Extend 00 ある男のオリジン
ある男の、短い生涯の話だ。
名を毒島葛冶という。
葛冶の生まれた時代の中では、割と恵まれた家庭に生まれたと言ってもいいのかもしれない。
父親は、自身が恵まれたキャリアコースを歩む運命を微塵も疑っていなかった。
しかし不況のあおりで、子会社への出向となる。
また葛冶本人も保育園に上がるというタイミングであり、両親は共働きを余儀なくされた。
父親が、葛冶によく言い聞かせていた言葉がある。
――“男なら泣くな。そして正義に忠実であり続けろ”
彼は義理人情を重んじる父親で、ドラマに出てくるような正義の味方そのものだった。
……実際には、その表面・上辺をなぞるだけの軽薄浅慮な凡愚だったが、幼い頃の葛冶にそれが解るはずもなかった。
母親は、父親に対等に接しているように見えて、その実ただの太鼓持ちだった。
サバサバした口調。
家事を何でもそつなくこなし、仕事探しもスムーズに終わらせるスマートさ。
毎晩の晩酌で父親の愚痴に付き合う包容力もある。
そのすべての要素が、夫と息子を肯定する為だけに用いられていた。
彼女に自立性を期待した殆ど人間は、きっと失望しただろう。
葛冶にとって、保育園から小学校までの間、特にこれといった暴虐を目の当たりにはしなかったのは幸せなことだったのかもしれない。
(それでも、一部の児童が自分達の組以外を排斥したり、男子と女子のテリトリーが作られたりといった事象には、幼き日の葛冶も多少なりとも疑問を呈していた。だがそれらは両親の無関心によって黙殺された)
問題は中学校時代だった。
この時、葛冶はその生真面目な人柄ゆえに学級委員長になった。
(より正確に言うならば、誰も名乗り出ないためにやむを得ずそうした)
クラスの皆も「毒島らしい」と、歓迎した。
ある日に葛冶は電車で通学中、他の中学校の女子生徒が、中年男性に痴漢行為を受けているところを目撃。
葛冶は介入し、これを阻止する。
だがその加害者は、葛冶の父親の勤務する会社の、その取引相手だった。
大手商社の役員でもある加害者は事件を“冤罪”として揉み消す。
葛冶は父親に直訴した。
――『ダメなものはダメだ! いいか、葛冶。冤罪は他人の将来を傷付ける、いじめと同じなんだ』
その後も女子生徒は他の複数人の男性に相次いで痴漢被害を受けるが、声を上げられなかった。
そして女子生徒は、学校でのいじめも相まって、ついに自殺してしまう。
葛冶は大いに後悔した。
だが中学生である今の自分の力ではどうすれば良かったのか、見当がつかなかった。
怒った父親の凄まじい剣幕を思うと、身が竦む。
同級生は、そんな葛冶の“やらかし”を耳ざとく聞きつけ、そして積極的に“制裁”した。
つきまとい、恫喝、恐喝、勉強道具の破壊と、隠蔽。
――『いじめなんて、こっちが平気だと言うことを見せつけてやれば、相手だって無駄だと思うようになる。男は、泣いちゃ駄目なんだ』
父親はそのように豪語して、葛冶もそれに従うようにした。
特訓に次ぐ特訓。
葛冶は泣かなくなった。
同級生達は業を煮やした。
ある日、葛冶の母親の妹――つまり葛冶の叔母が、静岡からこちらに遊びに来た。
まだ小さな赤子も一緒だった。
叔母は母親と映画を観に行くため、赤子の面倒は葛冶が見ねばならない。
同級生たちはわざわざ一部始終を観察し、そして家に葛冶だけが残っている事を見計らって、チャイムを執拗にピンポンピンポンと鳴らした。
――『なに? 一緒には遊べないよ』
――『いいから家に入れろよ。一緒に見てやるから』
チェーンを掛けていなかったから、押し入られるしかなかった。
合計、8人。
彼らは全員BB弾発射機構のある玩具の銃を幾つも持っていた。
拳銃、小銃、短機関銃。
