第9話 終楽章のティンパニ
沈黙のなか、ゆっくりと黒服の警察官が舞台袖から現れた。
重たく響く靴音は、まるで終楽章のティンパニのようだった。
「桐ヶ谷ハルさん」
係官の低い声が、舞台上に告げる。
「殺人及び偽証の容疑で、身柄を確保させていただきます」
誰もが息を呑んだまま、動けなかった。
ハルは立ち尽くし、微かに笑みを浮かべた。
「……そうね。ようやく、この“曲”も終わりね」
係官が近づき、ハルの手首に静かに手錠がかけられる。
銀の輪が閉じられる音が、妙に乾いた音を立てて響いた。
カズヤが、思わず声を漏らす。
「ハルさん……」
その声に、ハルは一度だけ振り返った。
目は赤く潤み、だがその奥には諦念でも憎しみでもない、ある種の安堵があった。
「ありがとう、カズヤ君。きっとあなたなら、“アマリリスの音”を、どこかへ繋いでくれると思う」
そしてもう一度、舞台に目を向ける。
あの日、自分がアマリリスと並んで立ったステージ。
かつて“二重奏”を奏でたはずの、その光景。
ハルは、最後に静かに一礼した。
観客はいなかった。だが、拍手のような風がホールを撫でた。
警察に連れられて、ゆっくりと舞台を去る背中。
その歩みは、どこかしら音楽家の退場のようだった。
■■■
秋の終わり、初霜が降りた日。
裁判所前には、報道陣と傍聴希望者が列を成していた。
被告人席に立つ桐ヶ谷ハルは、かつての晴れ舞台で見せた微笑を封じ、ただ静かに前を見据えていた。
罪状は、殺人。
被害者は、世界的ヴァイオリニスト。アマリリス・エルフェルト。
かつて舞台を共にし、心を通わせたパートナー。
被害者遺族の証言
証言台に立ったのは、アマリリスの弟だった。
彼は震える声で語った。
「姉は、音楽を愛していました。誰よりも純粋に、誰よりも激しく。
……あなたは、姉の音を理解してくれた、数少ない人だった。
だからこそ、なぜ」
彼の言葉は途中で途切れた。
傍聴席の一部から、嗚咽が漏れた。
世論の反応
事件は、「音楽界の悲劇」として大々的に報じられた。
SNSでは賛否が激しく分かれた。
「なぜ、ハルはこんなことを?」
「アマリリスの死は世界の損失」
「心の闇を抱えた天才たちの末路」
「動機が曖昧すぎる。真相は隠されてるのでは?」
中には、ハルを擁護する声もあった。
「彼女は壊れていたんだと思う。孤独に」
「音楽が罪を生んだのだとすれば、それもまた人の悲しみだ」
けれど、どれほど議論が交わされても、アマリリスは帰らなかった。
ハルの最終陳述
裁判終盤。
判事の静止を受けて、ハルは口を開いた。
「わたしは、間違いを犯しました。
音楽を、感情を、人を、そして自分を。
彼女が舞台で放つ音は、あまりにも遠かった。
届かないと知ったとき、
その響きを……壊してしまいたいと思ってしまったんです」
彼女の声には、悔恨でも悲嘆でもない、乾いた寂しさがあった。
まるで、もう自分という“旋律”を閉じてしまったように。
判決
裁判は結審した。
結果は有罪。
桐ケ谷ハルには、懲役19年の判決が言い渡された。
法廷に拍手も、怒号もなかった。
ただ、冷えた風が傍聴席を抜け、外の灰色の空へと吹き抜けていった。
そして、静寂へ
アマリリスの葬儀では、彼女が最後に演奏した楽曲《遠雷》が流された。彼女がいないはずのヴァイオリン・ソロパートが、空白のまま続くとき参列者の中には、音楽がこんなにも“沈黙”で語るものだと、初めて気づく者もいた。
かつて同じ音を奏でた二人は、もう交わることはない。
だが、その“断絶”すらまた、ひとつの音楽だったのかもしれない。




