六話「泣いた少女と魚の切り身」
「ほら、ソーマ。これはなんだ?」
キリはページをめくり、言った。
「…ほん」
「ちげーよ。いや、間違っちゃねえけど。これだよこれ。」
キリは本に描かれた挿絵を囲むように円く指で示した。
「ん、い…ぬ?」
「おう。正解だぜ。」
キリはソーマの頭を撫でる。そうしてやるとソーマはくすぐったそうに、はにかんだ顔で少し笑った。
ソーマがここへやって来てから丁度十二日間が過ぎた。なんだかんだで教育係りの任を与えられてしまったキリは、今日もこうしてソーマの先生をしていた。最初の五日間は野営地にあるものを一つ一つ指差して名前を教えていく方法を取っていた。しかし、ソーマはすぐにそれらを覚えてしまったので、今はこうして団員たちの蔵書を拝借し、挿絵を使って教えている。
今読んでいるのはカムリの持っていた聖書である。そこには神々が現世でその似姿とする十二の動物の絵が鮮やかな色彩で描かれていた。
十二の動物、即ち鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、羊、猿、鵬、犬、猪である。これらを化身とする十二神は、またそれぞれに年、月、週、日、時を司っている。月には三週間の長い月と二週間の短い月が交互に有り、一年は360日となる。それに則るとソーマがやって来たのは兎の月、鼠の週、竜の日。今日は兎の月、牛の週、竜の日となる。
最もそれらを含め聖書に書かれる細かい事はまだソーマには難しいので、キリが勉強に使うのはもっぱらそこに描かれる挿絵のみであったが。
「あらぁん、精が出るじゃないのぉ、キリ。そ・れ・に、ソーマちゃ〜ん!お勉強エラいわねぇ。」
「…どこから沸いた。オカマ。」
背後から現れたシリオがキリたちに声を掛けた。突然の邪魔にキリは厭そうにそちら、彼らの居る男性宿舎の入り口を向く。
「なによ。これだから礼儀のなってないガキはいやぁね。普通に入り口から沸いたに決まってるわ。ね、ソーマちゃん。」
「あ…しり、お。」
本に夢中になっていたソーマ、改めて声を掛けられてシリオの存在に気づいたのか、例のお辞儀で挨拶をした。その仕種がどうやらシリオの琴線に触れてしまったらしい。
「きゃー!ほら、キリこれよこれ!アンタに足りないのはこういう事なのよぉ!」
そう言ってシリオはソーマを、その逞しい胸板に抱いて頬ずりする。
「やめんかオカマ!ソーマが固まってんじゃねぇか!」
速やかにシリオの魔の手からソーマを奪取するキリ。
「なによぅ。独占欲の強い男は嫌われるわよぉ。」
シリオはソーマを胸に抱いたポーズのまま、不満を顔に出した。
「勝手に言ってろっ。…それより、何しに来たんだよ。冷やかしなら帰れ。」
「あ、そうそう。そろそろお昼よ。だから呼びに来てあげたってワケ。感謝なさいっ!アタシが腕に縒りを掛けて作ったんだから!」
ふんぞり返るシリオは無視してキリはソーマに話しかける。
「メシか。おい、ソーマいこーぜ。」
「ん、ごはん。」
ソーマは本を閉じると、立ち上がってキリの手を握った。
そうして軽く雑談をしつつ、三人は集会所へ向かって行った。
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ここでやや場面を戻す。シリオがキリとソーマを呼びに行く少し前、集会所では団員たちによってちょっとした話し合いが行われていた。
「ぬぅ!ソーマの正体が分かった、だとぉ?」
「んっふふ、落ち着いて下さい。私は分かったかも知れない、と述べただけで御座います。」
額に青筋を浮かべるヘムオンをイールが宥める。
「しかしのうイール。それは先日、ソーマが来た日に話し合って結論が出たはずじゃが。」
「そうだな。ヴァルトリア軍に捕らえられた奴隷。…そうではないのか?」
その場の団員たちを代表してガライとヨシアが言った。
「にゃはは、ところがどうやらそうじゃ無い。昨日、イールくんと話し合ってみたんだけどねーぇ…。」
その問いを艶然と笑って返したのはミームだった。
「ミームさんっ。もったいぶらないで教えて下さいよう。」
そう言ってカムリが、言葉を切ったミームを急かす。
「んにゃ、まず、幼女ちゃんが前にアタシが推測した通りの立場だったとすると、あちらでは相当酷い扱いを受けていたってコトになるよねぇ。」
「…ヴァルトリアの従軍娼婦、っスか。」
あの日の話し合いに参加していたイバラードがそう補足する。
「にゃは、あの幼女ちゃんがもしそうだったとしたら、それはあの子に多大な負荷を与えたハズさ。それこそ、心に重大な傷を抱えるほどにね。」
その言葉にブランがはっと顔を上げた。
「なるほどな。だが実際のアイツはそうじゃねぇ。」
その言葉を引き継いで、アウレリアが続ける。
「見知らぬ男性に囲まれても、極端に忌避する様子は見られないですね。多少普通の子供より大人しい部分はあるようですが、元々の性格に依るものでしょう。」
「その通りさアウラちゃん。まずそれが一つ目の理由。」
「…一つ目の、ですか。」
ミームの言葉尻を捉えて言ったのはサラサである。それに答えてミームは続けた。
