山羊畜生はXXXXの夢を見るか? Part.2
──そして山腹には一匹の畜生。
哀れなニンゲンと餓鬼達の直上、闇色を追いやる朱の光を背負って立つ。
明けと宵の狭間、幽幻世界のまった只中で、彼の姿だけが妙にリアルだ。
その容貌、あまりに魁偉──黒々と奈落を宿した双眸/風に遊ぶガラガラとやかましいベル/星月の光に濡れ光る灰褐色の体毛/硬くそして太ましい双角/鼻腔を貫く太いピアス/あまりにも牛だった。
「MOWその辺にしとけ、クズ共」
岩がそのまま音に成ったかのような、重くて硬い声だった。吹きすさぶ風にも、餓鬼達のコール&レスポンスにも負けない力強い声。サプライズゲストの登場に彼らのフェスは中断、状況を飲み込みかねてモッシュピットサークルじみた円陣を組む。だが意にも介さず、その畜生は告げるのだ。
「漂流餓鬼『抉罪流』──ようやく追いついたと思えば、聞きしに勝る浅ましさだな。ニンゲン相手に盛るなんざァ、畜生にも劣るぜ」
悠々と喝破すると、畜生は岩肌を猛烈な勢いで駆け抜けた──天地に轟く蹄の響き、そして蛮声。
「……ンモォォォォオオオオン!」
爆発じみた雪煙を巻き起こし、黒い巨体が真っ逆さまに落ちてくる──まさに猛進。あまりに唐突で、そして雄々しい有り様に心を打たれる。餓鬼達の言うとおりだ──こんな益荒男の前では、自分など牝に等しい。
慌てたのは餓鬼達だ。闖入者の問答無用にフリーズ状態に陥る彼らだったが、すぐさま迎撃の構えをとって石塊や松明を投げつける。
──されど畜生は衆生と踊る。思いの外鋭く放たれた迎撃の一手を、空中で次々と打ち払う。その巨体には似合わない優雅な舞踊じみた洗練された体術だった。
激震──徒手空拳の猛牛が、流浪の餓鬼のまっただ中へと飛び込んだ。着地の衝撃で、ヤギィも餓鬼達も大きくバランスを崩して面白いように転がった。当の本人は角を振り立て後肢で大地を削り、鼻息荒く威嚇。
ほぼ同時に我に返った餓鬼の部族が、あっという間に彼の周囲をぐるりと囲む。
しばしのにらみ合い。両者の想念が弾け飛び、戦いが始まった。一頭対十四人。圧倒的な物量の差、おまけに牛畜生は全くの素手。ヤギィは鎧袖一触を予感した。
だが──考えても見て欲しい。
いかな徒手空拳とはいえ、彼の頭には角がある。その前肢には、後肢には蹄がある。何より彼には軒並み外れた重さがあり、その根拠となるのは凝した山脈のような筋肉であった。
餓鬼とは、所詮はヒトの成れの果てである。無限に飢え、無限に食らうが、その生態故に決定的に欠けているものがある──その根拠もまた、筋肉。神である力の依代を、彼らはついに持つことが出来ないのだ。
ならば改めて問う──蠢くもやしが数を束ねてみたところで、野生の猛牛を止められるものか?
