財閥の令嬢という身分を隠してクズ男の極貧生活に8年間も付き合ったら、結婚式当日にあいつが義妹と結婚する招待状を配りやがった件
導入
午前三時、篠原蒼真は飲み会の個室で結婚式の招待状を配っていた。
その場にいたのは、蒼真がこの数年で東京のテック業界で知り合った人たちばかりだった。酔いの回った誰かが、彼が私の前に招待状を差し出すのを見て、すぐに笑いながら茶化した。
「え、花嫁本人にも招待状? お前ら、そういう遊び方するんだ」
けれど次の瞬間、皆が招待状を開き、そこに印刷された新郎新婦の写真を見た途端、笑い声はぴたりと止まった。
写真の中の花嫁は、私ではなかった。
蒼真が昔から「妹のような存在」と呼んでいた女、佐伯莉央だった。
私は少しも驚かなかった。ただバッグから祝儀袋を取り出し、彼の前にそっと置いた。
「式には出ないわ。二百五十円だけど、私からの祝福だと思って」
祝福、という言葉だけを、私はわざとゆっくり口にした。周囲の人たちは顔を見合わせ、個室には店のBGMだけが残った。私は蒼真を一瞥することもなく、扉を押して外へ出た。
すぐに彼から電話がかかってきた。
「美月、変な誤解をするなよ。俺が莉央と婚姻届を出したのは、芽衣を港区の名門小学校に入れるためなんだ」
「芽衣の入学資格が落ち着いたら、すぐ莉央とは離婚する。そのあと、ちゃんとお前と籍を入れるから」
あまりにも軽い声だった。まるで、どうでもいい世間話でもしているようだった。
私は深夜の銀座の通りに立ち、電話の向こうから聞こえるその声を聞いていた。胸の中は、驚くほど静かだった。
三時間前、私は港区役所を出たばかりだった。
蒼真と正式に婚姻届を出すために、半年かけて書類を準備していた。けれど窓口の職員が記録を確認したあと、彼は三年前にすでに別の女性と婚姻届を提出していると教えてくれた。戸籍上の配偶者として記載されていた名前は、佐伯莉央。
私が持っていた、いわゆる「婚姻届受理証明書」は偽物だった。
私は電話口で問い詰めることも、泣き叫ぶこともしなかった。ただ静かに言った。
「もういい。他人のお下がりなんて、気持ち悪くて無理」
電話を切ったあと、私はすぐに顧問弁護士へ連絡した。
「神宮寺ホールディングスに伝えて。篠原蒼真の全プロジェクトから、出資を引き上げて」
「それから、私名義の港区白金台のマンション。すぐに回収するわ」
1.私は彼を八年支えた
電話の向こうから、蒼真の苛立った声がすぐに返ってきた。
「美月、何をそんなに怒ってるんだよ」
「莉央は女手ひとつで子どもを連れて地方から東京に出てきたんだ。住む場所だってなかった。俺が兄代わりとして助けてやって、何が悪い?」
「それくらい受け入れる度量もないのか。正直、がっかりだよ」
続いて、莉央の甘く震えた声が聞こえた。
「蒼真さん、美月さんを責めないでください。私が悪いんです。明日、芽衣を連れて実家に帰りますから」
「莉央、泣くな。俺がいる。誰にも追い出させない」
蒼真は再び電話へ戻り、声をさらに冷たくした。
「神宮寺美月。今すぐ莉央に謝れ。そうしないなら、もうこの家には戻ってくるな」
私は電話を切った。
半年かけて準備した婚姻関係の書類の束を、道端のごみ箱へ放り込んだ。
この八年、私は親の決めた政略結婚を繰り返したくなくて、神宮寺ホールディングス唯一の後継者であることを隠してきた。蒼真と一緒に上京し、足立区の古い木造アパートに住み、コンビニの半額弁当で食いつなぎ、彼が研究開発で一番苦しい時期もそばにいた。
私は神宮寺家の資金と人脈を使い、彼に研究費を用意し、チームを組ませ、プロジェクトを通した。地方大学の研究室にいた無名の助手にすぎなかった彼を、東京のテック業界で注目される次世代電池材料の若手研究者にまで押し上げた。
