第1話 クレムリンの影
モスクワの夜は氷のように冷たく、クレムリンの赤い尖塔を月光が淡く照らしていた。
その影を縫うように、一人の男が歩を進める。
アイゼンハワード・ベルデ・シュトラウス、471歳の魔族サターン。
ワインレッドのマントが風に揺れ、胸ポケットの保湿クリームがちらりと光る。
「ふむ……寒さで肌がカサつくとは、年寄り魔族には辛い夜だ」
彼の目の前には、クレムリンの最新警備システム。
赤外線センサーが廊下いっぱいに光の糸を張り巡らせ、触れた瞬間に警報が鳴り響く。
おっさんは一呼吸置き、ゆっくりと腰を落とした。
そして、まるで舞踏会のステップのように、赤外線の間をすり抜けていく。
片足をぎりぎりで持ち上げ、赤い光の糸の下をくぐる。
腕を横に広げ、壁際で体を傾けて光線をかわす。
「ふふ……このくらいの狭間、若い頃なら余裕だったのだが……膝が悲鳴を上げておる」
思わず小声でつぶやく魔族おっさん。
光の網を抜けるたび、床の振動や微妙なセンサー感度に注意を払う。
赤外線の間隔は一定ではなく、時折、振動で光線が乱れる。
アイゼンハワードはそのタイミングを見極め、体を細く折り、まるで影のように進む。
次の廊下では、光線が天井から吊るされており、手足の角度を絶妙に変えなければならない。
短杖を軽く床に添えて支点にし、回転しながら腕をねじ込み、頭をかすめる。
息を止める瞬間もあり、赤い瞳が微かに光る。
「……ふう、これでまた一つ、老魔族の威厳を保ったな」
しかし、油断は禁物。次の瞬間、奥の部屋から微かな異変音。
アイゼンハワードは赤外線の間をさらに滑るように進む。
背中が壁に接触し、わずかにマントが光線に触れそうになるが、瞬間的に魔力で光を逸らす。
小さな火花が宙に散るが、警報は鳴らなかった。
その刹那、背後で轟音。
ドォォォンッ!!!
空気が震え、床と壁が波打つ。
ガラガラガラガラ――ッ!
石材が砕け落ち、天井の瓦が地面に叩きつけられる。
バリバリッ!
赤外線センサーの配線が焼け焦げ、火花を散らす。
轟音とともに、廊下全体が熱風で揺れ、魔族おっさんのマントが乱れ、煙と粉塵が渦を巻く。
アイゼンハワードは壁に叩きつけられ、転がりながら咳き込む。
「……な、なんだと……!? この爆発は、のわたしの仕業じゃないぞ!」
だが、その瞬間すでに、“魔族おっさん=クレムリン爆破犯”という濡れ衣のシナリオが、静かに動き始めていた。




