゃれ合っていた。
そんな緩やかに過ぎていった日々に終止符が打たれたのは、翔琉が高校一年、弥夕が短大二年の夏のことだった。
アスファルトから立ち上る陽炎も少し薄れてきた夕方のこと。いつも通りの道を下校していると、後ろからガタガタと騒音がした。
振り向いて見てみると木材を大量に積んだ中型のトラックが走っていて、音の出所はそこらしい。積み上げられた角材の山は随分と重たそうに見えた。
お疲れ様だな、と思った覚えがある。
特に気には留めず、丁度行く先の信号が変わったのでそのまま進むと。
まるでいきなり日食でも起こったかのように、横断歩道へと暗い影が降ってきた。
……は?
目を剥いて見上げた光景が、最後。
━━電源が落とされたような唐突な意識の切断から、ふと回復すると妙に息苦しかった。朦朧とする意識の中、遠くから段々と音が近づいてくると思っていたらそれはひどい頭痛で、経験したことのない痛みに顔をしかめる。
瞼を持ち上げるのも億劫だったが名前を呼ばれた気がしたので目を開けると、長い睫毛に縁取られた黒曜石が二つ、間近できらきらと濡れていた。
「…………み、ゆ……ねぇ……?」
瞳の水気がこらえきれなくなったように雫になって滴り落ちる様はとても綺麗で、泣き顔なんていつぶりに見たっけ、と翔琉は記憶を探ろうとして諦めた。まだうまく頭が働かない。
ただ、耳元で懸命に名を呼ぶガラスの鈴の澄んだ声が好ましくて。耳を傾けていた。
直後に白衣とナース服の波が怒濤のごとくやってきて、何だかよくわからないがとりあえず息苦しさは解消された。その内両親が本当に転がり込んできて、泣いていて驚いた。
何がなにやらさっぱりという状況だったので説明を求めると、言葉の全てに濁点が付いている両親に代わって弥夕が話してくれた。
端的に言えば、翔琉は交通事故に遭ったらしい。横断歩道を渡っていたところに来た左折車にはね飛ばされたのだと。
翔琉をはねた車は件のトラックで、積載許容量オーバーの上に木材の固定が緩かったらしく、軽く曲がったところでバランスを崩してパニックになった運転手が強かにアクセルを踏んでしまったのだという。だが結局トラックは横転したそうな。
世の中の『決まり』ってのが何のためにあるのか理解してないバカは別にいいけど、翔琉がこんな大怪我したのは絶対に許せない。死んじゃうかと思った。
最後には弥夕も泣き崩れて、「いつか翔琉の目の前で地面に頭めり込むまで土下座させてやる」と決意を述べていた。……余談だが、この言葉は後にちゃんと実行されることとなる。
目が覚めてから数日は痛みと戦いながらひたすらぼうっとしていた。翔琉が負った怪我は骨折と打撲、擦り傷が大半で、はね飛ばされた後に角材が降ってきたということもあってもれなく全身がギシギシしていた。気分は錆びた金属人形だ。
夕方になれば短大帰りの弥夕が訪れて、話をしたり果物を剥いてくれたりした。弥夕はリンゴを剥くといつもウサギにしたがる。
惜しくも耳の先が欠けてしまったリンゴを食べていると、弥夕が面白そうに笑った。
「そう言えば翔琉、中学の頃美空さんとケンカしてたわよね。中学生にもなって弁当にうさぎリンゴ入れるなよ! って」
「……そうだっけ」
記憶をゆっくり手繰っていくも、どこかで引っかかって出てこない。まるで釣り針が根掛かりしてしまったかのように、何とも言えない不愉快さと違和感が頭の奥にわだかまる。
「……翔琉? どうしたの、やっぱりうさぎリンゴ嫌だった?」
「いや、それは別に……味は変わんないし」
「それもそうね。でもうさぎリンゴって、なんか幸せになるのよねー」
黙々と二つ目のウサギを作成し始めた弥夕を眺めるのが、その頃の翔琉の日課になっていた。
そして、違和感の正体が判明したのは事故から二週間後━━体を起こせるようになった頃のことだった。
幼稚園来の親友が見舞いに来た。何故か知らない女を連れて。
「翔琉くん、久しぶり。良かったぁ、事故って聞いた時はもうビックリして……」
と涙ぐんでくれるのはありがたいが、翔琉の頭に浮かぶのは疑問符ばかりだ。
いや、あの、誰?