それなのに彼は、私が用意した金で莉央を養っていた。
偽物の婚姻証明書まで使って、私を三年も騙していた。
私はタクシーを止め、港区白金台の高級マンションへ向かった。
そこは私が一括で購入した物件で、登記名義人も私のままだった。蒼真に余計な負担を感じさせないため、私はずっと「友人が安く貸してくれている部屋」だと説明していた。
ドアを開けた瞬間、莉央は私が買ったばかりのシルクのルームウェアを着て、ソファに寝そべりながら空輸で取り寄せた佐藤錦を食べていた。
その隣では、六歳の芽衣が、母の形見である絶版のオルゴールを床に叩きつけていた。
鈍い音がした。
オルゴールはばらばらに砕け、私は駆け寄って、その破片を芽衣の手から奪い取った。
芽衣はすぐに大声で泣き出した。
「意地悪なおばさん! ここはパパの家なんだから、出ていってよ!」
莉央は慌てたように芽衣を抱き寄せ、怯えた表情を作った。
2.戸籍上の妻
書斎の扉が勢いよく開いた。
蒼真は飛び出してくるなり、事情を聞こうともせず、私を床へ突き飛ばした。腰がローテーブルの角にぶつかり、鋭い痛みが背中まで走った。
彼は私を指差し、険しい顔で言った。
「もうすぐ三十になる大人が、六歳の子ども相手に何をしてるんだ」
「ただの古い箱だろ。そんなことで子どもに手を出すのか?」
私は床に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
「蒼真。それは私のものよ」
彼は鼻で笑った。
「お前のもの?」
「この家にあるもののうち、俺が稼いだ金で買ってないものがあるのか? 毎日ここで食わせてもらっているだけのお前に、偉そうなことを言う資格なんてない」
私は目の前のよく知っていたはずの顔を見つめた。
「三年前、彼女と婚姻届を出して、莉央と芽衣の住民票をここに移したのも、私があなたに食べさせてもらっていたから?」
蒼真の顔色が一瞬変わった。
けれどすぐに背筋を伸ばした。
「言っただろ。芽衣の入学のためだ」
「莉央はひとりで子どもを育ててる。俺たちが助けてやって何が悪い?」
莉央は彼の背後に隠れ、か細い声で言った。
「美月さん、ごめんなさい」
「怒る気持ちはわかります。でも今、戸籍上は私が蒼真さんの妻なんです」
「だからって、子どもに当たるのは違うと思います」
戸籍上の妻。
彼女はその言葉で、私の立場を踏みにじっているつもりなのだろう。
蒼真は莉央の肩を抱き寄せた。
「莉央、相手にしなくていい。こいつは俺が甘やかしすぎただけだ」
私は目の前の二人を見た。
心の中に残っていた最後の情まで、そこで完全に冷えた。
私は短く笑い、客室へ向かって扉を閉めた。
廊下の向こうから、蒼真の冷たい声が聞こえた。
「その程度かよ」
「そんなに強気なら、俺の家になんて住むな」
3.銀座の会席料理店
翌朝、蒼真は客室のドアを叩いた。
高そうなスーツに着替えた彼は、まるで恩を与える側のような口調だった。
「今日は莉央を連れて、銀座で会席を食べる」
「お前も来い。少しは関係を修復する努力をしろ」
私は彼の見下した顔を見つめ、断らなかった。
どこまで演じ続けられるのか、見てみたかった。
マンションを出て車に向かったとき、私が助手席のドアに手をかけるより早く、莉央はもうそこに座っていた。胸元に手を当て、弱々しい顔をする。
「美月さん、私、車に酔いやすくて。前に座らせてもらってもいいですか?」
「まさか、嫌だなんて言いませんよね?」
以前なら、私はきっと言い返していた。
けれどその日、私はそのままドアを閉め、後部座席に乗った。
蒼真はバックミラー越しに私を見て、満足そうに口元を緩めた。
「今日は少しはわかってるじゃないか」
銀座の高級会席料理店に着くと、彼は莉央の前で見栄を張るように、値段の高い料理ばかり選んだ。
