突入前 ~畜生達の夜~
宣言からきっかり2時間──ペーチュンが戻ると、ようやく遅い晩餐と相成った。明日には命がけの任務ともなれば、自然食卓は豪華になる。
干し草に骨っ子、雑穀、稲荷にバナナ──これが最後の贅沢とばかりのメニューに、フアレス名産テキーラまでもが振る舞われ、宴は大いに盛り上がった。
あらかた料理も片付いた頃、ヤギィはそっと席を立つ。
部屋の方では未だイヌーがN.U.Eの面子と救世について熱く語り合っていたが、今ひとつ信心の浅いヤギィは彼らの語らいの輪に入りきれず、一足先に抜ける事にしたのだ。
「流石に……ちょいと疲れたな」
独白が思わず漏れる。道中色々ありすぎた。一人になると疲れがどっと噴き出す。
だがそう悪い気分でもない。目を閉じてみれば、浮かぶのはあの牝畜の艶姿──甘いフェロモン、柔らかい唇の感触。どれも鮮明に焼き付いている。中でも一等強烈なのは、耳元で囁かれたあの言葉──『草食なのにとってもワイルド』。
紡がれた言葉を思い起こすたび、彼の心は千々に乱れる。単なるリップサービスだと分かっていても、初心な彼では昂ぶりを覚えてしまうのは無理もない。
とは言え──いつまでも懸想に耽っている場合ではない。明日からは本格的な畜生働きが待っているのだ。
気晴らしに水浴びでもしようと衣服を脱ぎ始めたその時、柵のドアに軽快なノック──開けてみれば、そこに居たのは妖艶の美畜、タマーモだ。
今まさに懸想していた相手の来訪に、みっともないほど戸惑うヤギィ。雌狐もゲストの野生的な姿に軽く目を丸めたが、すぐに笑みを浮かべて用件を述べた。
「イヌーから、紙が好きだって聞いて用意したのだけど……取り込み中だったかしら」
そう言って掲げたのは、年代物の越前和紙──山羊畜生なら誰もがこがれる一品だ。願ってもない申し出だが、何しろ夜更けもいいところ。一応は仏門の端くれは、応じるかどうかで一瞬躊躇う。
だが雌狐が一瞬、悲しげに瞼を伏せるや、抹香臭い考えなどたちまちに吹き飛んだ。
「と……とにかく中に入ってくれ。立ち話も何だしさ」
おたつきながらも扉を開ければ、可憐な牝は甘い微笑でそれに応じる。何やらすっかりと彼女のペース。
ひとまず招き入れたはいいが、この後マジでどうしよう──テンパる若造は無意識のうちに飼い主に助けを求める。すると天井の隅っこのほうで、懐かしい油ギッシュが遺影じみた姿で浮かぶ。その手は卑猥な感じのサインであった。
意味不明の幻覚を前に真剣に悩む──やはりこれは据え膳食わぬわなんとやら、だろうか。
(……いやいや、そりゃ流石に考え甘ェ)
そうこうしている内にタマーモは席につき、歓待の用意をすっかり整え終わっている。和紙の他にもケント紙、パピルス──どれもこれも年代物の上物ばかり。傍らに古酒。こちらもイヌーが嬉ションしそうな代物だった。
「どうぞ。ゆっくりと召し上がって」
「あ、ああ……ありがとう」
誘いのままに席を下ろすと、ひとまず一枚クチャって見る。丁寧に濾された和紙が、口の中でほどけていく。それを反芻もせずに、一気に酒で流し込んだ。こうでもしないと、到底この状況には耐えられない。
臓腑に焼けつく感覚を受け、ようやく腹が据わりつつある。そのまま続けて2枚、3枚──夢中でむさぼる姿を見て、牝畜生は口を開く。
「ペーチュンのことはごめんなさい。彼、スネークと仲が良かったから……」
「あぁ……イヤ、気にすんな。アイツはいい畜生だ。ナリは小せェがハートはデカい」
再び流れる無言の時間──息が詰まって、差し入れの紙に手を伸ばしてクチャクチャとやる。せっかくの高級紙だというのに、さっぱり味がわからない。
それもこれも、いつのまにやら隣に座った牝の体温のせいだ──今も鼻先をくすぐる甘い香りが、ヤギィの理性をかすませつつある。デカいといえば彼女のそこもだ──のぼせた思考が視線を導き、豊かな二つの実りへ注ぐ。
ところで今の彼女は、先ほどとは装いが違う。丈の短い、黒いレースのネグリジェ襦袢に腰帯一つ。秘すべき所はかろうじて隠れているが、かえってそれが艶かしい。どこを見るにも目の毒で、結局壁を見るしか無い。
「ところで、こんな夜に何を……」
「もう、野暮ね」
雌狐はそれだけ言うと、いきなり彼を押し倒した。まさに早業──逞しい胸板に指を這わせ、瞳を怪しく潤ませる。
細い指先が身体の何処かをなぞるたび、得も言われぬ痺れが走る。張り詰めていた筋肉を甘くとろかすかようにめくるめく──とうとう角をなぞるに至っては、辛抱たまらずついにヤギィは悲鳴を上げた。
「スタァーップタマーモ! OK、落ち着い話しあおう!」
「あら、交尾は嫌い? それとも衆道?」
「いやいやいやもっと違う! そのなんだ……俺は、こういうの初めてだからさ……」