一緒に来た親友は弥夕と「俺グッジョブじゃないすか」などど喋っているので助けを求めるわけにもいかず、弥夕は弥夕でニヤニヤして翔琉を見ているので混乱ここに極まれりだ。
誰か説明してくれよと思うも、横で映画のヒロインのように感極まって翔琉に話しかけている女を無視するのは流石に失礼だろう。適当に相槌を打っていたら、長い時間話すと疲れちゃうよね、また来るねと勝手に約束を取り付けて女は帰っていた。
……もう訳が分からない。
女が病室を出た後で、親友の透が不敵な笑い声を落とした。
「いやーどうだ、俺のこの超ファインプレー。お前も久々に会えて嬉しかったろ、あの子やっぱお前に未練あったみたいでさー」
「翔琉もまんざらじゃないみたいね」
「ちょ……ちょっと待って弥夕姉、透も。……何か色々言ってたけど、あれ、誰?」
瞬間、親友は「信じられない」と言わんばかりの表情になった。
「翔琉……お前はそんなに薄情な奴だったのか! 俺は親友として悲しいぞ!」
「は? 俺さっきそこそこ愛想良く対応してたし、別に薄情なんて言われる筋合いないだろ」
「愛想良くだぁ? お前なぁ、」
「待って、透くん」
弥夕の玲瓏たる声は、言い争いに発展しかけていた翔琉と透の会話を静かに切った。
透が椅子に座っているので弥夕はベッドの端に腰掛け、やや堅く難しい表情で自らを指さした。
「翔琉。……あたしのことは、分かるわよね?」
「そりゃ分かるよ、弥夕姉だし。平川弥夕、お隣の《千日夕》の娘さん」
「うん、正解。次、あたし今いくつ?」
「二十歳」
「よし、じゃあ……あたしが高校生の頃のことって、覚えてる?」
「高校生?」
さっきから弥夕は何を問うているのだろう。意図を理解できない翔琉は首を傾げつつも、記憶の糸を手繰った。
ほんの二~三年前の話だ。そんなこと、ちゃんと覚えて━━
「……あ、れ?」
ちゃんと、ずっと関わっていたはずなのに。……その思い出はどこにある?
ああこれだろうか、笑って店にやって来て、セーラー服を自慢げに見せている光景。白に群青のリボンがよく映えて、ぐっと大人っぽく見えて少し寂しくなった記憶がある。
「弥夕、姉って……高校の制服、セーラー服だっけ」
「ブレザーだよ。翔琉と同じ高校に通ってたから、紺色で、赤いリボンの。セーラー服は中学の時」
「ブレザー?」
きっと自分は、泣きそうな顔になっていたのだと思う。弥夕が痛そうな顔をして、翔琉の頭の包帯が巻かれていない部分をそっと撫でてくれた。
中学生の弥夕が制服を見せに来た記憶も、スーツ姿の記憶もあるのに。高校生の弥夕がブレザーを着たその姿は、きっと間近で見たはずなのに、さぞ綺麗だろうなと思い描くことしかできない。
いつ。どこで。どんな。考えれば考えるほど、ぐちゃぐちゃと光景が掻き混ざるのは何故だろう。
「痛っ、……!」
怪我をしていない部分のはずなのに、頭に錐を通されたような痛みが突き抜けた。
「翔琉!? 大丈夫かよ、おいっ」
「翔琉! ごめん、もういいよ、頑張ったね……」
とっさに弥夕が翔琉を抱き寄せて、後頭部を華奢な手が包んだ。
高校生にもなって、と言おうとして口を噤む。昔言ったかもしれないと自然に記憶を漁ってしまって、また頭痛が走った。それにそんな文句を言ってしまえば、この落ち着く手と香りは離れてしまうかもしれない。自分の芯が混沌としている最中で、それが何より恐ろしかった。
透がナースコールで呼んだ看護師が来るまで、翔琉は弥夕の慰撫に縋っていた。
