無秩序2
(2)
後藤凛は三十二歳になっていた。四年前に結婚し二人の息子がいた。最初彼女は「あの事件の事は思い出したくない。」と怪訝な表情を浮かべていたが、事の事情を清原が話すと一転、協力的な態度を示しリビングのソファーへと清原と篠原を案内した。
「あなたはマサオの顔を見ていますね。」清原は十五年前に後藤凛に尋ねた事をもう一度言った。
答えは当時とは別の返答だった。
「・・・はい・・・。」
清原は分かっていたとばかりに頷いて言った。
「何故、当時は知らないと?」
「言ってはいけないような気がしたんです。」
「何故?」
「警察に彼の情報を言う事が(裏切り)のような気がしたから。」
「当時も言いましたが、(彼は犯人と何らかの関係がある可能性がある重要参考人)そう言いましたよね。」
「えぇ、でも彼は悪い人ではない。少なくとも人が殺せるような人ではない。」
清原は態がましく嫌味な態度で言った。
「何故そんな事が言えるんですか?よくある話ですが(あんないい人がまさか)と言われる人が時として凶悪犯である場合がある。まだ高校生だから分かりませんでしたか?」
後藤凛は清原の嫌味な態度に怪訝な表情で言った。
「そんな事は当時の私も分かってましたよ。でも本当にあの時は彼が悪い人だとは思わなかった。今でもそう思います。」
清原の隣でイライラした表情で黙っていた篠原が口を挟んだ。
「彼について何か思い出す事はありますか?」
「何しろ十五年前なので何とも言えませんが・・・歳は当時の私と同い年だと、彼自身が言っていました。あと・・・右頬に目立つホクロがありました。」
「ホクロ・・・では、彼と歳が同い年だとおっしゃいましたが、他に彼と会話しましたか?思い出す範囲でいいので当時の状況を話して下さい。」
後藤凛は深く頷き、当時の状況を話し始めた。
一九九三年三月、後藤凛はアルコール中毒の父親の暴力から逃れる為、市内にある商店街の路地裏をウロウロと歩いていたところを狩本に拉致された。市内にあるひと気のない雑木林で後藤凛は両手を縄で縛られ、首を絞められて今まさに命の糸が切れようとしていた。
そこにマサオが現れた。殺されそうになっていた後藤凛を助ける為、マサオは狩本の腹に蹴りを入れた。狩本は吹っ飛んだが身をよじらせ致命傷を何とか避け、懐に隠し持っていたアーミーナイフを右手に持ちマサオに向かって構えた。
それに気づいたマサオは狩本がナイフを掴んでいる右側の手首を左手でしっかり掴んだ。次に間髪いれずに狩本の髪の毛を鷲掴みにし、瞳の奥底を見るような鋭い眼つきをしてじっと狩本を見た。
狩本の体は硬直したように微動だにしなかった。マサオはジッと狩本の瞳を見たまま「もう止めろ。欲望を抑えろ。」と呟いた。
次の瞬間、狩本はブルブルと震えながら放尿し、奇声を発しながら森林の奥へと走り去った。
マサオは何も言わずそのままその場を去ろうとした。それを見た後藤凛は声を震わせながら「待って・・・」と言った。マサオはさっきとはうって変わって、優しい目で後藤凛の横に座った。安堵感から後藤凛はマサオの懐にしがみつき、口を噤みながら泣きじゃくった。
マサオは木々の間から見え隠れする星空を眺めながら言った。
「実は俺は今日で丁度十七歳になるんだ。」
後藤凛は突然の言葉にマサオの顔を見て言った。
「だから・・・?」
マサオは何故かこんな時に苦笑いを浮かべながら言った。
「だからだな。誕生日プレゼントはいらないからもう泣くな。」
後藤凛は涙を流しながら微笑んだ。
マサオはそれを見て一瞬微笑んだ。
「・・・それ以上彼とは会話を交わす事はなかった。ただ黙って警察が近くに来るまでの数分間ジッと一緒にいてくれた。これが十五年前、私があなた達に話さなかった全てよ。」と後藤凛は真っ直ぐに篠原を見て言った。
篠原は内ポケットの録音機で後藤凛の声を録音しながら情報をメモしつつ言った。
「他に気づいた事はありませんか?例えば、会話中の彼の癖とかありませんでしたか?」
「癖・・・癖は分かりませんでしたが彼・・・手を震わせていました。」
それ以上は後藤凛からマサオについて大した情報は得られなかった。
(3)
かつて{キング}と呼ばれていた男は、さざ波の音を耳に、艶のない白髪をかきあげながら、過去の過ちを思い出していた。
一九五〇年8月、反田正義は父がサラリーマンで母は専業主婦という一般的な中流家庭の次男として誕生。暮らしは決して裕福ではなかったが教育熱心な家庭であった。
正義十一歳の時事件は起こる。
{反田甘地十四歳、連続殺人事件の犯人と判明。}
正義の人生がくるい始めた瞬間だった。
兄甘地が警察に連行される姿を見て、父は発狂しながら叫んだ。
「まさか甘地が!何てことだ!」
母は泣き崩れていた。
