月が綺麗ですね
「月が綺麗ですね。」
妻は唐突に言った。
私はそっけなく答える。
「その言葉は、
『アイラブユー』の翻訳だよ。」
彼女はしししと笑う。
「知ってる」
肩を小刻みに揺らしながら
私に背を向ける。
彼女についていくように、
セーラー服のスカートが優しくふわりとなびいた。
彼女は私の4つ年下だ。
しかし、
彼女は私と出会ったときと同じ、
高校生の姿をしていた。
服装も、
その笑顔も、
出会ったときと同じだった。
生きていれば、
68歳なのに。
彼女は去年死んだ。
月並みの言い方をすれば、
彼女は私にしか、
そして、
夜にしか見えない
幽霊だった。
「ねぇ、
いい加減このメモの意味を教えてよ。」
私は
生前の彼女が残したメモを
前へと出した。
「だーかーらー、
自分で見つけなきゃダメだって」
そして、
また彼女はしししと笑いながら
スカートをひらひらとさせる。
半世紀近く前、
思い出の中の彼女が、
そこにいた。
憂鬱や苦悩といった暗闇が、
この笑顔に、
何度照らされたか。
まるで、春の木漏れ日の様な笑顔だった。
全てを忘れる事ができた。
卑怯だなぁ。
私は彼女が残したメモに目を通す。
虹が大きく書かれたメモに、
箇条書きで、
・公園
・石橋
・唐揚げ屋さん
・門前病院の結衣せんせい
・安心院さん
と書かれている。
彼女の方に目をやると、
『そんなメモなんて知らない。』
という風に
背中を向け、
上を見上げる。
背中越しでも
あの、
しししと笑う
顔が見えてきた。
本当に、卑怯だなぁ。
私は苦笑しながら、
彼女と同じ月を見ていた。
そして、
もうこの世にはいない彼女には悪いが、
こう思うのだ。
今日は月が綺麗だから死んでもいい、と。