記憶≒麦の穂
更新落ちまくって申し訳ございません……orz
新鮮だった四月もそろそろ終わりな月末。朝はまだ少し肌寒いが、昼にはもう初夏を思わせる気温になってきている。そろそろ日焼け止めの購入を検討しなければならない季節だ。
開店から三十分ほど、春穂が例によって焼きたてのパンを陳列し朝のフィーバータイムに備えていると、ドアベルが澄んだ音を鳴らした。
「いらっしゃいませ……って、翔琉くん」
「おはようございます」
「おはよう。今日も《Iberis》の予約の分取りに来たの?」
「いや、母さんが寝坊して弁当作り損ねたんで、昼飯買いに」
「あ、なるほど」
言いつつトレーとトングを持った翔琉は、まだ眠そうにあくびしている。仕草に溢れる色気が半端ないが、彼は本当に高校生なのだろうかとたまに思う。きっとさぞおモテになるのだろう。
翔琉がパンを選ぶのをレジに立って待っていると、ドアベルが次の客の来店を伝えた。
「いらっしゃいませ」
やってきたのは春穂の出身校の制服を着た女の子で、朝練前なのかラケットのケースを肩にかけている。今時感溢れる活発そうな女の子だ。
朝ご飯でも買いに来たのかなと春穂が微笑ましく眺めていると、彼女は今まさにレジに来ようとしていた翔琉を見て目を丸くした。
「うっそ、翔琉くん!?」
見た目通りの快活な声が高揚のせいで更に弾んで、店内に朗々と響き渡る。大きな高音に耳がきぃんとなった春穂は、ささやかに顔をしかめた。名前を呼ばれた翔琉も眉を寄せている。
ここ店内だぞ他のお客様いたら迷惑だろうが、という二人しての無言の圧力は彼女には伝わらなかったらしく、ハイテンションを維持したままで翔琉に駆け寄った少女は歓声を上げる。
「わー、やっぱり翔琉くんだ! 久しぶり、中学卒業以来だね」
「……」
「元気にしてたー? あたしそこの女子校なんだけど、去年か一昨年くらいに翔琉くんの噂ちらっと聞いたんだよ。昔っからモテてたもんねー、翔琉くん。あたしも立候補しちゃえば良かったなぁ」
「……」
「ねえ、ここで買い物してるってことは、この近くに住んでるの? 美味しいよねーここのパン」
「……うん、それは、思うけど」
「ねー!」
きゃいきゃい話を続ける少女を、翔琉はじっと見つめている。それに気を良くしたのか彼女の声のトーンが一段上がって、春穂は半ば死んだ目で翔琉を見上げた。春穂がせっせと着込んでいる接客業という鎧を見事に打ち砕いてくれるこの少女は、ある意味天才なのかもしれない。なんかもう、しんどいからどうにかしてください。
相変わらずじっと少女を見ていた翔琉は春穂の視線に気づいて意志を汲み取り、溜め息を吐くように小さく肩を上下させた。弥夕と負けず劣らず長い睫毛が伏せられた、その内の瞳に浮かんだ感情は呆れでも不快でもなく……諦観?