「そう、そしてあの日主戦線において大規模な衝突はなかった。それどころか、あの日は他のどこの戦場でも、戦闘行為は行われていなかったのさ。」
「ちょ、ちょっと待って下さい。なんでミームさんはそんなことが分かるんですか?」
そうミームの言葉を遮ったのはカムリだった。
「んにゃぁ?カムリちゃんはまだ知らなかったのかい?アタシには頼りになる『目』があるのさ。昨日最後の『目』が到着して、アタシに教えてくれたのだよ。」
その説明にまだ納得のいってなさそうなカムリには構わず、ミームは更に続ける。
「幼女ちゃんがやって来たあの日、どこの戦場でも戦闘は無かった。つまりは…。」
「軍に捕らえられた奴隷の少女が、どさくさに紛れて逃げ出すような事は不可能だった。…つまりはそう言う事か。」
ミームの言葉を受けてヨシアが発言する。
「ヨシアくんだぁいせ〜か〜い。おねえさんが満点をあげちゃおう。さて、となると幼女ちゃんは一体どこから来たのかって事になるけど…。にゃはっ、あとの説明はイールくんにお任せするよ〜ん。」
そう言ってミームはごろごろと卓に突っ伏すと、イールに向かって手をひらひらと振った。自ずと団員たちの視線がイールに集まり、彼の発言を待った。
「んふ、ご苦労様ですミーム嬢。…さて皆様は『河より出でし勇者』の伝説をご存知ですか?」
「ええ〜、イールさんそりゃ無いぜ。そんなんぼくらの誰もが知ってる御伽噺だろ?」
「ソーマはなんとお姫様では無く勇者様でした!ってかぁ?」
「ふおお、ゆーしゃサマ!かっこいー!」
満を持して発せられたイールの言葉を途端に混ぜっ返す双子。リィンはただ感心しているが、他の団員たちにもざわめきが広がっていく。それを押し留めたのはゾッドだった。
「待て。それが、結論…では無い、だな?」
ゾッドの重々しい一言に、イールは満足気に笑って頷く。
「まぁ遠からず、では有るのですけれどもね。結論はその先に有るのですよ。…おや。」
ここまで言ってイールは口を噤んだ。そこにテントの風防を揺らしキリ達三人が入って来る。
「んっふふ、このお話はまたに致しましょうか、ねぇ。くっくっく。」
「ああん?なんの話してたんだよ。」
イールの態度にキリが怪訝そうな顔を見せる。
「あのねー、あのね!ソーマがゆーしゃサマだってお話だよっ!」
「はぁ?このチビガキが勇者だぁ?あに言ってんだリィン。頭でも打ったか?」
「まぁこの子はいつも頭打ったような事で騒いでいるものねぇん…。」
答えたリィンを可哀想なものを見る目で見て、溜息をつくキリとシリオ。
「ゆうしゃ…?」
「おおソーマ!ゆーしゃはねっ、つよいんだぞぉ!あっはっは!」
首を傾げるソーマに、偏った情報を与えんとするリィン。その頭にキリは一撃を加える。
「おい、そいつが信じ込んだらどーすんだ。んな事よりメシ食おーぜメシ!」
そう言ってキリはさっさと自分の席に着いた。その隣にはソーマの為に新しく設けられた小さな席がある。ああ見えて手先が器用なゾッドが拵えた逸品だ。
「おお、そうだな!うーしじゃあ、皆揃ったことだし昼メシにありつくことにしよう。おいミーム起きろー。それとリィンとソーマも席着けよー。」
ブランがそう宣言し、カムリ主導による神々への祈りを済ませると、団員達はシリオ自慢の昼餉に取り掛かった。
その光景に月子は、ちょっと前まで当たり前だった神代家の団欒を思い出した。今彼女の周りに居るのは父と母では無く、傭兵団の団員達である。
彼らは皆優しかったし、キリに手を引かれてあちこち探検して彼らの言葉を教えて貰うのも楽しかった。多分、学校でつまらない先生のお話を聞くより楽しかっただろう。しかし、家で心配しているであろう両親を思うと胸が痛くなって、月子は小さく呟いた。『お父さん』『お母さん』と、キリ達には分からない言葉で。
「あっ…。おい!なんで泣いてやがんだソーマ!…こら!」
いつの間にか泣き出していたソーマに気付き、キリが声を掛ける。心配するような、じれったいような声で。
「どーせハラ減ったんだろ!ほらっ、これやっから泣きやめよ!」
そう言ってキリがソーマの皿に押しやったのは、キリの皿の上に乗っていた一番大きな煮魚の切り身である。今朝彼自身が釣ってシリオが調理したものだった。
キリがそれを釣る様子を一緒に眺めていたソーマは知っていた。彼がそれを食べるのをとても楽しみにしていた事を。料理当番のシリオにそれを自分の皿に入れるよう何度も言っていた事を。
だからソーマは笑った。そうして椅子の上で小さく頭を下げる。
「うふふ、ソーマちゃん。そういう時はありがとうって言うのよ。ありがとう、ね?」
横で見ていたシリオがソーマにそっと教えた。ソーマは目に涙を溜めながら、それでも精一杯笑顔を作って頷くと、改めてキリの方を向いて言った。
「…あいがとう。キリ。」
「な、なに勘違いしてんだよ!おれはただお前に泣かれっとメシがまずくなるから…」
そう言って顔を赤くするキリを見て、今度はいくらか自然な笑顔がソーマからこぼれた。
「…まったく。ほんっとに素直じゃないガキよねぇ。」
そう独り言ちるシリオの言葉は、どうやらキリの耳には届かなかったようだ。