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プロローグ

新連載始めましたm(__)m

 まだほんの少しだけ冷たい風に喜びの声が載る、三月の始め。丁度この日めがけて満開となった梅の花弁が踊り子のように短大のキャンパスに華を添え、めでたく門出を迎えた卒業生を爽やかな香りで祝福していた。


 卒業生の一人である佐々木春穂(ささき はるほ)は、校舎から正門へと続く梅並木の途中で、不意に感傷に襲われて後ろを振り返った。グレージュの色を入れた長い猫っ毛がふわりと翻る。

 堂々そびえ建つ由緒ある煉瓦造りの校舎にもう通うことはないのだと思うと、やはり淡い寂寥が湧いてきて証書筒を強く握った。

 目に焼き付いたその光景は、まるで昨日のことのように思い出される。


 ━━っていうか、実際昨日のことなんだけども。


 ショックのあまり走馬燈を始めようとした思考を現実に引きずり戻し、春穂はゆっくりと息を吐いた。働きたくないと駄々をこねる脳をどうにか通常運転まで持ってくる。


 春穂の目の前には今、セメントの床に額を擦りつける五十代後半の男性がいる。春穂の就職先の社長その人が、彼女に向かって土下座しているのだ。


 状況を整頓しよう。

 一体何がどうしてこうなった。


 短大の卒業式を昨日に終えた春穂が、就職先に卒業の報告をしようと差し入れ片手に家を出たのがつい三十分前のこと。向かうのは下請けを専門とする町工場で、春穂は新年度からそこで事務として勤めることになっていた。規模こそ小さいものの福利厚生は抜群、社風も暖かみに溢れた優良企業の鑑という企業だ。


 この機会に改めてよろしくお願いしますを言うんだ━━そんなことを思いつつ意気揚々とたどり着いた工場には、しかしいつもの活気が欠片も見当たらない。おまけに昼下がりだというのにどんより暗い。


 不安と共に恐る恐るお邪魔すれば、中では憔悴しきった様子の社長が箒を片手に床を掃き清めていた。

 薄暗い中でざっ、ざっ、と箒が床に擦れる音だけが響くという光景に、春穂はいつか昔話で見た包丁を研ぐ山姥を思い出した。つまるところ、たいそう不気味だったのだ。


 ほどなくドアからの光に気づいて重たそうに顔を上げた社長は、春穂を視認するや否やボロボロと大粒の涙を流して。


「すまない、この工場はもうやっていけんのだ」


 と、春穂に土下座した。

 それが今に至るまでの経緯だ。


 すまない、すまないと謝り倒す社長を説得して頭を上げてもらい、何があったのかと訪ねる。互いに膝を突いた姿勢で、社長は号泣しながらも語ってくれた。


 話によると、この工場に下請けを発注していた大元の企業が一月前に吸収合併され、本来ここが請け負っていた部品の生産が他に回されたのだという。利益のほぼ全てを下請けによるものに頼っていたこの工場は呆気なく経営が回らなくなり、昨日付けで経営破綻という結果になったらしい。

 なんとも世知辛いことである。


 経営が破綻したということは、つまり潰れたということになる。春穂の就職先は、就職前に。

 理解した途端にくらりときた。


「……そ……れは……」

「すまない、本当にすまない……!」

「……いえ、社長が悪いんじゃないですし……」


 春穂に何の情報も入ってこなかったのは、従業員総出で金策や新しい元請け先の確保に奔走していたために手が回らなかったからだという。八方手を尽くして、尽くしきっても無理だったのだから社長に非はない。

