深夜バスで
残業をしていたら終電を逃してしまった。
「今日は深夜バスか……」
僕は手早く帰り支度をしてバス乗り場に向かって早足で歩き出した。
深夜バスは金曜日を除いた平日だけ、最終電車がなくなったあと午前一時半にU駅から出発する。それを逃すとタクシーで帰るしか手段はないのだ。
それにしても今夜も蒸し暑い。早足で歩いていると汗がじわっと額に滲んでくる。汗を拭いながらバス乗り場に着くと十人ぐらいが並んでいた。いつもより少ない。僕はホッとして一番後ろに並んだ。とにかく座りたかった。今日は忙しくてずっと立ちっぱなしだったので足がいつもより疲れていると感じた。電車だと乗り換えがあるが、バスなら最寄り駅まで寝ているうちに運んでくれる。深夜バスは車両も大きいのでゆったり出来るのも嬉しい。
五分程してバスが来た。僕は二人掛けの窓側の席に座り、窓の外を眺めていたが、目がトロンとしてきて、いつの間にか爆睡してしまった。
ハッとして目を覚ました。どのくらい眠っていたのだろう。夢を見ていたような気もするが忘れてしまった。前方にある電光板の経路図をみると、最寄り駅まであと半分ぐらいありそうだ。まだ眠れる。そう思っていると甘い匂いが鼻をついた。この匂いは……。ふと隣に座っている人を見ると一心不乱にバナナを食べていた。
僕は見てはいけないものを見てしまったような気がして咄嗟に窓の外に目をやった。すると、トントンと隣の人が僕の肩を叩いて言った。
「尚希さんもバナナ食べませんか?」
「……え?」
僕は名前を呼ばれたことに驚き(それも名字ではなく下の名前)隣人の方に振り向いた。
「あああああーー君は!」
彼女のことは知っていた。彼女はゴリラだ。三ヶ月前、僕は眠れない人たちが訪れるという『ゴリラカフェ』に行くはめになった。そこでウェイトレスをやっていたのが、彼女だった。
「いや、要らないです」
「尚希さんはバナナ嫌い?」
彼女がじっと僕の顔を見つめている。真っ黒な顔の中に円らな瞳が光る。
「あ、嫌いじゃないけどバナナは見飽きてるから」
「そんなバナナ」
彼女がすましてそう言ったので、僕はクスッと笑ってしまった。
「そう言えば、君の名前は何て言うの?」
僕は彼女の名前を知らなかった。
「わたしはアム。漢字は亜熱帯地方の亜にドリームの夢です」
そう言って彼女はちょっと恥ずかしそうに俯いた。そして「ですよね。尚希さんはスーパーの青果売り場でお仕事してるから、バナナ食べ放題ですよね! いいなー」と言った。
食べ放題って……ま、いいやと僕は思った。
ふと『ゴリラカフェ』のマスターのことを思い出した。父親がいない僕にはマスターは親父みたいに思えたんだっけ。
「マスター元気?」
「元気です。相変わらず口は悪いけど皆んなに頼りにされてます」
僕もマスターに愚痴を聞いてもらった。「優しい人……」と言いかけてやめた。だって人じゃないんだよな……ゴリラなんだ。
「そ、そう言えば、今日はカフェは定休日とか?」
「いえ、カフェは年中無休です。今日は暇なので早めに上がらせてもらったのです」
それにしても亜夢はなんて澄んだ声をしているんだろう。少しハスキーなんだけど風のような漣のようなカキ氷のようなシャリシャリと心地よい響きを感じる。
ふと、僕は亜夢の服装に目をやった。亜夢は黒い長袖のTシャツにカーキ色のオーバーオールを着ている。濃いグレーのパーカーを羽織っている。それに黒い手袋まではめている。暑くないのだろうか。
「尚希さん、あんまり見ないでください。恥ずかしいです。顔が真っ赤になっちゃいます」
亜夢は照れていた。顔は決して赤くはないのだが…… でもなぜか可愛いと思ってしまった僕は大丈夫なのか。亜夢はゴリラだぞ。ああ、なんだか顔が火照ってきた。
深夜の道路は空いている。バスは滞りなく走る。乗客は殆どが寝ている。楽しそうにゴリラと会話している僕はいったいどうなっているんだ。うん……たまには変わったこともないと人生つまらないか。
「尚希さんは彼女出来ましたか?」
突拍子もなく亜夢が言った。
「あ?! いや、出来ないよ。別に今欲しくもないし」
「そうなんですか。あ、わたしダイエットしてるんです。関係ないけど」
そう言うと亜夢はまた俯いた。とぼけたような横顔が可愛いとまた思ってしまった。
それから……僕たちは他愛もない話をして盛り上がった。仕事の話、趣味の話。高校時代陸上部だった僕は県大会の時、リレーでコケるという大失態をした話をすると亜夢は目をクリクリさせて喜んだ。亜夢は僕の話を全て熱心に聞いてくれた。とにかく沢山話をした。僕は女の子(ゴリラだけど)とこんなにリアルに話をしたことが最近あっただろうか……。不思議だった。亜夢となら緊張もせず、何でも話せる気がした。
「尚希さん最近は眠れてるみたいですね」
亜夢はポツリと言った。
「うん。新店舗めっちゃ忙しくって、帰ったらもうぐっすりだよ。マスターに会えないのは残念だけどね」
「あ、マスターはその方が嬉しいって言ってます! わ、わたしは違うけど……」
「えっ……」
僕は亜夢の顔を見た。少し茶色がかった目が潤んでいるように見えた。
「楽しかったです。尚希さんとお話し出来て」
亜夢は声のトーンを上げて言った。
気付くともう降車する停留所が近付いていた。
「亜夢さんはどこで降りるの?」
僕はカバンから水の入ったペットボトルを取り出して一口飲んだ。
「終点です」
バスが止まった。亜夢は僕が通れるようにサッと席を立った。
「ありがとう、じゃあ!」
「サヨナラ、尚希さん」
バスから降りると生ぬるい外気がもやっと体を覆った。僕は空を見上げた。月もなんだかもやっとしている。駐輪場に向かいながら、僕は腹が減っていることに気付いた。忙しくって食事をする暇がなかった。牛丼でも食うかな。僕は牛丼屋に入って並盛りを注文した。流石にこの時間大盛りはヤバいだろう。食べ終わって店を出て歩き始めた。その時、後ろから店員の声が聞こえた。
「お客さーん、忘れ物です」
え?! 忘れ物? カバンはあるし、スマホは持ってるし、なんだ? と僕は思って振り向くと、店員が息を切らして走ってきた。そしてニコリとして黄色い物を差し出した。
「はい、バナナ」
「…………」
僕は叫んだ。
「そんなバナナーーーーーーーー」
尚希さん、バナナ美味しいですよ♡(亜夢)