──答えは否。断じて否。
はたして訪れる鎧袖一触──ただし予想とは全くの逆。緊張感に耐えかねた餓鬼達が一気呵成に飛び込み、黒い畜生に瞬く間に蹴散された。自然とこぼれ出る感嘆の吐息。
「す……すげぇ……!」
「だろ?」
耳ざとい筋肉牛はその背にかばう少年を顧みて、ニヤリとふてぶてしく嗤う。貴種であるニンゲンなど、屁とも思わぬような口ぶりだ。
緊張が解け、腰を抜かすヤギィ。だが、しかし──畜生は、未だその巨体を張り詰めさせたまま。その様子に悪寒を覚えたその時だ。
……むくり、と。
躯のような有り様の餓鬼が、怒りと渇きを燃やして立ち上がる。圧倒的な力の差で蹴散らされたはずが、全員ほぼ無傷。
「……嘘だろ、なんで今ので立てるんだよ」
慄くヤギィの呟きに、またしても畜生が耳ざとく答える。
「もしやとは思ったが……やっぱりな。こいつら全員、法師崩れだ」
その言葉にヤギィもピンとくるものがあった。
法師になるには長年の厳しい修業が必要で、なおかつ寺での政治力を身につける必要がある。その道半ばで脱落したニンゲンは、では一体どうなるのだろうか? ……その答えが彼らである。敗者は餓鬼道に落とされ、残りの生をとことんまで辱められる。
それを嫌った餓鬼達がこうして漂白の民と化すのは、この時代よくある事だった。
それに幾ら集団とはいえ、初太刀で全滅する程度ならたかだか餓鬼の集団に異名などつくまい。先刻の激突は、いわば力量を探る意味合いが強かったのだろう。
あえて相手の攻撃を受け、敵わぬなら死んだふり、そうでないならこの場で討つ。そういう作戦だ。とても餓鬼とは思えない狡猾さ。
ヤギィの考えていた以上の強敵の予感に、再び空気は不穏さを増していった。
「ファンファン!」
これまでにないシリアスさで先頭の餓鬼が号令を上げる。その声に反応した者達が、瞬く間に一列縦隊を組んで見せた。恐るべき連携の充実。先頭の餓鬼がぐるぐると上体をくゆらせ始めると、後続の餓鬼が時間差で続く。トルクが上がってすさまじい風圧を巻き起こし、黎明の冷たい風が猛牛とニンゲンに吹きすさぶ。その力の正体を喝破したヤギィは戦慄した。
「……因業力!!」
彼らに根付いた絆の賜物か、それともニンゲン時代の鍛錬によるものか。しっかりと調教を積んだ法師顔負けの圧倒的な力を彼らは集団で生み出して見せた。
急造の乱気流に身をもまれ、吹き飛ぶヤギィ。しかし牛畜生はしっかり土地を踏みしめ、両の蹄でしっかりと顔を覆い視界を確保。訪れる暴力に決然と立ちはだかる。彼の背中の向こうには、守ると誓った弱き者がいるのだから。
虚空が、爆発した。
十四人分の因業力を凝縮した餓鬼達が、畜生めがけて猛烈な突撃敢行──大気を穿ち、死を運ぶ電車道。その威力は牛畜生がみせた先刻のダイブをはるかに凌ぐ。体重1トン近い牛畜生の身体が轟音とともに吹き飛ばされ、巻きこまれたヤギィの体も空を舞う。放物線を描いて大地に激突。雪がクッションとなって骨折には至らなかったが、全身を激しい痺れが襲った。そのヤギィの前を畜生が転がっていく。直撃だった彼は盛大に吹き飛ばされ、典雅な寺院の壁に激突。寺の上に降り積もった雪が瀑布となって降り注ぐ──痺れるような静寂。
ああ、これは死んだ──ヤギィは勿論、餓鬼達もそう思ったはずだ。
しかしその思い込みは、あっさりと覆された。
再びの爆発──寺院の方角。先に倍する粉雪巻き上げ現れたのは、漆黒の筋肉山。
「……クソが!!」
毒づきながら起き上がった牛の目は野生と怒りに猛り狂い、全身から熱い湯気が吹きこぼれる──呆れたことに、全くの無傷。
「ったくよぉMOW……聞いた話とずいぶん違ェじゃねえか……。さてはテメェら、人数増やしたな?」
畜生の言葉に、餓鬼達がぴくりと震える。彼らの同様は明らかだった。特に先頭に立つ餓鬼の顔色は前にもまして悪い。
「……キサマ、ドコデ、ソレヲ」
