第3話 墓漁りのカナン
冷たい霧が、足元から這い上がるようにしてアルの体を包む。
その瞬間、世界が裏返った。重力も時間も、匂いも色も、すべてが歪んだ。
MI6異能特務課の転送装置〈リムゲート〉を通り抜けたアル・アイゼンハワードは、冥界層へと踏み込んだのだった。
「……ここが《マドラス》か。噂以上の地獄だな」
頭上には空のない空。無数の逆さまの建造物が宙に浮かび、下には倒錯した街路が続く。
歪みきった時空の中、腐食した石畳の路地からは、絶えず“亡者の声”が滲み出していた。
ここは冥界層第一階層《歪曲の街マドラス》。
生と死の狭間に浮かぶ、最も境界が脆弱な街。
「音」が記憶を揺さぶる街だ。何もかもが“知っているような気がする”地獄。
アルは耳を覆いたくなる衝動をこらえながら、MI6から支給された暗号化デバイスを起動する。信号源は《黄昏の地下宮殿》と呼ばれる、マドラスの最深部。そこから“冥界コード”の断片が漏れ出していた。
だがその道中、彼を待っていたのは懐かしい“亡霊”だった。
「やれやれ……まさか、こんな場所で再会するとはね、アルおじ」
背後から投げかけられた艶やかな声。
振り返ると、そこにはかつての同僚《墓漁りのカナン》が立っていた。
しかし、彼女の姿はもはや人間ではなかった。
頬はやつれ、眼球の片方は虚ろに発光していた。衣装は墓泥棒を思わせる黒ずんだコートに身を包み、肩には魂の風を喰らう黒い鳥を乗せている。
「カナン……生きてたのか?」
「フフ、それはどうかな。私はもう“情報の器”だよ。魂の一部を代償にして、ここで《音の記憶》を売って生きてるのさ」
アルは警戒を崩さぬまま、カナンの目を見つめた。だが次の瞬間、突如として耳に飛び込んできたのは——
「やめなさい、アル! そこは罠よ!」
それは、かつて任務中にヘレナが叫んだ声だった。
しかしそれは現実の声ではなく、マドラスに満ちる“音の記憶”だった。
記憶が蘇る。心臓が跳ねる。
かつて任務中、爆破を前にして咄嗟にアルをかばったヘレナ。
血塗れになって倒れた彼女の姿。
その直後。暗号指令の破損、任務の失敗。そして彼女の消息不明。
「……なぜだ。なぜ今、あの音が……」
「ここは《音》がすべてを暴く街だからね。忘れたことも、捨てたことも、音になって揺り戻す。お前は今、境界にいる。人としての記憶が、断ち切れるかどうかの瀬戸際だ」
カナンはそう言いながら、懐から“音源水晶”を取り出す。
そこには、まだ誰も知らぬ記録が刻まれていた。
「ヘレナは……最初から裏切っていたのか?」
アルの問いに、カナンは意味深な微笑みを浮かべた。
「彼女が選んだのは“境界の外側”。人でも神でもない存在として、冥界に在る《ヴェール》の幹部になる道だった……」
直後、周囲の空気が一変する。建物の影から複数の黒衣の影が現れた。
「……来たか、《ヴェール》」
“冥界コード”の封印を解いた闇の諜報組織。
その構成員たちは、ノイズを伴いながら実体化し、アルとカナンを包囲する。
「目撃者を消せ。彼もまた禁断に触れた」
一人の構成員がそう呟くと、手から黒い蒼炎が放たれた。
アイゼンハワードがくるりと交わす。
「アル。冥界で死ぬと、魂ごと消えるよ。二度と生き返れないし生まれ変われない。」
「望むところだ。俺は彼女の真意を確かめる。たとえ冥府の底でもな!」
次の瞬間、アイゼンハワードは魔剣を構える。
記憶と現実が交錯する街、マドラス。
魂を賭けた戦いが、今、始まる。