「莉央、好きなものを頼め」
莉央は目を輝かせて彼を見上げた。
「蒼真さん、本当にすごいです」
蒼真は得意げに笑い、私が贈った特注の万年筆でサインをした。その場で、莉央のために数十万円の限定バッグまで予約した。
食事の途中、莉央は私の前にグラスを押し出した。
「美月さん、お水を注いでもらえますか?」
芽衣も続けて声を上げる。
「おばさん、ティッシュ取って」
蒼真は向かいに座ったまま止めなかった。
それが当然だとでも思っている顔だった。
私は箸を置き、席を立った。
蒼真がテーブルを強く叩いた。
「どこへ行くつもりだ」
「俺が帰っていいと言ったか?」
周囲の客が一斉にこちらを見る。
彼の声はさらに大きくなった。
「今日ここを出ていくなら、生活費のカードを止めるぞ」
「一円も持っていないお前が、今夜どこで寝るつもりだ?」
周囲から低いささやきが聞こえた。
「何あの人。気が強すぎない?」
「養ってもらってるくせに、あの態度はないよね」
蒼真はその声を聞き、さらに勝ち誇った顔をした。
「俺に甘やかされているからって、調子に乗るな」
「今日、莉央に謝るまで、この話は終わらない」
私は無表情のまま、彼から渡されていた副カードをバッグから取り出した。
そして彼の目の前で、二つに折った。
蒼真は固まった。
「お前、何をしてるんだ?」
私はエリアマネージャーを呼び、席番号を伝えた。
「会計をお願いします」
そう言って、私は振り返らずに店の出口へ向かった。
背後から、蒼真の怒鳴り声が追いかけてきた。
「美月! あとで泣いて戻ってきても知らないからな!」
4.それは私の家です
私は彼のカードなど使わなかった。
マネージャーは、私が差し出した神宮寺家のブラックカードを見た瞬間、表情を変えた。両手でカードを受け取り、確認を終えると、深々と頭を下げて私を見送った。
「神宮寺様、ありがとうございました」
私は迎えの車に乗り、白金台のマンションへ戻った。
扉を開けると、玄関には私の靴や衣類が黒いごみ袋に詰め込まれていた。莉央は家事代行スタッフに指示を出し、リビングを片づけさせている。
「壁の写真を外してください。蒼真さんと私の写真に替えます」
「寝室にある服も全部捨てて。見るだけで嫌な気分になるんです」
私は歩み寄り、床に置かれたごみ袋を蹴り倒した。
莉央はびくりと肩を震わせたが、私だとわかると、すぐに軽蔑するような表情に変わった。
「また戻ってきたんですか? 蒼真さんにカードを止められたんじゃなかったんですか?」
外から慌ただしい足音が近づいてきた。
蒼真が息を切らして駆け込んでくる。私が無事にリビングに立っているのを見るなり、その顔が曇った。
「さっきの何十万円の会計、どうやって払った?」
莉央は口元を押さえ、悪意を隠さない声で言った。
「さっきのマネージャー、美月さんを見る目が少し変でしたよね」
「もしかして、見栄を張るために何かしたんですか?」
蒼真の顔が一瞬で険しくなった。
「美月。お前、最低だな」
「俺に隠れてそんなことをしていたのか。見ているだけで汚らわしい」
私は冷たく笑った。
「その頭で、よくそんな発想ができますね」
私は床のごみ袋を指した。
「あなたたちの荷物を持って、この家から出ていって」
蒼真は大きな声で笑った。
「この家?」
「芽衣の入学手続きのために、このマンションはもう名義を移す書類を用意してある」
「今は莉央がここに住むことになっているんだ」
莉央はバッグから一枚の書類を取り出し、得意げにひらひらと振った。
「美月さん。これはあなたの署名入りの譲渡契約書です」
「ここには、このマンションを私が使うって、ちゃんと書いてあります」
私はその書類を見た。