「んーだよ、ちゃんと喋れんじゃねえか。それともオメーと最初の数人だけか? 仲間増やすにしても質ってもんを考えにゃあ、いざという時生き残れんぜ?」
「ダマレ! ワレワレハ!」「コノメンバーデ、TENKA、トル!」 「コノ、チームハ!」「カンペキ!」「ダ!」
痛烈な侮辱に怒り狂い、ぐるぐると因業力を溜め始める流浪餓鬼『抉罪流』。もう一度あの電車ごっこを繰り出すつもりだ──悪夢の予感に身を震わせた時、それを叱り飛ばすように牛畜生が、吠えた。
「あまり畜生をなめんじゃねえ。 テメェらみてーな救いようのないドグサレ共を無理やりでも救うのが俺らの仕事だ。感謝してOUJYOUしな!」
言うやいなや、犬畜生はその両手を大地に付き、しっかりと四肢で根を張った。熱い鼻息とともに、ゆらりと陽炎──次第にそれは大きくなり、牛畜生の体毛が逆立ち、波打ち、巨大な松明と化す。空気が焦げる独特のオゾン臭。酷寒の最中に会って、じっとりと汗ばむほどに熱い。
「す……すげえ因業力だ……!」
今や驚くだけの存在と化したヤギィの声を、三度荒ぶる野生が拾う。
「違うぜ、坊主。俺が使うのはな──」
そこで一旦言葉を区切ると、野牛男は一度だけ視線をよこし、ニヤリ──悪鬼そのものの笑みを浮かべてこう言った。
「──応報力ってんだ」
そして彼が、世界から消えた──続いて音が、光が、吹きすさぶ風さえもがかき消される。あらゆる生類を試す大自然──それ以上の『力』が、つかの間に世界を書き換えたのだ。
重たい巨躯を音さえ千切る弾頭と化し、その角で、蹄で次々と手当たり次第に打ち砕く。乾坤一擲──破壊力バツ牛ンと言わざるをえない一撃。
その余波は乱気流どころではない。横倒しの竜巻だった。狙い撃つべき漂流餓鬼はおろか、後ろに控えたヤギィでさえもが抗いようもなく吸い込まれる。
怒涛のままに駆け抜けて、雪煙と冷たい飛沫がヤギィと餓鬼と周囲一帯を飲み込んでいく。あっという間に視界が消え失せ、何もかもが奔流の中へと埋もれゆく。白い牢獄に囚われたヤギィの意識は、奇妙なほどに鮮明だ。
(──このまま、)
このままここで死んでいくのか。アレほど恐ろしかったのに、今はちっともそんな気になれない。あの牛畜生が現れてから、別の何かが心のなかを支配していた。
(……あっけねェもんだなぁ)
まあ、いいか──見たいものが見れたから。
白の津波が、何もかもを飲み込まんとしたあの瞬間、ヤギィの心には刻まれたものがある。日輪と月輪がともに空にあり、綺羅星が彩る極限の静の美のまっただ中を、あえてDAINASHIにして見せる醜い野蛮。
これが世界なのだとその時悟った。いつだって混沌で、居るだけでも痛みが溢れて。なのに、こんなにも尊い。
手は、伸ばさない。このまま冷たく朽ち果て、輪廻を待つのが一番だと思った。新たな生に希望を託すのが心地よかった。
だが安寧の死さえも許さぬのが、野生と言う『力』なのだ。
「小僧! 捕まれ!!」
戛然を目を開く。何も見えない。息もできない。だが畜生の声はそれすら穿って鋭く届く。
思うままに腕を振り上げる。本当にそう動けたかはわからない。けれども確信があった──無明と白のその先に、願ったモノはきっと在る。
何かを叫んだ──あの畜生とは違って、その声は雪崩の中に埋もれて消えた。構わない。それが今の実力。噛み締めて、刻み込め。
かくして視界いっぱいに、自由な空が。
薄らいでいた生の実感──痛みが溢れて、わけも分からず叫喚した。極限を垣間見たがゆえの、TAMASHIIの震えだ。こんな情感を前にしては、先刻感じた高みなど全く意味のないものに思えてくる。
「いつまでもモーモー鳴くんじゃねぇ。そんなんだから餓鬼に目ェつけられるんだぜ」
畜生が彼の前に屈みこんで手を差し伸べた。夢の光景であるはずなのに、その手の感触にハッキリとぬくもりを感じる。
分厚い蹄のひらに助け起こされたヤギィはしゃくり上げるのこそやめたものの、憮然とした表情は変わらない。