次いで整った顔に作られた苦笑の形と合わさって、「だめだったか」とでも言っているようだ。
「━━あのさ。ごめんだけど俺、一昨年事故に遭って頭打ったから、昔の記憶ぽこぽこ抜け落ちてんの。だから君が誰かってこともちょっと覚えてなくて。……ごめん、名前何だっけ」
「え?」
少女が拍子抜けしたような顔になる。
「……記憶喪失、ってこと?」
「そういうこと」
「え、あ、そうだったんだー。ごめんねぇ、いきなり話しかけたりして」
「それは別にいいよ、よくあることだし。それで、名前何だっけ?」
「えと、檜崎愛花だよ。またよろしくねー」
急に出てきた事実に困惑の色を強くした少女は、ほんの少し気まずそうにして、そそくさと店から出ていった。パンも買わずに。
だがそんなことは気に留めることができないほど、春穂もまた驚いていた。
記憶喪失。
春穂にとっては、知識として知ってはいるものの、今までまったく身近になかった事象だ。フィクションの中でしか見たことのなかったことを経験した人が今まさに目の前にいて、驚くなと言う方が無理があるだろう。
嵐が去った店内に少しの沈黙が落ちる。
「……えっと、春穂さん」
「あ、ごめん。お会計だね」
「お願いします」
はっとなって春穂は意識をトレーの上に向ける。クリーム色のトレーには、見慣れた《Harbest》のパンが会計を待って鎮座していた。
……生きてりゃ色々あるもんだし、と先日のお泊まり会で弥夕は言っていた。
春穂のあの日があったように、弥夕の昔の恋の傷があったように、翔琉にも災難があったのだと思えばいい。他人の春穂が深く考えて詮索すべきことではないのだと、気を取り直して会計を始める。
気まぐれサンド一つに、クリームパン一つ、そして━━
「……時に翔琉くん」
「はい?」
「翔琉くんって、ベーコンエピ好きなの?」
フランスパンのお仲間ということでかなりお腹に溜まるはずのベーコンエピが、三本も並んでいた。
エピ、という可愛らしい響きの名は、『麦の穂』という意味を持つ。細長い生地に切り込みを入れられて左右にぱたりぱたりと互い違いにされた生地はまさしく穂の形状で、一塊ずつちぎることができるので食べやすいパンだ。
日本では中にベーコンなどが入れられることが多いエピだが、本場フランスでは何も入れないプレーンタイプのものもあるそうだ。ここ《Harbest》ではベーコンに粗挽き胡椒を振りかけて、豚の油の甘みがぴりっと引き締められたちょっと大人なベーコンエピを作っている。
……残念ながら春穂はまだ食べたことがないので、きっと美味しいだろうなぁとしか思えない。見ていると無性に食べたくなってきたので、昼間にもう一度焼き上がったら一本買っておこう。
春穂が内心で頷いている間に、春穂の言葉に虚を突かれたようになっていた翔琉がふっと笑んだ。途端に年相応のあどけなさを宿した顔は、どうしようもなく幸せそうで。
明らかすぎる感情の発露に、もしかしなくても弥夕が関わってるんだろうなぁ分かりやすいなぁ、と春穂は口元が緩んでいくのを密かにこらえていた。
「そう、ですね。よく食べます」
「三個ってすごいね、入るの?」
「一応まだ成長期ですし。朝飯食っても昼まで保たないんですよね」
「あー、あたしも高校の頃はそうだったなぁ。翔琉くん部活は入ってるの?」
「いえ、帰宅部です。家継ぎたいから、早めに帰って手伝いしてたくて」
「立派だねー」
会計を済ませて、一つ一つビニールに入れたパンをロゴ入りの袋にまとめる。礼を言って店を出ていった翔琉の姿が見えなくなったのを確認して━━。
しゃがみ込んだ春穂は、存分に、ニヤニヤした。
滞り無く仕事をこなして、午後三時のおやつ時。
蘭子から休憩を言い渡され、律希と二人休憩室でのんびりお茶を啜っていた春穂はふと思い立って席を外した。荷物を入れているロッカーを開けて、鞄を漁る。
「どうしたの、春穂ちゃん」
「えっとですね、今日朝翔琉くんが来たんですけど、ベーコンエピいっぱい買っていったんですよね。それであたしも食べたいなって思って……あ、あった」
春穂が取り出したのはもちろん、ビニールに包まれたベーコンエピ。朝の決意のままに、昼間に第二陣が焼き上がったときに一本買っておいたのだ。
昼食は蘭子がクラブハウスサンドを作ってくれたので夕食に食べようかなと思っていたのだが、おやつ時だしこの機会に食べてしまおう。
席に戻ってエピをテーブルの真ん中に置くと、律希がきょとんとした顔になった。