逆行性の、部分健忘。ざっくり言えば過去のことが思い出せず、かつ思い出せる部分と思い出せない部分が混ざって存在しているというのが翔琉の症状だった。健忘は認知症や心的外傷などから起こるが、翔琉のように頭部外傷からも起こるそうだ。
記憶障害の大方がそうであるように、翔琉はエピソード記憶と呼ばれる『経験した出来事』に関連する記憶を喪失していた。単純に表せば思い出、だろうか。最も思い出せないのが小学校高学年から中学時代の記憶で、その他の部分もぽこぽこと抜け落ちているようだった。
怪我の治療とリハビリで回る翔琉の日常に、その翌日から定期的な専門医のカウンセリングが加わった。事故に遭って程なくして夏休みが始まったので勉強のことは気にせずに済み、高一の夏は心身の回復に努めた。
……はっきりと回復が実感できる体とは対照的に、記憶は回復しているのか定かではなかったが。
もし仮にこの世のどこかに遺伝子配列まで自分と同一の人間が存在したとしても、それは自分ではない。己の人生で経験したこと、感じたことは本人にとって唯一無二のもので、そこからアイデンティティを確立していくのだから当然のことだ。
一般的に、アイデンティティを確立するのは青年期━━高校生から二十代前半だと言われている。丁度その時期に自己を形成する要素を大量に失った当時の翔琉は、後から思い返すにかなり不安定だったのだろうと思う。
やがて杖を突いて歩けるようになり、自分の足で立って歩けるようになった頃には、季節は秋を越して冬の始めに移っていた。
ちなみに退院までに、記憶を失ったことに気づくきっかけとなった女は何回かやって来た。透から聞いたが彼女は翔琉の中学時代の元カノらしく、高校受験で何やかんやすれ違って別れたそうだ。恋愛など考える隙間もないほどいっぱいいっぱいの毎日の上、特に新たな感情が芽生えることもなかったので、申し訳ないが適当に対応していたらいつの間にか来なくなった。
それはさておき、退院して日常が元通りとなるかと言えば、当然ながら答えは否。
綾深市にある高校は三校で、内一校は女子校というこの状況では中学から同じという友人がどうしても多い。透のように幼稚園や小学校からの友人なら思い出せるが、中学校からとなるともう人間関係は一から再構築だ。
自分の中では全くの初対面の人に事情を話し、謝罪の言葉を入れるということを繰り返して繰り返して。なかなか記憶が戻らない歯がゆさも相まって、精神が日増しに疲弊していく。
寒く人恋しい季節になっていたから、なおいけなかったのかもしれない。
「ねぇ翔琉くん、今日暇?」
とろりとした甘さをはらんだ声で囁かれるそんな誘いに、度々乗るようになった。
病室に来た元カノとはどこまでの関係だったのかは覚えていないが、誘いにさして抵抗を感じなかったのでまあそういうことだったのだろうと納得している。
満たされないものを別の方面で満たそうとしているだけだと、そんなことをしても相手に失礼だし結局空しいだけなのにと、時が経てば当時の自分をもう一度病院送りにしたくなるほど後悔する羽目になるのだが、その時は愚かにもまだ気づいていなかった。
もう全てのことが面倒に思えてきて、流されるままの翔琉に手を差し伸べてくれたのは誰であろう。
……いや、あれ伸べてはないな、絶対に。
痛くて苦しくて、でも思い出す度に胸が甘やかにぎゅうっとなる。
鮮烈な記憶を得た日のことだ。
思ったより長くなりました。翔琉視点続きます!