こうして一度生き延びて冷静になってみると、ずいぶんと恥ずかしい事ばかりをやらかした。股ぐらは黄色くぬれそぼち、顔中くしゃくしゃで未だに熱い涙がとめどなく流れる。
ヤギィの周りは大きく派手に様変わりしていた。一面雪と岩土の山、まだ彼方では雪煙が残っている。その辺りには今度こそバラバラになった餓鬼達の肉片が雨となって降り注ぎ、ヤギィの目の前をコロコロと転がってゆく。見上げれば遥か彼方に寺院があり、かなりの距離を滑落したことがわかった。戻ろうにも道は崩れてしまっていて、おまけにどこから登れるのかも皆目見当がつかない。
これにて帰る場所を失ったわけだが、不思議とそれほどショックではない。そもそも何故あそこに居たのかわからずじまいなのが心残りだった。
これからどうしよう──このままでは寒さと空腹で結局は死ぬ。これでは生き残った意味が無いから、方針を考えなければ……シアンにくれていると、横合いからからのそりと気配。あの牛野郎だった。
「……あー、ニンゲンの坊主よ。その、つかぬことを聞くが、何でお前さん見たいのがここに居る?」
その目は不審を疑うというより、何かの確認のようであった。彼はあの流浪餓鬼を追っていたようだから、その背景を知りたいのだろう。やましいところは何もないから、正直にそのまま話す。
「……俺も、何であそこに居たのか分からないんだ。けど、もうあそこにいてはいけない気がする。あの寺は静かで、穏やかだったけど……生きてる感じが全然しなかったから」
ヤギィは、牛畜生のまっすぐに見つめ返す。憑き物が落ちたように晴れやかだった。この猛牛には感謝しかない。口にだすのは恥ずかしいから、どうか視線で悟って欲しかった。
しばし見つめ合った後、牛畜生はおもむろに懐から雑嚢を取り出して投げてよこした。中には雪よけのポンチョと水筒、それから小分けにされた小さく丸い団子が数十個。
「大麦とトウモロコシ、大豆をこねて秘伝のタレを混ぜた特製試料だ。一日一食で腹持ちするし、ミルクで和えてもかなりイケる。……あいにく俺は雄牛だから、そっちはやれねェけどよ」
言いさしながら、牛畜生は突然己の首に手をかけ、そこに巻かれたものを引きちぎった。カラカラと哀愁ただよう音色を立てるのは、南京錠を模した特大のベル──紛うことなき純金製。どっしりと重いそれを、やはり無造作に放って寄越す。
ヤギィはとっさに受け取ってしまい、どうしていいか分からず彼の目を見る。牛畜生は悪戯っぽく目を細め、軽く唇を笑みの形に曲げて言った。
「麓に降りたら、そいつを売っぱらうといい。坊主が大人になるくれェの金にはなる」
「受け取れるかよ! そこまでしてもらう義理はねェ!」
「阿呆。折角体張ってで助けたんだぜ? のたれ死なれちゃかなわねェよ」
突き返した重すぎるものを再び押し付けられ、ヤギィは当惑した。
彼の言う事は一理あるが、やはり納得は行かなかった。そこまでしてもらう価値が自分には感じられない。なぜなら己は、弱いから。貰ったところで、どうせまた奪われるだけ。
そんな思いを見透かすように、牛畜生は更に言葉を紡ぐ。
「そいつは投資だよ。上手く使って力をつけろ。そしたらMow、こんな施しは必要ねェだろ?」
「……だったら、こうする」
ヤギィはそう言うと、唐突に受け取った首輪を自らの首に巻きつけてみせた。突然の閃きだった。あまりの重たさにバランスを崩してたたらを踏む。意地で堪えて、ニッと微笑んでみせる。それはつまり──誰にも譲る気はない、という事だ。
またこれは誓いでもあった。この生きる辛さにへこたれない自分になるための、決意の証。
「いずれ、必ずアンタに返しに行く。絶対に探しだすから、アンタが一体どんな奴に投資したか、その時見届けてくれよな」
この大言壮語に、牛畜生はなんとも居心地悪そうに頬をかいた。暫く何事かを考えて唸る彼だったが、やがて根負けしたように大きくため息をついて、最後に仕方なさそうに笑った。暑苦しい風体からは想像も出来ない、気風のいい笑顔だ。