署名も印影も、彼らが私の知らないところで偽造したものだった。だが、法務局の登記簿に記載されている登記名義人は、今も私のままだ。
蒼真は私を見下ろした。
「今のお前は、本当に見ていられない」
「別れるなら別れればいい。俺はお前ひとりに困る男じゃない」
私は六億円のこのマンションを見渡した。
内装も家具も、すべて私が選んだものだった。
私はスマートフォンを取り出し、弁護士へ連絡した。
「人を連れてきて」
「弁護士、登記資料、管理会社、解体業者。全部そろえて」
5.全部、解体してください
蒼真は私の電話を鼻で笑った。
「タクシー代もないくせに、今さらお嬢様ごっこか?」
「電話一本で俺を脅せると思ってるのか?」
二十分後、インターホンが鳴った。
管理会社の担当者、神宮寺家の弁護士団、警備スタッフ、そして解体業者が同時に玄関へ現れた。弁護士は登記資料をテーブルに置き、落ち着いた声で言った。
「このマンションの登記名義人は、今も神宮寺美月様です」
「篠原様がお持ちの譲渡契約書は、文書偽造の疑いがあります。その書面だけでは、所有権が移転したことにはなりません」
蒼真の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
莉央は芽衣を抱きしめ、目にわかりやすい動揺を浮かべた。
私はヒールの音を響かせながらリビングの中央へ進み、ソファの背に指を滑らせた。イタリアから取り寄せた、気に入っていたソファだった。
それでも今は、ただ汚れて見えた。
「触れてほしくない人たちに触れられた部屋です」
「全部、解体して。内装からやり直します」
解体業者はすぐに作業を始めた。
シャンデリアが外され、家具が運び出され、壁の写真や装飾が次々と撤去されていく。かつて温かかったはずの部屋は、機械音の中でみるみるうちに空っぽになっていった。
蒼真が駆け寄って止めようとする。
警備スタッフが彼の前に立ち、静かに制止した。
「合法的な作業の妨害はお控えください」
私は購入時の振込記録と内装契約書を彼の前に置いた。
「よく見て」
「私のものです。あなたたちに残すくらいなら、壊して作り直すわ」
蒼真は怒りに任せてスマートフォンを取り出した。
「警察を呼ぶ!」
「不法侵入だ! 脅迫だ! 俺の家を勝手に壊している!」
ほどなくして警察官が到着した。
彼らは散らかった室内と双方の資料を確認し、私に警察署で事情を説明してほしいと求めた。
警備スタッフが一歩前に出る。
私は片手を上げて、それを止めた。
「大丈夫です。協力します」
出ていく前に、私は蒼真を見た。
「私は何も困らない」
「でも、あなたの楽しい時間は終わりです」
6.彼は私が閉じ込められると思っていた
警察車両に乗る前、私は振り返って蒼真を見た。
彼の目には、まだ勝ち誇った色があった。
すぐに、私のスマートフォンへメッセージが届く。
【俺を怒らせた罰だ。警察署でたっぷり反省しろ】
警察署に着くと、神宮寺家の法務部長と弁護士団がすでに待機していた。彼らは登記資料、資金の流れを示す記録、偽造文書の初期鑑定書、そして私が事前に用意していた被害届を提出した。
警察が私の身元と資料を確認したあと、対応は目に見えて変わった。
「神宮寺様、先ほどは失礼いたしました」
「篠原蒼真氏については、文書偽造および虚偽申告の疑いで正式に捜査を進めます」
警察署を出ると、秘書がタブレットを差し出した。
「お嬢様。篠原様がネット上で美月様を中傷しています」
画面には、蒼真が投稿した長文が表示されていた。
解体されたマンション、泣いている莉央、部屋の隅に隠れる芽衣の写真まで添えられている。文章は、まるで被害者のような書きぶりだった。
【強欲な元婚約者が精神的に不安定になり、俺たちの新居を破壊しました】
