序「月子という少女」
序章になります。多少きつい表現ありです。
「いってきまーす。」
今日も彼女、神代月子はそう母に告げて玄関のドアを開けた。
時計の針は七時を指している。登校にはまだ早いこの時間に家を出るのが彼女の常であった。そうして家から小学校まで15分の道程をたっぷり道草して、登校時刻ぎりぎりに学校に着くのがこの少女の一日の始まりである。もっとも昨日は道草が過ぎて朝のホームルームに遅刻してしまったのだが。せっかく近所の小川にカエルの卵が産み付けられているのを見つけたのだから夢中になっても仕方ない、というのが月子の言い分だった。新任の担当教諭からは大目玉である。
そもそも、と月子は思う。学校は退屈すぎるのだ。外にはいろいろと面白いものがあるのに学校で机に張り付いてお勉強、なんてもったいない。足し算や引き算よりも、カエルの卵のほうがよっぽど面白いのに。
しかし世間一般では、小学生にはおとなしく席に着いて先生のお話を聞くことが求められているらしい。それが出来ない月子は劣等生、というわけだ。そんな『できない子』である月子をなんとかしなければ!と担任は燃えているらしく家に電話が掛かってきたのも一度や二度ではない。
「…ガッコウ、いやだな。」
小石を足でドリブルしながらぽつりと呟いてみる。
クラスメイトは月子のことを先生に逆らうヘンな子という目で見ているし、元々あまりおしゃべりでは無い月子には小学校に入ってもう三ヶ月だというのに友達がいなかった。なので学校では先生の睨み付けるような視線を一人で耐えなければならない。
頭の中をぐるぐると嫌な気持ちが渦巻いている。月子はぶんぶんと頭を振ってそれを振り払った。
気を取り直して、今朝の目的はカエルの卵である。昨日は用意が無かったので持って帰れなかったが、今日はちゃんとプラスチック製の水槽を持ってきていた。嫌なことは忘れて意気揚々と、昨日卵をみつけた場所に向かう。
「わっ…、生まれてる。」
小川の中の流れの淀んだ場所。昨日カエルの卵を見つけたところを覗き込むと小さなオタマジャクシが群れをなしてちょろちょろと泳いでいた。月子は思わず瞳を輝かせる。
今日の獲物は変更。泳ぎ回っているので卵より難しいだろうが、沢山いるから川に入れば手でもすくえそうである。幸い今日はサンダルだからそのまま川に入れる。月子は川辺にランドセルを放り出して、オタマジャクシを驚かさないようにそっと水面に足を着けた。アスファルトで熱された足に冷たい川の水が心地良い。足の指でグーパーを作って川底のむにゅむにゅした感触をしばし楽しんでから、月子は標的に取り掛かった。
「うむ、たいりょう…」
小さな立方体の中、オタマジャクシの群れが少なくなった酸素を求めてうぞうぞと泳いでいる。都会の集合住宅もびっくりの超過密状態だ。うぞうぞとうごめく黒い水槽を覗き込んで一人恍惚の笑みを浮かべる幼女。月子である。端から見ると心配になる情景が出来上がっていた。んふふふふふ、と怪しい笑いを湛えつつ、戦利品をもっとよく見てやろうと水槽を光にかざすように高く持ち上げる。その時である。
「ひゃっ!」
―――川底の石に足を取られた。
空中に投げ出される水槽。
太陽。
青い空が見えて。
体が水面に強く叩きつけられるのを感じた。
衝撃で底に溜まっていた泥が舞い上げられる。
鼻孔に、驚いたままの形に開いた口にも容赦なく水が浸入してくる。
肺が、脳が空気を求めている。
巻き上げられた泥が煙幕となり月子の視界を阻んで、上下の感覚をも失わせている。
月子の足が着くほど、浅い川の筈なのに、もがいても、もがいても、川面に届かない。
―ふと、学校に行かなきゃ、と場違いなことを思い出した。
そういえば今何時だっけ、と思って。
「神代さん、あなたは落ち着きがなさすぎます。」と先生のお決まりの叱り文句が思い浮かんだ。
それからお父さんの月子を撫でる大きな手を。
最後に毎朝聞いているお母さんの「いってらっしゃい」を思い出して。
―――月子は最期の意識を、手放した。
川で溺れた児童の捜索は町を挙げて行われた。しかし程なくして2?下流で児童の履いていたサンダルの片方が見つかり、生存は絶望的と判断された。警察と消防による捜索が打ち切られた後も、しばらくは下流の町の駅前でチラシを配る両親の姿が見られたが、一年経ち、二年が過ぎた頃にはそれも無くなった。
享年七歳。
それが神代月子についての、この世界での最後の記録である。