 非はないのだ。


「だがっ、だが君はこの春からここでっ」

「仕方のないことです、から。社長こそ、どうか気をしっかり持ってください」

「すまない……!」


 仕方ない。大丈夫だから。なるようになる。

 思いつく限りの言葉を使って社長を宥めるのと同時に自分に言い聞かせているのを、春穂は自覚していた。

 だってそうでもしないと目の前のこの人を詰り倒してしまいそうだった。

 春穂の指がカタカタと震える。強固なセメントに固められた床が急激に溶けていっているようで、不意にでも気を抜けば膝からくずおれてしまいそうだ。

 ただ頭だけが異様に冴えて状況を受け止めている。


 今春穂は決定した事実を聞いていて。

 それはいくら嘆いたって覆らないのだ、と。


 世の中ざらに転がっている理不尽のお鉢が、とうとう春穂に回ってきただけだ。奥歯を噛みしめれば広がった苦い味に、体の感覚が正常に戻る。


 今すべきことは何だろうかと考えて工場を見渡す。工具は散らかり埃飛ぶ、荒廃という言葉がしっくりくるような有様だ。

 灰色の風景の中で、転がっているピンクの柄の箒が目についた。


 ━━ああ、そうだ。

 まずはいろいろとお世話になったこの工場に恩返しをしよう。

 それなりに思い入れのある場所がボロボロに散らかったまま終わってしまうのは、なんだか悲しいから。


「……社長、掃除の途中だったんでしょう? あたしにもお手伝いさせてください」


 社長は大きく目を見開いて、泣きながらもぎこちなく笑った。春穂も笑みを返す。

 奥にいた社長夫人も交えて、最後の煤払いが始まった。


 端から静かに掃いても、積もった砂埃は盛大に舞う。スーツで来なくて良かった、と春穂は努めて気にせず掃除を続けた。ちょっとしたお洒落着にしている薄茶のセーターはクリーニング決定だ。

 粗方の埃を取れば次はモップを掛ける。そうして満足いくまで清め上げる頃には、とっくに沈んだ夕陽が鮮やかな残光を空に滲ませていた。


 伸びをすると背骨が恐ろしい音を立てた。正直かなり痛む。

 ある程度体を解したところで春穂は改めて社長夫妻に向き直り、深く頭を垂れた。


「社長、奥様、あたしそろそろお暇させていただきますね。今までありがとうございました。どうか頑張ってください」

「本当に、ありがとう。春穂ちゃんも、どうか達者で」

「はい。では」


 精一杯の笑顔で別れを告げて工場を後にした春穂の足取りが、━━軽かろうはずもない。

 細い路地に入って少ししたところで、春穂は足を止めた。


 これからどうしよう。作業の間は考えずに済んだ最大の命題が重くのしかかる。

 どうしたらいいんだろう。

 ハローワークとか行ったらいいのかな。でも今から大丈夫な就職先ってあるのかな。もう皆内定してるのに━━あたしだけ、こんな。


 熱の混ざった水が睫毛までこみ上げ、堪えきれなくなってこぼれ落ちた。細長い影に雫が二つ、弾けてアスファルトに染みていく。

 恩返しだ何だと言って、本当は自分が置かれた状況が理解するだに恐ろしくて目を背けたかっただけだ。

 急拵えの気丈さは、涙二粒であっけなく剥がれ落ちた。


 幼い頃、大きなデパートで母とはぐれたときを思い出す。めまぐるしく動く周囲の中で、春穂だけがぽつんと一人。

 いっそあの時のように、うずくまって泣いてしまいたい━━でもそうしたって誰かが見つけて救ってくれるわけではないのだ。もう子供の年齢は通り越したのだから。


 このままじっとしていても意味はないのだからと、春穂は重たい足を動かした。家に帰る気は起きなくて、人恋しさに任せて大通りの方を目指す。


 最寄りの大通りはチェーンの居酒屋やファミレスがひしめく飲食店街になっており、仕事終わりのサラリーマンやら部活終わりの学生やらで賑わっていた。ざわざわした喧噪がひどくほっとする。

 特に目的もなく歩いていると、春穂の視界の端を見知った看板がよぎった。

 確か短大の仲間で行ったことのある居酒屋だ。フルーツベースのお酒が種類豊富にあって、値段は程良くリーズナブル。普段から酒はよく呑むが、更にアルコールが進んだのを覚えている。


 ……お酒を呑みたいな、とふと思った。


 災害に精神が疲れきった春穂が見つけた終着駅は、しかし後から思い返せば決してたどり着いてはいけない場所だった。


 だが後悔とは得てして先に立ってはくれないものである。


 一応現金は持ってきていた。財布を覗くと五千円札一枚と小銭がいくらか入っている。十分呑めるだろう。

 服と髪を軽く叩いて、春穂はおもむろに朱色の暖簾をくぐった。



   ◇ ◆ ◇



 早春の夜、冷たい外気の中で、やけに身体が火照ってふわふわして。


 あ、屋根がある。そんなことを思って。


 春穂の記憶は途切れた。



 ━━ゆえに、春穂は知らない。

 自分が今置かれている状況が、人生史上最もとんでもない状況だということを。


 そしてまた、春穂は知らない。

 空が東雲に移り行く頃、すぐ近くでまるで驚愕したようなブレーキ音が響いて。


「……は?」


 と、ぽかんとした声が落ちたことを。


 絶賛爆睡中の春穂が、知る由もないのだった。

3話くらいまで本日投稿するつもりです。

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