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"悪役令嬢"シャーロット

ようこそ、メアリー

作者: 小娘

トーン重視。読みづらいと思われます。

さよなら、シャーロット。


 夢の中でそう呟くと、私は決まって汗だくで目を覚ます。悪夢のようなあの頃の記憶は、私に取り憑いて離れない。私はメアリー。人の皮を被った化け物。消えない罪を両手に抱え、生きることしかできない私を、彼らは慈悲深くもそう呼ぶわ。



 何をどう間違えた結果なのか、私は知らないわ。私の世界は歪んでいた。あの頃のことは思い出したくもないけれど、私が狂気に陥っていたことだけが確かよ。いえ、本当は今も、私は霞ばかりを見ている。だったら何だというの?私は生きることしかできないのに。



 床に伏したお兄様の前に立つ、赤いドレスを着た彼女を、私が見たと思ったあの日…誰もが私をその眼差しだけで貫いた。私が霞を見たのは明らかだったわ。あれ以上の恐怖を味わうことは、もうないでしょう。


私は罪人にはならなかった。証拠がなかったの。だから、気の狂った若い娘として、精神病院とかいうところに押し込められることになった。結局、逃げ出してしまったけれど。そして、彼女を…



 彼らは彼女の人生の結末を知らない。あの後に偶然、妙な野盗が捕まって、その人が罪を被ることになってしまったの。だのに、彼らは愉悦のためだけに、私を罪人とみなしている。私は抵抗しない。それが真実であるという、不思議な巡り合わせに、感激すら覚えているわ。



 屋敷に逃げ帰ってすぐ、お父様の計らいで、私はヤッテモタ伯爵と婚約した。彼はあの頃の出来事をまるで知らない。酷い病に罹って、長いこと遠い地で療養していたからだと聞いたわ。知っていようといまいと、私はどちらでも構わないということを、お父様はわかっていないみたい。


伯爵は穏やかな方で、私を大切にしてくれているわ。すっかり身体が良くなったのが嬉しいようで、私をあちこちに連れ出し、私に纏わる誹りなどには聞く耳も持たない。そう、きっと、私は幸福な人間よ。けれど、伯爵の前と、彼らの前で、世界がすっかり二つに分かれてしまう感覚には、どうしても慣れることができない。



 もう一人、私の醜聞をよく知らない人がいた。エライコチャ男爵夫人ルシルよ。隣国からやってきたばかりで、すごく親切な人だわ。調度品には細かすぎるほどこだわりを持っていて、男爵の屋敷は辺り一帯で一番流麗だった。


けれど、彼女も彼らのうちの一人になってしまったわ。私が彼女の大切にしていた花瓶を割ってしまったのが事の始まりだった。そう、私が割ってしまったの。けれど、ルシルが彼らに仲間入りしたのは、正しいことなのでしょう。私は蠟で固めた化け物を心に飼っているから。私は罪人だから。


そして、そのときに気付くべきだった。ルシルとアーダコダ辺境伯が責めるような眼差しを送ってくる、その間に立っていた男爵の、あの奇妙な微笑みに。



 彼の瞳の色を知ったのは、さる侯爵家の舞踏会に招かれた日だった。その会はとても楽しいもので、私は新しく何人かの男性の名を知ることになった。彼らが何者で、私が何者かも、そのときばかりは考えずに済んだわ。


事が起きたのは、私が広間の端で身体を休めようとしたときのことだった。気分が良くなっていた私は、ワインを取り、ぼうっと絢爛な装飾を眺めながら歩いていた。そして私は、そう、あろうことか侯爵夫人のドレスに、そのワインを零してしまったの。夫人の悲鳴は、私には永遠に続くかのように思えたわ。もちろん、私はそれ以上舞踏会にいることができなくなった。私は夫に断りもせず、侯爵家を後にしようとした。


おや、ヤッテモタ伯爵夫人!