プッシー知らずの決死の叫びに、ようやく雌狐の愛撫が止まる。タマーモは一瞬驚きこそしたものの、
「意外ね」
「本当さ。君の方こそ、随分と手馴れてる」
「雌狐ですもの。それとも牝犬はお気に召さない?」
「ンな事はメェけどよ……。ただ、本当にわからないんだ。どうして俺なんだ?」
「貴方に興味が。他に何が?」
言うやいなや、タマーモは寝間着の帯をはらりと解いた。そびえる牝の美しい裸身が逆光を背負ってくっきりと浮き立つ。特に二つの巨峰を直接見るに至っては、ちっぽけな疑問など遥か彼方に打ち捨てられるが定めであった。
二人の顔がゆっくりと近づき重なりあう──今度はより深く、貪るように。
「ラテンの牝は皆こうよ。知りたいことは身体に聞くの。……貴方は私に興味はない?」
「ホントのトコ、ずっと興味はありありだったよ。でも最初の質問は、出会った時にもう聞いてる」
言われて、彼女は思い出す。不躾な質問──『何食ったらそんなに育つんだ?』
全く。雄という奴は、どうしてここがそんなに好きなのだろう。
「明かりを消して。続きはその後」
言われるままに明かりを落とすと、再び柔らかい牝の感触。甘い香りが鼻をつく。その香りを胸いっぱいに楽しみながら、ヤギィはその答えを静かに聞いた。
「──シリコンよ」
◆
一方、イヌーはどうかとと言うと──せっかくの酔いも抜けるほど、散々な目にあっていた。
仏トークに花を咲かせてるうち、相棒はとうの昔に自室に引き上げ、チンパは新たな釈尊の作成へ。美貌の雌狐はいつのまにやら消えていた。そして残された最後の一羽は、今や彼の頭上を住処と定め、無闇矢鱈に体毛を啄んでいる。
「らからよォ、ホントはお前ェらが来てくれてマジ感謝してるっつーの! 聞いてんのか犬畜生!」
「お主、弱いくせに酒癖悪いとか最悪じゃのぅ……」
「だからなんだってんだ! 待ってるのに全然来ないし! ほんとに心配したんだからね! もう、バカバカ!」
「分かった、分かったからもう寝よう。続きは仕事を果たしてからだ」
延々愚痴デレを繰り返す鳥畜生をどうにか鳥籠まで送り届け、ようやく部屋に戻ってきたのが夜半すぎ。だというのに隣室のドアの隙間に未だに漏れる部屋明かり。更には牝独特のフェロモンがいやがおうにも鼻につく。よって、中の様子は自明であった。
夜の寝室に雄と雌が二人っきり──コレはいけない。いかに畜生といえども二人は僧兵、うっかり過ちを犯すなどあってはならない。さりとて無断で押し入るわけにもいかず、イヌーは散々迷った末、咄嗟に柵のドアに耳を押し当てた。
やがてバタバタと物音がして、続いたのは相棒の呻きと、オーイェスオーイェスと雌狐の息む声。嗚呼……なんてことだ。これはつまり──。
「何じゃ、綱引きか」
全く、畜生騒がせにも程がある。何故わざわざ夜中に運動会をおっ始めるのか──近頃の若者の考えはさっぱり理解出来ない。とはいえ、健全な交流ならば口を挟む余地もなし──しっかり絆を深めるといい。
ほっこりしたイヌーはようやく犬小屋に身を横たえ、いざ目を瞑ったその時だ。
頭の奥の奥、脳幹の芯ともいうべき所にひどい熱と痛みが渦巻き、彼の眠りを妨げた。今夜に限ってのことではない。就寝前のこの瞬間、いつも彼はこの痛みと記憶に苛まれる。思い出す絵はいつも同じだ。
今より数年ほど前のカンボジア本願寺──法師の寝所。閨の中、房事を終えてしどけない姿のムドーが放った言葉。
『もし、あやつが──』
『ヤギィが、己の真実に辿り着いたその時は──』
『その時は、お主がその手で──』
そこから先を思い返して、イヌーはカッと目を見開いた。呼吸も荒い。喉がカラカラに乾いていた。据え付けの水道からガブガブと水を飲み、頭に被って頭を冷やす。そうして落ち着きを取り戻したその頃には、彼の姿は捨て犬のような有り様だった。
気になるのは、海上での一幕──彼の相棒が魘されていた時の事だ。常ならば何事も包み隠さず打ち明ける相棒が、この時だけは妙に頑なだったから。
今までもこういう不安は何度もあった。その都度彼は気をもんで、そして取り越し苦労を重ねてきた。
だから、今度もきっと大丈夫。そのはずだ。言い聞かせても不安はやまない。
要するに、後ろめたいのだ──彼を見張っていることも、拭えぬ罪を語れぬことも。
そんな懊悩などつゆ知らず、隣室ではいまだ未だ深夜の綱引きが続いている。どっちも頑張れ。雄勝て雌勝て──心のなかで戯れにエールを送るも、気分は一向に晴れやしない。
そこでイヌーは般若刀を取り出すと、いつもの様に自身の肉球をかすかに切った。ただちに襲う酩酊感。安堵の吐息が漏れる。やはり酒は手放せない──。
(ヤギィ……儂は……)
はたして、続く言葉は何だったろうか──その日もついに答えは出せず、イヌーは今度こそ深い眠りに落ちるのだった。




