【最終話】 亡霊は名を借りて現れる。
冬のロンドン、曇天の午後。
古びた暖炉のある屋敷の一室で、アイゼンハワードは紅茶をゆっくりとカップに注いだ。
カップの中で琥珀色の液体が小さく揺れる。
テーブルの向こうでは、テレビが淡々とニュースを報じていた。
《山中の廃墟ホテルで発見された惨劇。複数の犠牲者、そして復讐に駆られた一人の男の最期。事件の全容はいまだ謎に包まれております。》
画面には雪に埋もれたホテルの外観と、現場を調べる警察隊の姿が映し出されていた。
映像に添えられたテロップは、「復讐か、怨念か」と大きく躍っている。
アイゼンハワードは一瞥すると、興味を失ったように目を伏せた。
紅茶を一口含み、窓の外に漂う薄い光を眺める。
「……復讐の理は、いつだって人の心を焼き尽くす。
裁きの刃は、結局、振るった者自身をも断ち切る……」
彼の呟きは、湯気とともに静かに消えていった。
カズヤは椅子に座り込み、じっとテレビを見ていた。
無邪気さを残したその瞳に映るのは、正義か、悲劇か、それとも。
「アルおじさん……ぼくらは、あのホテルで何を見たんだろう」
問いかけは宙に浮いたまま、答えは与えられなかった。
アイゼンハワードはカップを置き、少年の方へと静かに目を向ける。
「それを知るために、我々はこれからも歩むのだ。
過去の影に挑む、今を生きる者としてな」
外の空はなお灰色だが、どこか春の兆しを含んでいた。
紅茶の香りとともに、二人を包む静寂は、次なる旅路を予感させていた。
画面には雪に埋もれたホテル、そして血の跡を覆い隠すように吹き荒れる吹雪が映し出されていた。
キャスターの言葉が続く。
《少女セリーヌの遺体はいまだ発見されていません》
アイゼンハワードは静かにカップを置いた。
「……遺された声は、まだ沈黙してはおらんのだな」
隣でカズヤが顔を上げる。
「おじさん……あの夜、最後に聞こえた声。あれは……ルネのものじゃなかった気がする」
カズヤの言葉に、老紳士の表情がわずかに硬くなる。
その時。
窓の外で、風が軋むように鳴いた。
雪混じりの風音の奥から、か細い少女の声が混じったように聞こえる。
「……助けて」
カズヤははっとして立ち上がり、外を見つめた。
だがそこには、曇天と降りしきる雪しかなかった。
暖炉の炎が一瞬、ぱちりと弾けた。
その赤い火花の向こうに、かつての少女の影が微かに揺れているように見えた。
「……本当に、終わったんでしょうか」
カズヤの問いに、アイゼンハワードは一瞬だけ目を閉じ、長く静かな吐息を漏らした。
「いや、終わりなどない。真実を閉ざせば、亡霊は必ず姿を変えて現れる」
その時。電話が鳴った。
深夜にしては異様に甲高い音。
アイゼンハワードが受話器を取ると、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。
《こちらはジュネーヴ警察……新しい失踪事件が発生した。被害者の名は……セリーヌ・ドゥヴァル》
アイゼンハワードの瞳が鋭く光る。
受話器からは、確かに「セリーヌ」という名前が告げられた。
しかし、それは十数年前に消えたはずの少女の名。
「……ありえん。だが亡霊は名を借りて現れる」
窓の外、吹雪の闇に揺れる影がふっと笑ったように見えた。
新たな惨劇の幕開けを告げるかのように。