【俺はただ、行き場のない妹分と子どもを守りたかっただけです】
世論はすぐに燃え上がった。
蒼真は、私が作り上げた“努力家の若手研究者”というイメージを利用し、多くの同情を集めていた。コメント欄には、私への罵倒が並んでいる。
【こういう女は逮捕されるべき】
【篠原さんがかわいそうすぎる】
【この女の素性を晒して、社会的に終わらせろ】
秘書は険しい顔で画面を見つめた。
「広報部に、すぐ声明を出させますか?」
私はタブレットを返した。
「まだいいわ」
「もっと高く登らせて」
「高いところから落ちたほうが、よく砕けるでしょう」
7.彼のカードは使えなくなった
一方その頃、蒼真は莉央を連れて麻布台の新築高級マンションを見に行っていた。
彼女を安心させるためなのか、彼はモデルルームで一番広い部屋を指差し、勢いよく言った。
「この部屋、申込金を払う」
営業担当者の目が輝いた。
カードを切るとき、蒼真が使ったのは、私が昔発行していた副カードだった。彼はずっと、それを神宮寺ホールディングスが自分の才能を評価して与えたプロジェクト資金だと思い込んでいた。
莉央は感激したように目を潤ませた。
「蒼真さん、やっぱりすごいです」
芽衣は隣で手を叩いた。
「パパ、すごい! 大きなおうちに住めるんだね!」
蒼真の虚栄心は、そこで十分すぎるほど満たされた。
その夜、彼は六本木の会員制クラブを貸し切り、業界の知人たちを呼んだ。“おかしな元婚約者”から解放された祝いと、新しい部屋へ移る祝いを兼ねていた。
私はオフィスで、秘書が送ってきた利用履歴を見ていた。
「彼の資金権限を全部切って」
クラブの個室は、最高潮に盛り上がっていた。
莉央はすっかり富裕層の妻になったつもりで、指には大きなダイヤの指輪をはめ、数万円の酒を何本も注文し、周囲の女性たちに買ったばかりのアクセサリーを見せびらかしていた。
「今日は蒼真さんのおごりです。皆さん、好きなだけ飲んでください」
知人たちは次々にグラスを掲げた。
「篠原さん、さすがだな。あんな女、早く切って正解だよ」
「莉央さんみたいな人のほうが、篠原さんには合ってる」
蒼真はソファに身を沈め、赤らんだ顔で笑った。
「俺がここまで来られたのは、全部自分の実力だ」
深夜、会計の時間になった。
スタッフが伝票を持ってくる。
「篠原様、本日のご利用は百二十万円でございます」
蒼真は黒い副カードを無造作に差し出した。
「それで」
端末から、甲高いエラー音が鳴った。
【取引不可】
個室の笑い声が止まる。
蒼真は顔をこわばらせ、二枚目、三枚目のカードを出した。
結果は同じだった。
【利用権限が停止されています】
マネージャーが様子を見に来る。端末の表示を確認した彼の声は、明らかに冷たくなった。
「篠原様。こちらのカードは、すべて主契約者様によって利用権限が停止されております」
「また、非契約者による継続利用の疑いがあるため、不正利用として照会が入っております」
蒼真は汗を浮かべ、その場で銀行へ電話をかけた。
スピーカーから、事務的なオペレーターの声が流れる。
「申し訳ございません。主契約者様より、副カードの利用停止のお申し出を受けております」
「関連する異常利用については、現在、確認手続きに入っております」
彼は完全に固まった。
「主契約者って何だよ。これは俺のカードだろ!」
周囲の人々は顔を見合わせ、やがて低い笑い声が広がった。
「結局、篠原さんが使ってた金って、他人の金だったのか」
「よくあれだけ大きな顔ができたな」
クラブの警備スタッフが個室の入口を塞いだ。
マネージャーは、その場で会計を済ませるよう求めた。
「篠原様。お支払いが確認できるまで、皆様にお帰りいただくことはできません」
追い詰められた蒼真は、莉央を見た。