広間を出て間もなく、そんな声が聞こえたの。私は思わず足を止めて、すぐに後悔した。誰に何を言われるか、わかったものではなかったから。けれど、そのまま立ち去ることもできなくて、私は覚悟を決めて振り返った。そこに立っていたのは、愉快そうな顔をしたエライコチャ男爵だった。


たった今、伯爵があなたを探しておられましたよ。どちらにゆかれるのです?


何て残酷なことを尋ねる方だろう、と思わずにはいられなかったわ。彼は、目の前で私がワインを零すのを見ていたというのに。


もう、お暇いたしますの…


私の答えに、男爵はいかにも残念そうな顔をした。本当に、まるで先ほどの出来事など覚えていないかのように見えたわ。


では、伯爵はあなたのご退出をご存知ないと?


私が何と言うべきかわからずに口ごもると、男爵は鷹揚に笑った。


何、こちらから伝えておきましょう。気分が優れないようだと、ね。


彼は目配せをした。その微笑が私の喉を痺れさせ、返事をしようにも言葉が出てこない有様だった。私は無意識に一歩後退った。すると、男爵は軽やかに距離を詰めてきて、私の顔を覗き込んだ。


それにしても、本当に顔色がよろしくない…このような様子のご婦人を、お一人で帰すわけには参りませんね。


その清らかな青い瞳に吸い込まれていたせいで、私は彼の言った言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。はっとして、私は押し退けるようにして彼から離れた。私たちは二人きりだった。


どうか、お構いなく!


やっと出てきた言葉は、そんなぶっきらぼうなものだった。ああ、やっぱり立ち止まらなければ。激しい後悔の念が押し寄せたわ。私はそのまま男爵に背を向けた。後ろから、彼のゆったりとした笑い声が聞こえた。


そう急がずとも、伯爵夫人。あなたに渡しておきたいものがあるのです。


今度こそ立ち去ろうとして、私は必死に足を動かしていた。だのに、彼は易々と私の前に回り込んでしまった。そして、彼はおもむろに一枚の紙を懐から取り出したの。それを差し出しながら、彼は言った。


明後日の夜、街灯が灯る頃に。ここに書かれた場所でお待ちしておりますよ。僕は、あなたのすべてを知っています。


すべて…?


ええ。あなたの罪も、あなたの罪でないことも、他の皆が知らないことも、ね。


そう言う男爵の眼差しは、話の内容にそぐわず温和だったわ。これまで、そんな風に私を見つめてくれた人はいなかった。いたのかもしれないけれど、もう忘れてしまっていたものだったの。けれど、彼の放つその不釣り合いがおぞましかった。


私は手の震えを何とか隠して紙を受け取った。指先が彼の手に当たった。その瞬間、私の背中を這うような感覚が走った。すべてを掌握されている…そう直感したの。私は思わず身を引き、それから黙って歩き始めた。背後から、彼は言った。


明後日の夜ですよ。どうぞ、お忘れなく…



 どうして無視してしまわなかったか、私にもわからない。こうも素直に、書かれていた住所を訪れてしまうなんて。それは某大通りにある骨董品店のことだった。街灯はとうに輝いていた。ここに来てもなお、私は迷っていた。けれど同時に、幼かった頃の私を満たしていたような好奇心が、ひたすら私を駆り立てていたの。私は意を決して店に入ることにした。


中には誰もいなかった。私があまりに遅かったから、男爵は痺れを切らして帰ってしまったのかもしれない。あるいは初めから、からかわれていただけなのか。それならば今頃、見張りに立てられていた誰かが、喜び勇んで私の登場を触れ回っていることでしょう。


冷ややかな気持ちがしたわ。私自身にも、彼らにも。私は無心になって店を出ようとした。すると、店の老店主がぶらりと姿を現した。枯れ木のようなその老人は、黙ったまま、店の奥にある扉を指さした。


…あの人が、いらっしゃるの?