「お昼の内に買っておいたんです。丁度小腹空いてきたので食べようかなと思って……ただ、全部食べると晩ご飯入らなくなっちゃうので、律希さん半分どうですか?」
「じゃあありがたく。でもお金払わなくても、言ってくれたら持ってって良かったのに」
「美味しいものに対価を支払うのは当然のことなので大丈夫です!」
言いつつエピを分け、片方を律希に渡す。残った半分を端っこからちぎって、春穂はおもむろに口に運んだ。
歯応えのある生地を強く噛みきり、もぐもぐとほぐしていく。
「…………おいしぃー……! 買ってよかったぁ……」
外はカリッと、中はもっちりしたバゲット生地は噛みしめれば噛みしめるほどに小麦本来の味を露わにして、ベーコンの油と塩気が活きるための力強い土台になっていく。屋台骨さながらのこの安心感はバゲット生地ならではだ。
そしてある程度味わって舌がやや飽きてきたところに、いきなり弾ける胡椒の刺激! ピリッとした辛みが一瞬抜けて、次にはベーコンの油の甘みがまた新鮮に感じられる。ケーキを食べた後にポテチが食べたくなるような、そんな無限ループがこの一つのベーコンエピの中で完成しているのだ。完璧なる存在ではなかろうか。
塊の二つ目に突入しながら、春穂は昔読んだ少女マンガを思い出していた。
主人公は高校生で、お隣の幼なじみとはこの頃もどかしい関係。お互いに絶対の信頼は築き合っていて、友情ではない想いを抱いていて、でもなかなか気づけない進めない。
かなりの王道ストーリーということで、そんな二人の間に登場するのは、当然。
「律希さん」
「ん?」
「心地いい馴れ合いの関係に激震を走らせるのって、やっぱりライバルの登場とかですよね」
「……ごめん、どういうこと?」
「えっと……これ食べてたら、ちょっと昔読んでた幼なじみモノの少女マンガ思い出しまして。生地とベーコンの関係に変化を与える胡椒が、幼なじみの関係を揺るがすライバルキャラに似てるなーって思って、ですね」
「ああ、なるほど。何、今朝甘酸っぱいものでも見たの?」
言わずとも察したらしい律希に、春穂はにやつこうとする口元を全力でもぐもぐさせて頷いた。前々から翔琉は分かりやすいとは思っていたが、既に周知のことになっているらしい。下手に状況に首を突っ込むわけにはいかないので弥夕には訊いていないが、知らぬは彼女ばかりなりという状況でないことを切に祈る。
麦茶で唇を湿した律希は、おかしそうに頬杖を突いた。
「あそこもそれなり長いことじれじれやってるからなぁ。ニヤニヤしながら見守るのが基本だけど、付き合い長くなってくるとたまにイラッとくることもあるんだよね」
「『お前ら早よくっつけや!』って感じですか?」
「そうそう。うららロードの人間なら確実に一回以上は叫んでるよ、心の中で」
「あたしもいつかそうなりますかね」
「なる。絶対になる」
真面目な顔で肯定されて、春穂は笑うしかない。
「それでですね、今考えたんですけど、ライバルキャラ登場! ってなるとしたら立場的に律希さんが適役っぽいなーと。全員がうららロードの見目麗しーズですし、ちょっとした単発ドラマくらい作れそうな気がします」
「見目麗しーズって。何その言葉」
「美男美女ってことです」
「……うん、なんか、ありがと。でも当て馬になりに行くのは流石にしんどいかな」
「う。想像が飛んじゃっただけですから、深い意味はないので……その、ごめんなさい。……くっついて、弥夕が幸せだーって惚気を言ってくるのが待ち遠しくて……」
友達に幸せになってほしいと思うのはいいが、人を巻き添えにしてはいけない。自分のお節介気質のささやかな暴走に、反省。
眉を下げた春穂に、律希はくすりと優しく笑う。不意に春穂の手にあったエピが取られて、驚いて開いた口に突っ込まれた。
「ふむっ?」
首を傾げつつもひとまず食べだした春穂の頭をわしゃわしゃ撫でて、律希は慈しむような視線を向けてくる。
「ほんと、お人好しだなぁ」
思わず、こぼれ落ちた。そう表すのがしっくりくる声音が春穂の耳朶に触れる。
……お人好し、って。
何でこんな、相変わらずみたいな響きで、言うんだろう。
目をしばたたかせる春穂をよそに、律希はしばらく、グレージュの猫っ毛を撫でていた。
次回、作者も思ってもみなかった閑話・翔琉視点が入ります。
二日後の日曜日に向け、頑張ります! でも落としたらごめんなさい……:(T-T):