「莉央……そのバッグとアクセサリー、いったん預けてくれ」
莉央は真っ青になり、バッグを胸に抱え込んだ。
「嫌です。これは私のものです」
しかし周囲の冷たい視線の中、彼女は結局、アクセサリーを外すしかなかった。
二人はみじめな姿でクラブを出された。
東京の深夜の風は冷たかった。
蒼真はそこで初めて、私の金がなければ一度の会計すら払えないことを知った。
8.神宮寺家の真実
翌朝、蒼真は莉央を連れてビジネスホテルへ逃げ込んだ。
昨夜の屈辱で、莉央は完全に取り乱していた。狭い部屋の中で、甲高い声を上げる。
「お金があるって言ったじゃない!」
「あなたのお金はどこにあるの?」
蒼真はネクタイを乱暴に緩め、血走った目で言った。
「黙れ。今日は会社に行って財務に確認する。システムのミスに決まってる」
そのとき、チャイムが鳴った。
神宮寺ホールディングスの顧問弁護士が、資産調査チームを連れてドアの前に立っていた。弁護士は分厚い明細をテーブルに置いた。
「篠原様。過去八年間、あなたがお住まいだったマンション、利用されていた車、研究設備、プロジェクトのPR費、そして昨日の麻布台マンションの申込金」
「そのすべてが、神宮寺美月様の個人専用口座から支払われています」
蒼真は雷に打たれたように、ベッドの端へ崩れ落ちた。
「ありえない」
「美月みたいな貧乏人に、そんな金があるわけない」
「あれは神宮寺ホールディングスが、俺の才能を見込んで出資した金だろ」
弁護士は眼鏡を押し上げた。
「神宮寺美月様は、神宮寺ホールディングス唯一の後継者です」
「あなたに才能がまったくなかったとは申しません」
「ですが、美月様の資金、研究環境、人脈、チーム支援がなければ、今の地位に届くことはありませんでした」
蒼真は直属の上司へ何度も電話をかけた。
ようやくつながった相手は、開口一番、彼を怒鳴りつけた。
「篠原、お前はいったい誰を怒らせたんだ?」
「グループから正式通知が来た。お前との共同プロジェクトはすべて停止だ」
「お前は職務を解かれた。関連資金も全部、監査に入る」
電話は一方的に切られた。
続けて、麻布台のデベロッパーからも連絡が入った。申込資格は取り消され、支払った金も調査対象になるという。
莉央はそれを聞き、床へ座り込んだ。
彼女はようやく理解したのだろう。
この八年、蒼真は自分の力で上がってきたわけではなかった。
彼は、私から吸い上げていただけだった。
そして今、私はその流れを止めた。
二人には、何も残っていなかった。
9.底辺の部屋
行き場を失った蒼真は、莉央と芽衣を連れて、足立区の古い木造ワンルームに移った。
部屋は狭く、湿気を帯び、隅には黴の匂いがこもっていた。電車が近くを通るたびに、窓ガラスが小さく震える。港区の高級マンションに慣れた莉央は、入った途端に取り乱した。
「こんなところ、嫌」
「白金台に戻りたい。広い部屋に戻りたい!」
翌朝、蒼真のスマートフォンには債権回収の連絡が鳴り続けた。
神宮寺の法務部は正式に訴訟を起こし、虚偽プロジェクト、副カードの不正利用、偽造資料によって彼が費消した巨額の資産の返還を求めた。
蒼真は追い詰められ、矛先をすべて莉央へ向けた。
「この数年で買った高級品も、君の弟に渡した金も、婚姻届や住民票の書類も」
「全部、君が言い出したんだろ?」
「この金は、君にも半分返してもらう」
莉央の顔色が変わった。
「最低」
「私はあなたの戸籍上の妻よ。男が女にお金を使うのは当然でしょう?」
「お金がなくなった途端、私にも借金を背負わせるつもり? 冗談じゃないわ」
彼女は荷物をまとめ、芽衣を連れて出ていこうとした。
蒼真はその手首をつかみ、かすれた声で言った。
「出ていくなら、好きにしろ」
「明日、区役所と警察に行く。君と芽衣が虚偽の書類で取得した入学資格を全部取り消してもらう」