私の問いかけは、ひどく馬鹿げた響きを持っていた。自分で赤面しているのがわかったわ。けれど、老店主はしかつめらしく頷き、並んだ棚の陰に姿を消してしまった。いよいよ、遊ばれているのかもしれない。そんなことを思いながら、私はその扉を開けた。


それは階段に繋がっていた。私は板が軋む音を熱心に聞きながら、二階へと上がっていった。また扉があった。この先に、あの人が?私は躊躇った。けれど、彼がそこにいるのなら、私が上がってくる音を聞いていたはずだった。ここに来て、逃げるほうが笑い種だわ。そう思って、私はそっと扉を叩いた。


どうか、応えないで。


そんな祈りも空しく、扉が開いた。男爵がすぐそこに立っている。満悦以外の何ものでもない面持ちで、彼はまっすぐに私を見つめた。


いらっしゃると思いましたよ。


彼は私を部屋に招き入れると、すぐに扉を閉めた。鍵をかけるような音がしたけれど、定かではないわ。私はそのとき、内装に目を奪われていた。あまり広くはない部屋だった。豪奢なソファ、ワインとグラスが置かれた低すぎるティーテーブル。そして、大きくて繊細な装飾の施されたベッド。歩き回る余地はほとんどないも同然だった。それが見事に収まって、奇妙な均整を保っていたの。彼の部屋である以外ありえないと、そう感じたわ。


お気に召しましたか?


男爵は私の心を読んだかのように言った。私は答えなかった。


家内には秘密で借りているのです。僕には、こうした場所で心を休める時間が必要ですから。


彼は一人続け、私を導いてソファに腰掛けた。私は大人しく彼に従った。彼はワインの栓を開け、二人分のグラスに注いだ。そしてグラスを掲げ、私にもそうするように促した。男爵の意図はまるでわからなかったけれど、私はグラスを持つことにした。先日のことを思い出して、嫌な気がしたわ。


この素晴らしい夜に。


彼は言い、一方的に私と乾杯した。静かな部屋に、グラスの当たる甲高い音が響いた。彼は口を閉ざし、ワインの香りと味を楽しんだ。私はじっとして動かなかった。動いて良いのかどうかさえ、自分では判断できなかった。


男爵は時間を掛け、ゆっくりとグラスの中身を飲み干した。私は彼の彫刻のような横顔をただ眺めていた。グラスをテーブルに置くと、彼はようやく私を見つめ返し、微笑むと、私の手からグラスを取ってテーブルに並べた。彼の指先が私の手を撫でた。きっと、わざとよ。私は跳ね上がりそうな身体をどうにか抑えた。彼は私の後ろの背もたれに片手を伸ばした。


熱に浮かされたような顔をしていらっしゃる。


あまりまっすぐにこちらを見つめながら言うものだから、私は途端に面映ゆさを覚えた。早くここから出ないといけないと、本能が訴えかけてくるのを感じたの。


あの、男爵…


ああ!そう呼ぶのはおやめください。ここでは、僕は身分も何もない男なのです。僕はただのアルジャーノン。あなたもただのメアリー。それで構わないでしょう?


私は曖昧に頷いた。それは心地の良い提案だという気がした。そして、またしても抜け出す機会を見送ったのだと悟った。


僕は君をよく知っているよ、メアリー。


男爵もといアルジャーノンは唐突にそう切り出した。一昨日感じたおぞましさがぶり返してきたけれど、私には逃げ出すことができなかった。それでも、ここで屈するわけにはいかない。声が震えるのも、最早厭わなかった。


一体、何を?


君の見たもの。君の狂気の正体。君が彼女にしたこと。


彼女って…?


わかっているくせに。


彼は優しく目を細めた。でたらめに決まっていた。あの日のことを、誰かが知っているはずがないわ。だのに、彼の眼差しは嘘をついているようには見えなくて、まるで私自身が初めから、彼にすべてを知られていることを承知していたかのような、おかしな錯覚に襲われた。また、霞よ。霞のせいに違いない。


君を罵る人たちは、事実をまるで知らない。君を罵らないあの伯爵もまた、事実をまるで知らない。だから君は孤独だ。…違うかな?


