おれの生霊 :約1500文字 :霊
「……はあ、はあ……うおっ」
夜中。靴を脱ぎ、部屋に入って間もなく、おれは思わず声を上げた。
――誰かいる。
息を殺し、暗闇に目を凝らす。部屋の隅に黒い影が立っていた。おそらく、男だ。じっと見つめていると、そいつもおれの気配に気づいたらしい。ぬらりと振り返った。
カーテンの隙間からかすかに差し込む外灯の薄明かりが、その顔にかかる――その瞬間、おれは息を呑んだ。
「……え、おれ?」
そこに立っていたのは、紛れもなく“おれ”だった。体格も顔立ちも同じ。まるで鏡を置いてあるかのようだ。
「……おまえ、おれだよな」
震えを抑えて問いかけると、相手は首を傾げたともとれる、曖昧に頷いた。
『たぶん……』
「お、おお、喋れるのか……。お前、生霊ってやつか?」
『そうなのかな……』
生霊。信じがたい話だが、他に考えられない。そいつは人間というにはあまりに存在感が希薄だった。輪郭は揺らぎ、心許ない。声はおれよりも低く、乾いており、砂を擦るようだった。怒りも悲しみも感じられず、どこか生温い夜風に吹かれたような、気持ちの悪さだけが残る。
「はっきりしないやつだな……生霊なんだろ?」
『じゃあ、それでいいよ……』
どうも煮え切らない返事だ。もっとも、幽霊の類に明確さを求めるほうが間違っているのかもしれない。きびきびした応答を期待するのもおかしな話だ。
「それで……じゃあ、消えてくれるか?」
『消える……』
生霊はまた首を傾げた。考えているのか、ただ揺れているだけなのか判別できない。しばらく待ってみたが、生霊は何も言わなかった。
「ああそうだ。今すぐ消えてくれ。落ち着かないし、気味が悪い」
『そう……』
「ああ……ありがとな…………いや、おい」
おれは礼を言い、視線を外した。が、ふと振り返ると、生霊はその場に立ち尽くしたまま、微動だにしていなかった。もしかすると、当人も消える方法を知らないのかもしれない。
おれはため息をつき、無視することにした。棚の引き出しを開けて下着を取り出し、服を脱ぎ始める。
「……いや、なんでこっち見てるんだよ」
『ああ……』
「気になるんだよ。さっさと消えてくれ」
『でも、なんかな……』
「消えないなら、せめて壁の方を向いてろよ」
『いやあ……』
はっきりしない奴だ。たしか、生霊というのはその者の強い感情や思念が抜け出し、形を持ったものだとか、そんな話だった気がする。
それなら、何を望んでいるのかはっきり言ってほしいものだ。だが、どうせ聞いたところでまともな答えは返ってこないだろう。
……まあいい。“霊”なら、こうしてやれば消えるだろう。
『うわっ……』
おれはシコり始めた。ああ、盛大にシコり始めた。下着でそっと陰茎を包み、ひたすら手を動かす。
妙な気分だ。生霊とはいえ、他人に見られながらのマスターベーション――いや、他人ではない。自分自身だ。ここはおれによる、おれのためのおれだけのオンステージ。
快感が渦を巻き、マックスまでボルテージを跳ね上げ、一気にフィニッシュへと駆け抜ける。フェティッシュに、フォルティッッシモなシコり――。
「きゃあ!」
突然、部屋の電気がついた。
反射的に背筋がピンと伸び、声のした方へ振り返る。すると、そこには家主――バイトの同僚が、部屋の入口で硬直していた。
「――さん……?」
彼女がかすれた声でおれの名前を口にした。途端、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。興奮と羞恥が弾け、そしてその奥から滲み出たこれは……罪悪感か。
ああ、そうか。あの生霊は、おれの中にあったわずかな罪悪感の具現だったのだ。
「なに、してるの……?」
おれは俯き、ゆっくりと答えた。
「い、生霊です……」