莉央は急所を踏まれたように顔を歪め、彼の腕に噛みついた。
「芽衣の入学資格に手を出したら、許さない!」
二人は狭い部屋の中でもみ合いになった。
芽衣は隣で泣き叫び、以前私に向かって怒鳴っていたときの強気な姿はどこにもなかった。
蒼真の顔には、いくつもの引っかき傷が残った。
彼は床に座り込み、荒い息を吐きながら、ようやく自分が何を失ったのかを理解し始めた。
彼はずっと、私をただの苦労を共にした普通の女だと思っていた。
けれど私が彼に与えていたものは、彼が一生かけても手に入れられない階層と資源と未来だった。
彼は最後の夢にすがった。
神宮寺ホールディングスが翌日、東京国際フォーラムで次世代エネルギー発表会を開くと聞きつけたのだ。
人前で土下座し、八年間の思い出を持ち出せば、私は情にほだされる。
彼はまだ、そんなことを考えていた。
10.発表会での公開処刑
東京国際フォーラム。
神宮寺ホールディングス主催の次世代エネルギー発表会は、盛大に行われていた。
会場には業界の大物が集まり、報道陣のカメラが並んでいる。蒼真は過去の人脈を頼って外側のエリアに紛れ込み、しわだらけのスーツで立っていた。
彼はまだ、私がただ怒っているだけだと思っていた。
謝れば許される。
旧情に訴えれば、私は揺らぐ。
会場の照明が落ちた。
司会者の声が響く。
「神宮寺ホールディングス唯一の後継者であり、本一千億円プロジェクトの責任者、神宮寺美月様にご登壇いただきます」
スポットライトが降りた。
二列の警備スタッフが静かに立つ。
私は黒いオーダースーツを着て、光の中へ歩み出た。会場には大きな拍手が起こり、各テック企業の代表者たちが次々に立ち上がって敬意を示した。
蒼真は人混みの端で、スクリーンを見上げたまま目を見開いていた。
彼が、毎日台所で料理を作り、自分に養われていると思い込んでいた女は、今、東京のテック業界の中心に立っていた。
彼はついに我を忘れ、レッドカーペットの脇へ駆け出した。
「美月! 俺だ、蒼真だ!」
「悪かった。お願いだ、もう一度だけ俺を見てくれ!」
会場がざわめいた。
警備スタッフがすぐに駆け寄り、彼を床へ押さえつけた。
その顔は冷たい床に押し当てられ、惨めな敗者そのものだった。
私は足を止め、見下ろした。
心は一切揺れなかった。
私は秘書からマイクを受け取った。
「皆様は、神宮寺の法務部を動かした人物が誰なのか、気になっていたのではありませんか」
「ちょうど本人が来てくれました」
スクリーンのプロジェクト資料が切り替わった。
そこに映し出されたのは、篠原蒼真が婚姻関連書類を偽造し、佐伯莉央と芽衣の住民票を私名義のマンションに移した証拠だった。
さらに、プロジェクト資金の流用、副カードの不正利用、偽造された委任書類、すべての資金記録が並ぶ。
報道陣のフラッシュが一斉に光った。
蒼真が何年もかけて築いた“努力家で誠実な若手研究者”という仮面は、全国配信の画面の中で引き剥がされた。
私の声は会場の隅々まで届いた。
「八年間、神宮寺ホールディングスは、私個人の名義で篠原氏のプロジェクトへ資金を提供してきました」
「彼は契約上の成果を満たさなかっただけでなく、その資源を戸籍上の妻とその子どものために流用していました」
蒼真は必死にもがいた。
「違う、美月! 莉央にそそのかされたんだ!」
「お前が身分を隠して俺を試したんだろ。最初から神宮寺の後継者だと知っていたら、俺は裏切らなかった!」
私は笑った。
「つまり、私が資産を明かさなければ、搾り取れるだけ搾り取っていいと思ったの?」
「蒼真。あなたは誘惑されたんじゃない」
「最初から、そういう人間だっただけ」
私は会場の報道陣へ向き直った。
