五話A「異界の迷子」
今回は主人公視点の話になります。
自分はどうなったのだろう、と月子は考えた。小川で溺れたところまでは覚えている。ここは何処だろう、月子の見慣れた天井では無かった。薄暗い天井をぼんやりとした光源が照らしている。
周囲の様子をもっとよく見ようと体を起こそうとするが、なぜか体が重くて起き上がる事ができない。月子は体の上に被さっていたなにかを撥ね退ける。幾重にも重なった古い毛布だった。いつのまにか着ていた、月子の物では無いぶかぶかの白い肌着と寝間着が、汗を吸ってじっとりと湿っている。
何か騒がしいと思って、月子は焦点の合わない瞳で辺りを見渡した。薄明かりに照らされた狭いテントの中、にぎやかな色彩が月子の周囲を囲んでいる。月子はそれがなんだか分からなくて、眠たい眼をこすりもう一度よく見てみる。
色彩の正体は月子の見慣れない人たちだった。一、二、三、四、五、六、七。見たことの無い色とりどりの髪の人々が、楽しそうな、嬉しそうな目で月子を見ている。彼らは月子に分からない言葉で、口々に何事か話しかけて来ているようだ。
ここは外国なのかな、と月子は思った。川に溺れて外国まで流されてしまったのかも知れない、とも。
月子の目の前で緑色が跳ねている。一番近くでまじまじと月子を見つめている年上の男の子のつんつんした髪の毛だった。それはいつも駆け回っている家の近くの原っぱを月子に思い出させる。
月子は綺麗なそれに思わず手を伸ばし小さな掌でぽんと触った。途端に男の子は真っ赤な顔をしてはじかれたように飛びのく。思ったとおり、春の草原みたいに暖かくて気持ちよかったのに、それが遠くへ行ってしまって月子は残念だった。
男の子の後ろにも色んな顔が見える。男の子の様子をにやにや見つめている橙色の髪のそっくりな男の人が二人、快活な笑い声をあげているのは赤い髪の女の人だ。それをおろおろと見守っているのは水色の髪の女性と金髪の青年。柔らかそうな栗色の髪の女の子は優しげな笑顔で月子を見つめていた。
「――――。――――。」
栗毛の女の子が月子に分からない言葉で話しかけ、優しく手を取って寝台から起き上がらせる。テントの床、剥き出しの地面の上には古ぼけた絨毯が敷かれており、荒い毛足が月子の足を擽る。その感触に月子はお気に入りのサンダルを履いていない事に気づいた。月子は考える。着ていたワンピースと一緒にこの人たちが預かってくれていないだろうか。外国の人だから通じないかも知れないが、どうしても気になった月子は意を決して聞いてみることにした。
「えと、わたしのワンピースとサンダルしってますか?」
「――――?…――――。」
やっぱりこの人たちは日本語が分からないらしい。どうにかして伝えようと、月子は自分の足を指差してもう一度声を上げる。
「わたしのはいてたやつです。しりませんか?」
周囲の人々は月子の言葉の意味を必死に考えているようで、顔を突き合わせて分からない言葉で話し合っている。
しばらくして、金髪の青年が何事かを宣言するとテントから飛び出して行った。もしかしたら分かって貰えたのかも知れない。青年はすぐに戻ってきた。上気した顔で嬉しそうに、手に携えた何かを月子へ差し出す。
受け取ったそれは、茶色い革で出来た確りした作りのブーツだった。それも月子の足より大分大きい。やはり通じなかったのだと分かり、月子はちょっとがっかりした。それでもせっかく持ってきて貰ったのだからと思い、ぶかぶかのそれに足を突っ込む。夏にしては肌寒かったので、短い動物の毛で裏打ちされたそれは暖かかった。人から何かして貰ったらお礼する事。母の言葉に従い月子はぺこりとお辞儀をする。
不意に月子のお腹がきゅう、と可愛らしい音を立てて鳴った。朝ごはんを食べてきたばかりの筈だが、月子はどれほど川に流されていたのだろうか。外国に来てしまう位だから相当長い間流されていたのだろう、と月子は納得した。
そんな月子の様子を見て、周りの人々が笑い声を上げる。学校で先生に叱られている月子を見るときの同級生達のような、意地悪な笑い声では無い。月子を可愛がり、慈しむような声だった。それでも恥ずかしくって、月子はお腹を押さえてちょっと赤くなった顔をうつむける。
「―――――。――!…―――。」
栗毛の少女が再び月子の手を取る。何事か月子に告げた後、奥の方に引っ込んでいた緑髪の少年に声を掛けた。そして月子の手を引いて優しく少年の前へと促す。男の子は、赤い顔をそっぽに向けて、手だけをぶっきらぼうに月子の前に差し出した。どうやら掴め、ということらしい。
知らない人にはついていっちゃダメよ、という母親の言葉が月子の脳裏に浮かぶ。ちっとも落ち着きのない月子を心配してか、あまり煩く言わない彼女の母が、それだけは口を酸っぱくして言っていた。でも、迷子になったら周りの優しそうな人に頼りなさいとも言っていた気がする。
うーん、と月子が思考の袋小路に嵌まっていると、焦れた少年が差し出した手を更に月子のほうに伸ばした。少年はちょっといじわるそうだけど、その草色の髪は暖かで優しい感じがする、と月子は思う。だから大丈夫なのだと頭の中の母と決着を付けて、月子は差し出された少年の手を握った。ぎゅっ、と握ったそれはやはりお日様のようにぽかぽかで気持ちよかった。
ぐい、とちょっと乱暴に少年が月子の手を引いた。少年がテントの入り口を指で示す。彼は月子を外に連れ出すつもりのようだ。少年に手を引かれ、月子はとことこと狭いテントを横切って行く。