そしてどれも、本来なら18歳未満は購入不可能な、威力の高いものだ。
アルミ缶など容易く貫通する。
――『赤ん坊をテーブルの上に乗せろ』
リーダーが高圧的に言い放つ。
葛冶は、嫌な予感に脂汗を流しつつ、それでも精一杯の抵抗を試みた。
――『何をするつもりだよ?』
――『いいから。じゃなきゃ撃ち殺すからな』
どう考えても、正気の沙汰ではなかった。
取り巻き達は風船を膨らませていたし、つまりそれが何を意味しているのか、葛冶も想像がついた。
彼らは葛冶にウィリアム・テルの真似事をさせようというのだ。
――『おいこんな所に隠してあったぜ。タンスの中とか昭和かよ』
――『10万もへそくりあるの? 丁度いいじゃん』
風船を赤子の周りに配置して、リーダー格は言う。
――『的あてゲームだ。赤ちゃんに当てたらゲームオーバー。風船をひとつ割るたびに、1万円ずつ返す』
理屈も何もなかった。
勝手に奪っておいて、返してほしければ狂った的あてゲームをしろという。
赤子に当たればただでは済むまい。
葛冶は、必死に祈りながらトイガンを構えた。
警察に通報するという選択肢は、固定電話に向かう時間の余裕がない。
携帯電話を持っていないし、何より相手は8人だ。
迂闊な動きを見せれば、葛冶自身はともかく、赤子が危ない。
風船を必死に狙う。
撃つ。
狙う。
撃つ。
――『は? ちょっとは苦戦しろよボケナスつまんねーんだよタコ空気読めよホントよ』
横から肘打ちを受けても、狙いは外さない。
――『じっくり狙いすぎ。時間制限入れるから』
――『なんでそうやって黙々とさあ。お前さあ、そういうところだよ?』
悪態にも負けない。
ピリリリリリ、と電子音がなる。
リーダー格の同級生が、ポケットから携帯電話を取り出した。
――『こちらアルファチーム、どうぞ』
携帯電話をトランシーバーに見立てているようだ。
――『ブラヴォーチーム、ルート・レッドにババヤガー接近。ルート・イエローより撤退せよ。どうぞ』
――『アルファチーム了解。オーバー』
――『運が良かったじゃん。部屋散らかったけど頑張れよ。友達が来たとでも言い訳しとけ。もしチクったら、解るよな?』
銃口を突きつけて凄んでくるそれは、大人から見れば調子に乗ったクソガキにしか見えなかっただろう。
が、葛冶にとっては本物の銃のように恐ろしかった。
――『これやるよ』
葛冶の足元目掛けて蹴飛ばされた、粗末な作りの玩具の銃。
大した価格ではないのか、それとも盗品のたぐいなのか。
帰ってきた母親と叔母は部屋の惨状を見るなり激怒し、葛冶が釈明のために口を開こうものなら数百倍の長さでまくしたてた。
金切り声にも近いヒステリックな怒声を18時から23時まで、つまりたっぷり5時間は聞かされれば、耳鳴りも相応にひどいものだった。
いつもどおりの時間に帰ってきた父親は、それについて何も庇い立てしなかった。
葛冶はずっと、自分は赤子を守るために言いなりになっただけなのにと言いたかった。
最終的に、葛冶の私物は勉強道具と生活用品だけとなり、それ以外は全て処分された。
漫画本もゲーム機も。
その日から葛冶は学校を休みたい欲求を持ち始めたが、親にそれを訴えようものなら、
――『負けるな。たった数年間、我慢すればいい』
と、却下された。
だから葛冶は心を殺して通うしかなかった。
行くふりをして休む、保健室登校をする、そういった選択肢は、融通の利かない彼の中には無い。
毎朝、待ち構えていた同級生達にトイレへと連れ込まれ、流し台の鏡の前で“お前は犯罪者だ!”と自分の顔を指差し叫ぶことを強要される。
下校時、駅までの道にある川辺で、川の中腹まで泳がされ、投げナイフの的にされた。