「神宮寺ホールディングスは、本日付で篠原蒼真氏および関連プロジェクトとの一切の取引を停止します」
「また、全取引先へ正式なリスク情報を共有いたします。今後、同氏と取引を継続される企業については、当グループとの関係を再評価いたします」
11.彼はようやく自分が道具だったと知った
警察官が会場に入ってきた。
彼らは書類を提示し、蒼真に同行を求めた。
「篠原蒼真さん。詐欺、私文書偽造、公正証書原本不実記載、ならびにプロジェクト資金の横領について、お話を伺います」
「ご同行をお願いします」
手錠が彼の手首にかかる。
彼はそこで完全に取り乱し、床を這うように私へ近づこうとした。
「美月、助けてくれ!」
「刑務所なんて嫌だ。俺は本当に反省してる!」
私は少し身をかがめ、彼にだけ聞こえる声で言った。
「最後に人へすがれる時間を、せいぜい味わいなさい」
「あなたが作った借りは、神宮寺の法務部が一つずつ数えます」
取調室で、蒼真は自分の責任を軽くするために、莉央のことを次々と話した。
しかし警察は、佐伯莉央もすでに別件で事情を聴かれていると告げた。
容疑は、恐喝だった。
蒼真が連れていかれた同じ日、莉央は芽衣のDNA鑑定書を持って、東京の不動産会社社長に養育費を要求しに行っていた。相手は事前に準備しており、彼女が何度も金を求めた録音と振込記録を提出していた。
警察は調査報告書を蒼真の前に置いた。
「芽衣さんは、あなたが思っていたようなかわいそうな子どもではありません」
「佐伯莉央さんは既婚男性との関係で出産し、その後も複数の男性を足がかりにしていました」
「あなたは、彼女が東京に入り込み、入学資格を得るために利用した道具です」
蒼真の表情から、完全に色が消えた。
この八年、彼は神宮寺家から搾り取りながら、自分は弱い妹分を救っているつもりでいた。
その結果、いちばん愚かだったのは自分だった。
莉央が取調室の前を通ったとき、彼女の足には包帯が巻かれていた。相手側ともみ合いになった際に転んだらしいが、その顔に後悔は少しもなかった。
蒼真はガラス越しに飛びつくようにして怒鳴った。
「お前が俺の人生を壊したんだ!」
莉央は唾を吐くように笑った。
「お金もないくせに、偉そうにしないでよ」
最後の自尊心まで砕かれた蒼真は、床に座り込んだ。
まるで中身を抜かれた空っぽの殻だった。
12.ゴミはゴミ箱へ戻るべきです
数か月後、東京地方裁判所で一審判決が下された。
篠原蒼真は、詐欺、プロジェクト資金の横領、文書偽造など複数の罪に問われ、実刑判決を受けた。あわせて、巨額の民事賠償も背負うことになった。
佐伯莉央については、虚偽の書類によって得た住民票上の住所扱いと、芽衣の入学資格が取り消された。さらに恐喝で起訴され、賠償責任も負った。
芽衣は退学することになった。
母娘は地方の実家へ戻り、親戚から冷たい目で見られながら暮らしているらしい。
蒼真は拘置所から何度も面会を申請してきた。
私は、一度も行かなかった。
二年後、私は正式に神宮寺ホールディングスの代表取締役に就任した。
ある一流の経済パーティーで、記者が遠慮がちに質問した。
「神宮寺社長は、八年をかけて一人の男性を支え、その後、裏切られたと伺っています。今でも後悔や未練はありますか?」
私はワイングラスを持ち上げ、静かに答えた。
「私はかつて、埃をかぶった石を見極めるために、八年も泥の中へ手を伸ばしていました」
「けれど、あの石に価値があったわけではありません」
「価値があったのは、私がもう一度立ち上がれたことです」
私はカメラを見た。
「ゴミは、ゴミ箱へ戻るべきです」
「後悔も未練もありません」
窓の外では、東京の夜景がきらめいていた。
神宮寺美月の時代は、まだ始まったばかりだった。
――完――




