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運命を紡ぐ

西日の差す喫茶店にて18-誕生-

作者: 蓮見庸
掲載日:2026/03/04

 今日もとても暖かくなった。

 通りを歩いていると、梅の花の香りがふわりと漂い、どこからにおってくるのかと空を見上げると、突然吹いてきた風に乗り白い花びらが次々と舞い上がっていく。

 そしてその集団からこぼれ落ちたひとひらが、わたしの肩にはらりと落ちてきた。

 陽の光はやさしく全身からだに降り注ぎ、春のコートすら脱ぎ捨ててしまいたいほどの暖かさを感じた。


 いつもの喫茶店は、そんな春の陽気に誘われたかのように、たくさんの客で埋め尽くされていた。

 コーヒーの香りが漂う店内はピアノの旋律と客のざわめきに包まれ、わたしはちょうど空いた窓際の席に座った。

 マスターは客の対応で忙しくしていたが、それでもすぐに注文を取りに来てくれた。

「ケーキセットをホットコーヒーでお願いします」

 マスターが口を開く前に伝えると、彼はにこりとほほえみながら、

「チーズケーキになりますがよろしいでしょうか?」

と聞いてきた。

 今日はちょうどチーズケーキの気分だったので「はい、お願いします」と返事をすると、彼は笑顔を崩さないまま軽く会釈をしてカウンターへと戻っていった。


 わたしはカバンから文庫本を取り出し、しおりのページを開いた。

 とある登山家たちの生涯を扱った物語で、多くの登山家と同じように彼らもまた山に消えていってしまう。

 本人たちが自身の人生を振り返ることがあれば、その生涯をどんなふうに思うのだろう。全力で挑んだ先にある死を肯定できるのだろうか。それともやはり悔いを残しているのだろうか。

 山頂を極められなかった彼らのことを、志半こころざしなかばと他人ひとは言うけれど、死のリスクすら背負った挑戦を安易にそう表現するのも違う気がした。


 店内を満たす言葉として意味をなさないノイズのようなざわめきは、頭に浮かんでくる雑念をかき消してくれ、わたしは吹雪が舞い荒い呼吸の音だけが聞こえる本の世界に没頭していたが、そのうちに隣の席にいた女たちの会話が耳に入り、ページをめくる手が止まった。

 若い姉妹のようだった。

「……それで、子供はどうするのよ」

「え? どうする……って?」

「いや、だから……いまのあんたに育てられるのかってことを聞いてるの」

 階段を駆け上がっていくようなピアノの旋律が聞こえ、少しの間を置いて妹が言った。

「……育てられなかったら、どうするの?」

 今度はしばらくの沈黙があった。

 わたしが本を読み進めようかと思ったころ、しびれを切らしたように妹がまた口を開いた。

「ねえ、どうするの……?」

「それは……」

「……ろせってこと?」

 わたしは思わず彼女の顔を見てしまった。ほんとうにまだ若い、学生と言われてもおかしくないくらいだった。

「そんなことは言ってないじゃない……」

「だってそういうことでしょ?」

「そうやっていっつもあんたは極端なんだから」

「お姉ちゃんだって、いつもちゃんと言ってくれないじゃない。もっとはっきり言ってよ」

「なによ、わたしはあんたのことを心配して……」

「育てるに決まってる」

 姉の言葉をさえぎるように、妹は静かに、けれども確かな口調でそう言った。

「……え? ……ひとりで?」

 姉は至極意外だと言わんばかりの声色こわいろで聞き返した。

「そんなことできるわけ……」

「やるしかないじゃない」

「…………」

 姉は妹の気迫に押されたように沈黙した。

 ふたたび訪れた長い沈黙のあと、姉はコーヒーをひと口飲んで言った。

「あんたももう大きくなったのね……」

「なにそれ」

「……いいわ。聞いたからね。ひとりで頑張りなさいよ」

 その言葉は厳しいけれど、姉の声はどこかやさしい響きを含んでいるように思えた。

「言われなくてもそのつもりよ」


 わたしは開いていた本から目をそらし、ぼんやりと、かすかに揺れているカーテンを見つめていたが、それが急にゆらりと大きく揺れたかと思うと、街中の花々が織りなす春の交響曲シンフォニーの開幕を告げるあたたかな風がわたしの頬をなで、ふたりの姉妹を包み込みながら、喫茶店の中をやさしく吹き抜けていった。


 吹雪はやみ、彼らが空を仰ぐと、どこまでも続くかのようなたおやかな雪原の先に、紺碧の空を鋭利に切り裂く白い頂きがはっきりと見えた。

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