プロローグ 赤い盾の亡霊
霧が谷間を這うように流れ、村を包み込む夜だった。
羊飼いの少年が丘を駆け抜け、怯えた羊たちが混乱の中で逃げ惑う。
「や、やめて……! あれは……!」
トム・エルドの小さな声が、濃霧の中で震えた。
視線の先に、赤く光る盾が浮かぶ。
動く鎧足音はあるのに、人影はない。
ガチャ……ガチャ……
金属の擦れる音が森の静寂を切り裂く。
少年の心臓は跳ね、全身が凍りつく。
「誓い……果たさねばならぬ……」
その声は、少年にだけ届いたわけではない。
森を抜け、谷を越え、遠くの街道沿いの家々にも、誰もいないはずの場所から低く響いた。
赤い盾の亡霊。
それは、百年前に死んだはずの騎士団の魂が形を成したものだった。
翌朝、霧が晴れると、丘には踏み荒らされた跡と、鋭い刃の痕が残っていた。
村の薬師リゼ・ファルンは眉をひそめ、静かにつぶやく。
「ただの幽霊騒ぎではない……何か、魂の力が関わっている……」
村長ヘルガ・グレイは頑なに首を振った。
「城との関わりは断つべきじゃ……過去のことは忘れるのじゃ」
だが、赤い盾の亡霊は村人の視界の端で、霧の中に揺らめき続ける。
誰も触れられぬ誓いの象徴。その存在は、恐怖と不安を村に刻みつけた。
同じ日の夕刻、ロンドンに近い都市の片隅で、アイゼンハワードのもとに一通の封書が届く。
封を切ると、中には短い依頼文が記されていた。
「山岳地帯グレイデン村。赤い盾の亡霊の目撃情報あり。村人失踪。調査・鎮圧を要請。」
アイゼンは、ワインレッドのマントを整えながら、静かに息をつく。
「……ふん、魂縛か。やれやれ、また古い因縁が顔を出すようだな」
そして、孫のカズヤに向かって微笑む。
「カズヤ、久しぶりに事件の匂いがするぞ……行くか」
霧深い谷に、再び歩みを進める二人の影が重なる。
赤い盾の亡霊の百年前の誓いが、今、目覚めたのだ。