何のことか…


良いんだ、僕はわかっているから。もっと言えば、僕には証拠がある。


その言葉は冷たい手になって、私の心臓を掴んだ。抵抗しようという気力がとめどなく零れ落ちていくの。まるで、どこかに穴を開けられてしまったかのように。


そんな風に絶望することはないよ。僕は君の単なる理解者だ。僕も、君とは種類が違うとはいえ、孤独を抱える人間だから。


彼は愚直さを感じさせる不器用な笑みを浮かべた。およそ彼らしからぬ表情だわ。そう思った瞬間、心が激しく揺らいだ。これまでの生活で自分を欺くために作り上げた地盤が、彼の仮面の下にも顔があると気付いたせいで、こうも容易く崩れ始めたの。けれど、それが間違いだとはとても思えなかったわ。それほどに、私と彼の間には共鳴するものがあった。


メアリー、僕は君の孤独を埋めてあげられる。だから、君にも僕の孤独を埋めてほしいんだ。僕は君と子どものように触れ合いたい。この心でもって…


心の地盤が音を立てて崩れ去るのを、私は聞いた気がした。私は彼の眼差しを受け入れた。薔薇の香水の香りを受け入れた。


それは、蝋をすっかり溶かしてしまうような夜だった。



 あれから三日が経ったわ。私は繰り返しあの晩を思い描いているけれど、それは決して快楽のためではない。あの日の愚行がどうして可能だったのか、とても納得ができないの。あのときはどうかしていたわ。彼に安らぎを見出せるはずがない。とんでもないことよ、あんな風に騙されるなんて。


夫はあの夜に私が外出したことすら知らない。サロンに行く日だったから。ルシルも姿を見せたと聞いて、私はますます、男爵のあくどさに対する憤懣と失望感を募らせた。


昼になって、私宛に見事な装丁の本が届いた。頼んだ覚えはなかったけれど、私はひとまずそれを開いた。そして、驚愕したわ。そこには、アルジャーノンと名乗る誰かの手紙が挟まっていたから。


僕の腕の中にいる限り、君は安全だ。来週、同じ日に同じ場所で。 アルジャーノン


ここまで腹立たしい手紙もあるはずがないわ。どうして私があの男に安全を保障されなければいけないのでしょう?そして、彼は私が必ず来ると踏んでいる。愚弄されたことに怒りを覚える日がまた来るとは思わなかったわ。私は手紙を破り捨てた。


それから私は夫の書斎に入り、彼が文句を言わないのを知っていたから、一日をそこで過ごした。彼はとっくに見慣れているはずの私のドレスを褒め、私が聞き飽きるほど聞いている、君ほどまっすぐで素晴らしい女性はいない、という言葉を流れるように口にした。あの夜の行いが思い出されて、私は罪悪感を募らせることになったけれど、もちろん褒められて悪い気はしなかった。


夜、私は夫を熱心に愛そうと努めた。彼は満足したように見えたわ。けれど、私は満たされなかった。何かが決定的に足りていなかったの。それは、例えば、心の繋がりのような…


いいえ、違うわ。そんな馬鹿馬鹿しいことが、あってはいけない。私は罪人だというのに。



 サロンで、エライコチャ男爵夫妻に会った。男爵は普通に見えた。私は何故か、吸った息が上手く吐けないような、そんな感覚を覚えた。ルシルはまだ私を怒っているみたい。そうよ、私が彼女の花瓶を割ってしまったの。怒られて当然で、私は彼女に償わなければいけない。だのに、もうルシルはそれを受け入れてくれないようだわ。


侯爵夫人も顔を出していたけれど、彼女は私を見ると、わかりやすく口元を扇で隠し、近くにいた人と何事か話し始めた。習慣から夫についてきてしまったけれど、そうすべきではなかったのでしょう。私は早くも屋敷に帰りたいと思い始めていた。


