第9話 裏切り者たちの交差点
第四階層《境界駅ステュクス》
それは、死者でも、生者でもない者が降りる駅だった。
《冥府層》の深部に存在する、鉄と灰に包まれた無人駅。
そこでは、行き場を失った諜報員、魂を失いかけた裏切り者たちが、
朽ち果てた列車の車両に身を寄せ、静かに息をひそめていた。
境界駅ステュクス。
黄泉と現世を繋ぐ、文字通りの「交差点」。
黒く煤けた構内に降り立ったアル・アイゼンハワードは、
ふと誰かの視線を感じ、足を止める。
「ようこそ、亡霊たちの終着点へ。……まだ、俺を“同志”と呼んでくれるか?」
現れた男は、シルクハットにステッキ、
その眼差しには一欠けらの羞恥もなかった。
ハロルド卿。
かつてMI6でアルの直属の上官だった男。
唯一、心を許した男だった。
アルの声は低かった。
「……なぜ、ハロルド。なぜ《ヴェール》にMI6の暗号表を渡した」
ハロルドは肩をすくめる。
「なぜ? アル、それは逆だよ。なぜMI6が、ヘレナ・クライシスを“捨て駒”にしたのか。それを知った時、私はもう組織に忠誠なんて持てなかった」
その名を聞いた瞬間、アルの瞳が鋭く細められる。
「……ヘレナを?」
ハロルドは懐から一枚の古びた手紙を取り出した。
「彼女をスカウトしたのは私だ。君より先に、私が“見つけた”んだよ。
異界と現世の狭間を渡る、魔族の血筋を持つ“最良のスパイ”をな」
それは、MI6がまだ魔術部門を秘密裏に運用していた頃の話。
ヘレナは実験対象にされ、感情を奪われかけていた。
「……私は、彼女を“自由”にするため、裏切った。
《ヴェール》なら、あの子に“選ばせる未来”を与えられると思った」
アルは、拳を握り締めた。
喉の奥が熱くなる。
だが、それを怒りと呼べるかどうかは、もう分からなかった。
「それで、何を得た」
「何も。名誉も、地位も、仲間も捨てた。
だが……彼女は仮面をつけても、まだ“生きている”。それが、私のすべての報いだ」
しん、と駅の構内に冷たい風が吹き抜けた。
闇の中へとハロルドは歩き出す。
「私の行き先は“彼岸”だ。君は“こちら側”を守るべきだ、アル。
だが、あの子がもし、君の前に立ちはだかるなら」
最後に、彼は振り返る。
「そのときは、ためらうな。あの子はもう、“君の娘”じゃない」
残されたのは、動かない時計と朽ちたベンチ。
アルは一人、ステュクス駅のホームに立ち尽くしていた。
やがて、遠くから汽笛。
次の列車が来る。
アルは、上着の内ポケットにしまっていた写真を取り出した。
そこには、まだ笑っていた頃のヘレナと、あどけない少女が並んでいた。
(……たとえ、あの子が“兵器”に育てられたとしても……俺だけは、彼女を“人間”として見る)
そう心に刻み、アルは再び歩き出す。