生徒指導室では謂れのない問題を突きつけられ、通信簿の成績は目に見えて下落し、進路相談室では高校への進学も絶望的とまで言われた。
それでも進学できたのは、勉強以外にすることが無かった為だ。
スケジュールを監視されながら、道徳規範を叩き込み、スポーツに力を入れていると評判の、偏差値が低めの高校へと進学した。
この頃には、少しだけ友人ができた。
うち一人は美術部に所属していて、部の方針で毎週の成果物を美術室の廊下に飾っていた。
その友人は葛冶に似て生真面目だし、それでいて葛冶よりスマートだった。
彼の補佐さえしていれば、おおよそのケースにおいて成功していた。
……そして。
それは呆気なく台無しになった。
一緒に犯人を探そうと思って友人に声をかけ、美術部顧問に相談した。
――『■■■くんの作品“黄金郷”に落描きをした犯人? うーん……先生は、こっちのバージョンのほうがいいと思うよ。大丈夫、作品としてはそのままでも充分、通用するよ! だから犯人探しは、諦めよう?』
誰も、その友人に手を差し伸べようとはしなかった。
――『凹んでも意味ねーから。作品の価値を決めるのは作者じゃなくて見る人だから』
――『そんなに弄くられるの嫌なら飾らなけりゃ良かったのに』
――『ていうか元々下手くそなんだから、どうなったってそれ以上クオリティ下がらないから』
やがて拒絶された。
――『触るな! お前が俺をハメたんだろ……こうなるように仕向けたんだろ!! 俺に嫉妬したんだろ!?』
葛冶は、犯人に仕立て上げられた。
これまでと違って弁明は受け入れられたが、広まった悪評は完全には消えなかった。
大学時代には、束の間の平穏。
肩肘張る事をやめ、周囲に迎合して、流されるままに生きた。
父親の言うことは全て、全て、徹底的に無視した。
今まで従い続けても、何もいいことがなかったから。
社会人時代。
ブートキャンプも斯くやといった新人研修を終えて、正社員となる。
仕事は厳しいし、罵声の飛び交う職場ではあったが、仕事とは戦争であると心得ていた。
人間関係は比較的おだやかで、誰とでも可もなく不可もない付き合いを続けた。
だがある日、通勤中。
痴漢の現場を目にする。
フラッシュバックする光景。
もう二度とあの過ちを犯すまいと、葛冶は勇気を振り絞った。
だが。
加害者は微物検査で明確にクロであると判明するや、示談金で終わらせた。
これだけではない。
その加害者は……葛冶の勤める企業の、取引先だったのだ。
またしても。
そして“冤罪を被せた責任”を取るために自己都合退職を選択させられる。
退職金など出るはずもなく。
既に安アパートで一人暮らしをしている以上、家賃は稼がねばならない。
ひとまず食いつなぐためにアルバイトを探したかと思えば、中学校時代に葛冶をナイフ投げの的にしてきた生徒がいた。
――『あの時はホント悪かった! マジで調子こいてた! もうやらないから、な? この通り!』
一般的に、いじめ加害者は加害そのものを認識していない事が多いらしい、と葛冶もおぼろげながら認識していた。
その中で彼は加害の事実を認め、謝罪してきた。
――『偉いぞ! よく反省し、正直に謝った! そういうわけだ、毒島。男ならここはサクッと許してやってくれないか?』
店長は、拍手しながらそう言った。
ここで変に揉め事を起こすのも得策ではないだろうと葛冶は判断し、許す。
だがその彼がある日、交通事故で入院した。
店長は、葛冶に告げる。
――『お前、あいつの後輩だったんだろ? きっと喜ぶから、行ってやれ。大丈夫だ、店は任せろ。バイクで行けばすぐだろ?』
葛冶は、断れなかった。
呪いのように絡みついた道徳規範は、彼に“許す”という選択肢だけを与えたのだ。
その選択肢は葛冶の人生に、とどめを刺した。
 