帰るべきではないことは、良くわかっているわ。彼らの視線を感じるほどに、私の腹の中は冷えていくから。もう一度、私の中の化け物を閉じ込めてしまわなくてはいけない。霞を見ず、私の現実と彼らの現実を重ねてしまわなくては。それは鏡合わせで、決してお互いに同一ではないけれど、少なくとも本物らしく見える。


少し遠いところに座っている男爵と目が合った。彼は無邪気にも見える微笑を浮かべたけれど、私は気付かなかったふりをした。



 こんなことがまかり通るなんて、夢にも思わなかったわ。街中を歩いていた私のところに、馬車が猛突進してきた。私は危うく轢かれかけたけれど、何とか足を捻挫するだけで済んだ。馬車に乗っていたのは、見間違えるはずもない、侯爵夫人だった。そして、ちらりと見えたあの帽子は、きっとルシルのものだった。ああ、わざとなのね。わざとなのね、ルシル!


本当に巻き込まれていたら、最悪命を落としていたかもしれない。そんなことを平気でするなんて。私が感じたのは、最早ただの冷気ではなく、氷柱が落ちてきて突き刺さるような、痛みと無感覚の共謀だった。これも、かつての行いのせいだというわけだわ。彼らは私を人として見てはくれない。


けれど、あの頃の出来事の業を背負うのが私だけだなんて、とても認めることはできない。私は確かに罪人だけれど、彼らが指さして読み上げる罪というのは、私にはいわれのないことよ。あの花瓶も、あのドレスも…彼らが知りもしないことのために私は苦しんでいるというのに、どうして…どうして私が?


せめて、私自身が犯した本当の罪のことで罰してほしい。そうでないなら、どうかもう…いっそ、夫にすべて打ち明けてしまおうか?いいえ、あの人の愛まで失うことなんて、とても耐えられはしない。


ああ、真に私を罰することができるのが、あの人しかいないなんて!



 街灯が灯る。私は骨董品店になだれ込み、店内を突っ切ってあの扉を目指す。老店主が見ている。階段を駆け上がる。跳ねるような自分の鼓動ばかりが聞こえる。蝋が早くも溶け始めている。扉を叩くのももどかしくて、私は思い切って扉を開け放つ。


彼はベッドに腰掛け、葉巻を燻らせている。私が突然入ってきたものだから、大層驚いたような顔をしている。その表情も、すぐにあの穏やかな笑みに取って代わった。


アルジャーノン!


…待っていたよ、メアリー。ああ、扉を閉めてくれ。


私は彼の言うことに従った。目線を戻すと、彼はまだ葉巻を手放さず、同じ姿勢で私を眺めていた。彼は私が何でできているのかを見定めている。いいえ、知った上で私を眺めているのね!腹の内が、燃え上がるように熱かった。


アルジャーノン…


もう一度そう呼ぶと、彼は葉巻を持ったままゆっくりと立ち上がり、私のほうへと歩いてきた。私の前に立ち、野太くて熱い視線を私に注ぎながら、時間をかけて葉巻を吸う。煙は嫌いだわ。けれど、そんなことはどうでも良かった。彼は腰を折り、ティーテーブルの上の灰皿に葉巻を置いた。


私を罰して頂戴、アルジャーノン。


彼が上体を起こすのを待たずに、私は言った。彼は目をわずかに見開き、ふと俊敏になってまっすぐに立った。


何だって?


私を罰して。あなたの知る私の罪のために、どうか私を懲らしめて。あなたにしかできないの…あなたが与える罰でなくては、私はもう耐えられない!


私は彼の足元に身を投げた。その優美な脚に縋りながら、私は彼の手が髪を撫でるのを感じた。鍵の閉まる音を、今度は確かに耳にした。彼が私の前に跪く。


メアリー、君は安全だよ…


いいえ、いいえ!安全なんて、優しさなんて!お願いよ、アルジャーノン…あなたのその身で私を罰して頂戴!