しかし、本当の地獄は始まったばかりだった。世間は凶悪殺人を犯した家族も許さなかった。マスコミは必要以上につきまとい、どこへ引っ越しても{殺人者の遺伝子を持った反田一家}として社会から爪弾きにされた。その結果、父は首を吊って自殺。母は精神が破綻し、病院で薬漬けになったあげく息をしなくなった。十五歳になっていた正義は母の姿を見て呟いた。
「みんな殺してやる。」
一九八六年六月深夜一時、薄暗いある大学病院の研究所で、電子顕微鏡を覗きながら遺伝子研究に没頭している短髪の男は、反田正義三十六歳。
正義は三千人目の症例を目の前にして、口元を緩ませながら「こいつもだ。やはり一〇〇パーセントの確率だ。」と呟くと、ゆっくりと立ち上がり大学病院をあとした。
(キル遺伝子は証明された。後は環境因子だ。もうここにようはない・・・・)
正義は次の日に大学病院に辞表を出し、空気のように仕事場を去った。
その一年後の一九八七年、正義の危険な実験が開始されようとされていた。
正義の発見した理論では人が人の命を奪う遺伝子は、四つのどれかの環境因子によって発動させる事ができる。
その因子とは第一に神からの命令に基づいてキル遺伝子を発動させる者。第二に快楽を求めてキル遺伝子を発動させる者。第三に追い詰められてキル遺伝子が発動する者。第四に自分の意志・価値観に基づいてキル遺伝子を発動させる者だった。
正義は一年間かけて児童施設を開設し、キル遺伝子を持つ選ばれた孤児のみを集め、表向きは慈善家として活動していた。
被験者の十歳になる狩本英夫は純粋で、自分が認めた人間の言葉なら用意に信用した。
正義は純粋で単純明快な狩本英夫を、第一の因子で発動すると考えた。
正義は簡単な遺伝子学を狩本に教育しながら毎日数時間、あるスローガンを生きた言葉として何度も繰り返し脳に刷り込んだ。
そのスローガンとは{①一番憎むべき悪は欲望②悪遺伝子の抹殺③遺伝子のエキスパートの正義は神である。}という三つの事柄だった。
正義は数年間それを続けた。
そして・・・一九九三年二月、正義は児童施設出身の者や孤児達から{キング}と呼ばれるようになっていた。
キングは狩本に言った。
「欲望を抹殺しろ。欲望は悪だ。」
キングの言葉が切っ掛けとなり、狩本のキル遺伝子が発動し連続殺人へ導いた。
前田正夫も児童施設の孤児の一人だった。
正夫の父親は働きもせず酒を飲んでは正夫を毎日のように殴っていた。正夫の母親は正夫を置いて家を出ていたので、彼を庇うものは誰もおらず、父のストレスのはけぐちとして人形のように扱われ、愛される事を知らずに育った。
キル遺伝子を持ち愛される事を知らずに育った前田正夫は、打って付けの被験者であった。あとはキル遺伝子を発動させる環境因子の決定であったが、正夫のある一言で決定した。
ある時、正夫は学校で一方的に同級生を殴ったと担任の先生から連絡があった。問いただすと正夫はこう答えた。
「人を殴るとどうなるか知りたかった。クラスで一番の友達の直樹なら殴っても許してくれるだろうと思った。」
正義はこの正夫の答えに興味をもち「殴ってどうなった?」と尋ねた。
正夫は子供であったが人を見透かすような鋭い瞳でこう答えた。
「直樹の鼻血が手に付いた。意味も無く殴っても何の意味もない事が分かった。だからもう二度としない。」
ここに正夫なりの意志と理由が感じられた。正義は正夫を第四の環境因子{自分の意志・価値観}でキル遺伝子を発動すると予想し実験を開始した。
探究心と冒険心が強い正夫は正義と議論を交わしながら毎日成長していった。ある日、正夫は正義にこんな質問を投げかけてきた。
「キング、自由っていったい何だ?」
「難しい質問だな。お前は何と思う?」
「人は自由・自由と叫ぶけど、そこにはいつも秩序がある。本当に自由なら犯罪も何もかもが許される。人が求める自由って何なんだ?」
「そうだな、お前の言うとおりだ。もし本当に人が自由になったら何もかもが許され、人はサバンナの動物達のように弱肉強食のピラミッドの一つになってしまうだろう。自由を求める人もそれは望まないはずだ。では何故人は自由を求めるのか?それは古より遺伝子に受け継がれてきた人の本能なんだ。あらゆる物質は秩序あるものから無秩序なものへと移動する傾向にある。例えば濃度の濃い塩水を真水と混ぜると、濃い塩水は真水に浸潤し中和されてしまう。でも人は動物や物質じゃない人間だ。人は秩序があるからこそ人間なんだ。」
「じゃあ人は人間なのになぜ自由を求める?。」
「それは人の弱さだ。弱い人は自由と称し無秩序へ流れようとする。無秩序へ流れた人は秩序ある人間を惑わす。」
「じゃぁ、無秩序へ流れた人はどうなる?」
「その答えは難しいが・・あるいは・・・秩序ある人間が裁かなければならない場合もある。」
さざ波が孤独な音を広げた。かつてキングと呼ばれた男は、あの時正夫にそう言いながら十五歳の時、息をしなくなった母の前で呟いたあの怒りを思い出していた自分に目を細めた。