少年が持ち上げてくれたテントの入り口を潜り抜け、月子は外に一歩足を踏み出した。さあっと穏やかな風が吹いて、優しく月子の頬を撫でる。草と水の爽やかな匂いを月子は感じた。同時に、焼けたお肉の香ばしい香りも。刺激されて月子のお腹が再び鳴き声を上げる。
少し離れた場所に、ゆらゆらと揺れる火の明かりとそれを囲む人々が見える。そこに少年が声を掛け、彼らの注目を集めた。人々はたちまち歓声を上げて、月子たちの方へ歩み寄って来る。彼らもテント内に居た人々に負けず劣らず、それぞれ個性的な髪色をしている。黒一色に慣れた月子からすると、とてもにぎやかだ。外見もまた同様に個性的で、老若男女様々である。中には化粧をした男の人も居て月子は驚いた。
「――――!――――…!」
集団から歩み出て月子に話しかけたのは赤褐色の髪をした大柄の男性だった。たてがみのような髪が下のほうで同じ色の顎鬚と繋がって顔の周りを囲っている。身長は月子の父親よりずっと大きい。見上げた顔が下から炎に照らされ、それが月子の目にはとても恐ろしく写る。昔話に出てくる赤鬼のようだ、と月子は思った。
思わず少年の後ろに隠れる月子。少年の影から恐る恐る赤鬼の様子を伺う。すると鬼は突然大笑し、月子を無理矢理引っ張り出してその頭をぐりぐり撫で回した。
「ひゃっ!」
食べられる、と月子は思わず身を硬くする。思わず目を瞑って数秒。鬼の牙が月子の首筋に突き立てられる、という事は無かった。月子がそろそろと目を開けると、鬼は間近にしゃがみこんで月子に笑いかけていた。その口から鋭い牙が飛び出ているという事はもちろん無く、思いの外優しそうなおじさんの顔がそこにはあった。
赤鬼あらためおじさんは月子に棒状の何かを手渡す。こんがりと焼けたお肉の刺さった鉄製の細い串だった。食べていいのだろうか、と月子が上目遣いで窺うとおじさんはにっと笑って首を縦に振った。お腹の空いていた月子はありがたくそれに噛り付く。もちろんおじさんにぺこんと頭を下げるのも忘れずに。
お肉は塩辛く筋張っていたが、噛むと口の中で肉汁がじわぁと広がり、空腹の月子にはとても美味しく感じられた。しばらく夢中になってそれを頬張っていた月子の肩を、急に傍らに居た少年がとんとんと叩いた。
[“キリ”!―――“キリ”!―――――?」
少年は自らを指差ししきりに同じ言葉を繰り返している。そして今度は先程のおじさんを指差し『ブラン』という言葉を。少年は周りにいた人全員を次々に指差し、同様に一つの言葉を繰り返していった。それが名前を呼んでいるのだ、と月子は気付いた。月子は少年の真似をして彼を指差して言う。
「“きり”。お兄ちゃんはキリっておなまえなの?」
月子の言葉に少年―キリは満足そうに頷いてみせる。そして彼は最後に月子を指差して、問いかけるような口調で月子に話しかける。名前を訊いているのだ。月子にはすぐにそれが分かった。
「月子。わたしは月子っていうんだよ。」
だから月子は自らを指差し、そう教えてあげた。
「…トゥキコー?――――。」
脇で見ていたお肉のおじさん―ブランと言うらしい、が怪訝そうな顔で呟く。
「ううん、ちがうよおじさん。つーきーこ。」
「トークゥイーコー?」
ダメだ、全然分かって貰えない、と月子は空を仰ぎ見る。その時月子の目に夜空に浮かぶ大きな丸い月が写った。それでふと月子にいいアイディアが浮かんでくる。月子はブランの指をぐいぐいと引っ張って、天に仰ぐ月を示した。
「ほら、おじさん。見て。月子は月の子どもっていみだよ。」
「―?―――――…。―――“ソーマ”!――――。」
促されて月を見上げたブランが納得したように大声で言った。
「“ソーマ”―――――“ソーマ”!」
彼は月子と夜空の月を交互に指で示しては同じ言葉を繰り返し言った。『ソーマ』という言葉を。何度も何度も、月子に言い聞かせるように。
「そー…ま?」
月子が自分を指差してそう呟くと、ブランはうんうんと頷いて嬉しそうに、にかっと笑った。多分彼らの言葉で『月』という意味なのだろう。ツキコとは大分響きが違うが、彼らにはそちらの方が言いやすいようだ。それなら。
「そーま、うん分かった。わたしはそーま、だね。」
意味が同じならあだ名のようなものだろう。そう思って月子は口の中でソーマ、ソーマと呟いてみる。何故だかそれは不思議と、すんなり月子の心の中に入ってきた。
月子は迷子である。川に流されて分からない事だらけのこの地に来てしまった。だから月子は親切そうなこの人々に頼ろうと思う。自分勝手かも知れないが、月子は家に帰りたかった。だから月子は家に帰れるまでは、この人たちの前ではソーマでいようと思った。そう思ったから月子は彼らに、出来るだけ丁寧に今日三度目のお辞儀をしてこう言った。
「ソーマです。よろしくおねがいします。」
月子、いやこの日ソーマと名づけられた少女。彼女はまだ知らなかった。流されてきたこの地が外国よりもずっと遠く隔てられた場所だという事を。彼女の求める我が家も、父も、母も、この世界には存在しないという事を。
三人称でこういう書き方はNGなのでしょうか。少し不安です。地の文が多くて読み難いですが、…ゆるして。
翻訳チート無しという縛りが仇になってるなぁ(ノД`)・゜・。
次回からは他の団員達の視点に戻ります。