私は彼の肩に顔を埋めた。穢れた私の涙が彼の服を汚すのを、嬉しく思ったわ。彼は私の頭をしばらくじっと抱き寄せていた。それから彼は私を連れて行った。蝋を熱が溶かし、痛みが砕く。奥底に閉じ込めておいた化け物が、私の輪郭と一致する。彼の腕の中にいる、この私は本当のメアリーよ。霞など、見てはいない。私は私の罪のために罰を受けているの。これ以上に喜ばしいことはない。私は歓喜する。


長いようでいて、一瞬で溶けてしまったその夜、私は彼の鼓動を聞いていた。背中に置かれた手を感じていた。この時間が、過ぎないでほしかった。


また会える、アルジャーノン?


もちろん。また同じ日に…


駄目よ!日が七回昇る間に、私は乾き切って死んでしまうわ。私が昨日どんな狂おしい夜を過ごしたか、あなたは知らないのでしょう。


…それなら、明日にしよう。


明日?明日は、夫が…


無理にでも来てくれるね、メアリー?君は僕の罰を受けなきゃならないんだ。


彼は微笑んだ。私は逆らってはいけないことを思い出した。



 翌日、夫が何か尋ねてくるのにも答えず、私はアルジャーノンの元に向かったわ。私は幸福だった。彼の胸に飛び込むとき、その手を感じるとき、然るべき罰を受けていると知った。


その夜、彼は微笑み、二日後に会おうと言った。夫の隣で眠る、絶望的な夜を超えて、私は再び彼に会いに行った。


彼はいなかった。


鍵が閉まっていた。中から物音はしなかった。私は一晩中待った。彼はいなかった!


次の晩もいなかった。彼は私を罰する役割を忘れてしまったのかもしれない。いいえ、そんなはずはないわ。きっと、ルシルの仕業よ。彼女が彼を拘束しているに違いない。



 次の日、私はサロンに行く伯爵についていった。アルジャーノンに会えるかもしれない。


彼がいた。私に見向きもしなかった。


私は連日、彼が顔を出しそうな場所を回った。私の噂には尾鰭がついているみたい。けれど、彼らの視線など何ともない。ただ、彼の眼差しが足りないの。


また彼女の悪夢を見た。



 アーダコダ辺境伯から舞踏会の招待状が届いた。辺境伯とアルジャーノンは仲が良い。彼は来るはずだわ。


舞踏会にしては、静かな会場だった。私は伯爵から離れ、あの人を探して歩き始めた。彼らは私を見ている。私を真に懲らしめることなどできないくせに!


お馬鹿さんの侯爵夫人と泥棒猫のルシルがいる。アルジャーノンが来ている可能性が高まった。


彼の姿が見当たらない。彼がいなければ、私は彼らに罰せられないといけないのに。そんな罰は受けたくない。彼でなくてはいけない。彼は私を見捨てたのかしら?そんなはずはない、そんなはずは…


私は足を止めて、よく会場を見回した。息が苦しい。彼らが見ている。


そこに、辺境伯がやってきた。彼女のような顔つきだと思った。私は霞を見ているのかもしれない。彼は慇懃無礼な挨拶をしてきた。横目で見たら、彼女だった。霞よ、霞だわ…


死んでしまえ。


その低い囁きは、雷撃のように私を打った。


死んでしまえ。辛いか?苦しいか?彼女の味わった絶望に比べたら、楽なほうだ。すべて、あなたが悪いのだから。


この人は何を言っているの?どうして私を罰しようとするの?身体が芯から冷えていく。私は辺境伯を見つめていた。彼女が私の名を囁いている!


そのとき、私はアルジャーノンが辺境伯の後ろに立っているのに気が付いた。いつからそこにいたのでしょう?ああ、けれど、おかしい。彼が満足げに見ているのは私ではなく辺境伯だった。目を上げて私を見た彼は、温度のない眼差しをしていた。それは、私が新しく築き上げた地盤を奪い去った。


逃げなくては。彼らが私を笑っている。


そして、私は納得した。霞の彼女が囁いたのは、完全に逃げ出す方法なのだと。

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