第10話 君はまだ、そこにいるか
冥府層第五階層《凍結の霊廟》。
陽光は差さず、空気は音すらも凍てつかせる。
広大な氷のドームに包まれたその空間は、かつて死者の魂を安置するために築かれた、虚構の霊廟。今では誰も寄りつかない、沈黙の記憶空間。
アルは、厚手のコートに身を包み、足元の氷を踏み締めながら、奥へと進んでいた。
彼の耳元には、かつての戦友ヘレナ・クライシスが遺した旧式の通信装置《DEADLINK》が接続されている。
微弱なノイズとともに、彼女の声が呼びかけてきた。
「……あなたなら。必ずここへ来ると思っていたわ。アル」
通信ではない。これは記録だ。
いや、それ以上の彼女の意識を部分的に保った、記憶保存体。かつて“スカーレット”と呼ばれた女の、断章の亡霊。
氷の祭壇に設置された円形ホログラムが点滅し、ヘレナの姿がゆらめく。
それは生前の姿よりも、どこか淡く、冷たい。
「冥界コード”アンデット レコード”の発動理由を訊きに来たのね?遅かったじゃない、アル」
「……答える気があるなら、聞こう。ヴェールの結成、君の狙い。そのすべてを」
ヘレナは微かに笑った。それは懐かしく、どこか悲しげだった。
「“ヴェール”は、誰かにとっての復讐組織なんかじゃない。私たちは、“死者のための世界”を作ろうとしたの」
通信装置が拾ったその言葉に、アルの眉がわずかに動く。
「死者の……ための?」
ヘレナの映像が、後方に浮かぶ無数のホログラムを喚起する。
そこには無名の兵士、志半ばで倒れた諜報員、都市の瓦礫に埋もれた民間人たちの記録映像かつての“同胞”たちの顔が浮かぶ。
「彼らは、報われなかった。生者は死者を忘れ、都合よく利用する。
ならば、私たちが死者のための理想郷を作ればいい。生者の世界の終わりと引き換えに」
氷が軋む音がした。
アルの足元に、無数の霊子が漂いはじめる。微弱な、魂の残響。
「冥界コード発動は……死者の領域を、現世に繋ぐための手段だったのか」
「そう。冥界コードは、世界そのものを“分岐”させる鍵。
生と死の境界を壊し、“彼ら”が存在していい世界を創る
それが、私たち《ヴェール》の目的だった」
アルは、拳を強く握る。
「……だが、それは結局、生者を踏みにじることになる。君は“正義”を失ったんだ、ヘレナ」
「違う。私は、正義を手放したの。あの戦場で、あの日、あなたが“命令”のために彼らを見捨てたときから……私は、“生者の倫理”を信じるのをやめた」
アルの目が、鋭くなる。
「だから君は、“選んだ”んだな。復讐じゃなく、創造を死者のための世界を」
ヘレナの映像が静かに頷く。
「死者はもう、許される場所を持たない。だから私は、その場所を創る。
次に来るときは……アル、あなたも選んで」
ホログラムが急速に揺らぎはじめる。
「この霊廟の最奥に来なさい。あなたがまだ“生者”であるうちに。私の“本体”は、そこで待ってる」
通信は、ぷつりと途切れた。
氷の空間に再び、沈黙が訪れる。
アルは一歩、また一歩と奥へ進む。
霊廟の中央、ヘレナの“記憶保存体”が眠る聖域へ。
戦いの予感が、氷の空気を震わせる。
ヘレナとの運命の再会が、幕を開ける。