これが、あれほどの大破壊をもたらした男の素顔か──意外な一面を見て、ヤギィの緊張はようやくほぐれた。
「助けてくれてありがとう。助言も施しも、ありがたく受け取るよ。先の事はわかんないけど……」
「簡単さ。ニンゲンはニンゲンらしく、畜生は畜生らしく生きればいい。……くれぐれも餓鬼道なんかに堕ちるんじゃねェぞ。ンな事になったら、こえェ畜生がお仕置きするぜ」
最後に畜生らしい説法をかまして、牛男はある方向を指し示した。気がつけば太陽が、山々の狭間から眩い顔をのぞかせている。あちら歩いて行け、ということだろう。それで話は終わり。
牛畜生は背を向けて、悠然と前に向かっていく。振り返る気配はない。彼には未だ目的があり、己を助けたのはいわば余録であることを改めて思い知らされた。
「あの!」
決然と叫ぶ少年に、畜生の足が止まる。肩越し、ほんの少しだけ見える黒々とした目。その目が迷うなと告げていた。
「あ……アンタ、名前は!?」
「俺か? 俺の名は……」
その時だった。彼らを襲う、規則正しいかすかな揺れ。続いて雷鳴とよく似た響きが二人から言葉を奪った。
過酷な生を選んだ少年に運命は恩人のを刻むことすら許さない──去りゆく夜から、向かってくる一団。
モノクロームの世界に滲んだ影──餓鬼の群れ。
なにがしかの経文をひたすらに唱え、こちらへとまっしぐらにやってくるファランクス。早朝の雪山に、絶望の真言が木霊する。
──キ! ミニィィィィィィィィイイイイイッ!!
耳障りな音色を奏で、整然と現れた影の数──今度はなんと、48人。圧倒的戦力差を前にして、ヤギィの目に絶望が宿る。だが同時に、希望なら目前にまだあるのだった。その希望が再び熱を帯び始める。
「……連隊餓鬼『死汁蜂』。今日は衆生が豊作だな。救い甲斐があるってもんだぜ」
畜生はやれやれと肩をすくめると、励ますようにヤギィの肩に手をおいた。分厚く硬い手のひらは焼けたように熱い。
「行け、坊主! 全力で走って、絶対に振り返るんじゃねえぞ。折角生き延びたんだ、OUJYOUするまで、何があっても生き延びてろや!」
きっとこの畜生は、何があってもこうするのだろう。心向くまま、野生のまま。天地の理にとけあったまま。
だから、征く。男の言葉をしっかりと刻んで。
「……クソッタレの衆生共め。全員残らず救ってやらァ」
牛畜生はそう吐き捨てると、今度こそヤギィを振り返らなかった。ただただ真っ直ぐ──応報力を迸らせて、またあの嵐の撹拌を引き起こそうと身構える。
そのたくましい尾根のような背中を目に焼き付ける。一瞬の邂逅だけで、Mow二度と忘れ得ぬような鮮烈さ。たちまちの内に理解が及ぶ──これが、男に惚れるということなんだろう。
ヤギィは、高鳴る鼓動を持て余す。焦がれた男の雄々しい背中と、先刻目に焼き付いたあの鮮烈な景色とが今の彼を何処かへ導こうとしている。
やがて見えてくる街道に向かって駆け抜けながら、この一夜の出来事を決して忘れないようにしようと誓った。
……そうだ、思い出した。
こんな風に、彼みたいに自由に振る舞えるようになりたくて。だから自分も、強くなりたいと願ったのだ。
だがすぐに思い直す──与太話にも程がある。これが本当に真実なら、致命的な齟齬がある。何故ならヤギィは知っている──己は生まれついての畜生だ。父もなく、母もない。物心と名前を得た時には、側に居たのはあの生臭い坊主と小うるさい相棒だけだった。
彼らが初めてかけてくれた言葉を、今も彼は覚えている。
『ようこそ、畜生道へ』──それが、本当の最初の記憶。
──だからやっぱり、これは夢だ。溺れるよりも、本当の自分を思い出せ。
そう念じた途端、唐突に力が抜けて、視界が急速にぼやけていく──…。
──…。
──────……。
──────────────………。
──────────────────誰かが、自分を呼んでいる。