第2話 冥界層第一階層・歪曲の街マドラス
視界がねじれていた。
空が下に、地が上に。建物は倒れ、崩れながらも宙に浮いている。時計塔が逆さに回り、壁に描かれた人々の影が現実の住人のように歩き出す。
そこは《冥界層第一階層・歪曲の街マドラス》。
かつて地上世界に存在した“都市の記憶”が、死者たちの断片的な想念により再構成された死後の街。物理法則も倫理も、すべてが捻じれ、再定義された場所。
「……死者の観光ってわけか」
アル=アイゼンハワードは、革のコートの裾を翻し、虚空に開いた黒い裂け目から足を踏み入れた。右手には最新鋭の霊式銃。左手には、MI6異能特務課が解析した《冥界コード》の断章が収められた端末。
背後では、裂け目がゆっくりと閉じていく。もう戻る道はない。
「この空気……生者を拒む瘴気か。懐かしいな、戦場の匂いだ」
マドラスの街は、言葉では表現しきれない“ズレ”を孕んでいた。道は直進しているはずなのに同じ場所に戻ってくる。時計の針は逆行し、通行人の姿をした霊は、全員が“誰かの記憶に存在する人物”のようだった。
アルの無線機から、微かに音声が漏れる。
≪……接続、安定。MI6観測チームより報告。マドラスにおいて“死者の音声”の発生を確認。音に触れることで精神干渉を受ける危険あり。≫
「つまり、この街じゃ“耳”が最大の弱点ってことか」
アルはコートの内ポケットから、古びたイヤーカフを取り出して装着する。これは、かつてヘレナと共に任務に赴いたときに、彼女が自作してくれた簡易的な精神防護具だった。
(ヘレナ)
名前を思い出した瞬間、足元の路地裏から“音”が湧き上がる。
≪アル、聞こえる? ……あなたなら絶対、守れると思ってた≫
それは、任務中に録音されたはずのない“彼女の声”。音は空間を越え、意識に直接囁きかけてくる。
「……冗談じゃない」
アルは即座にオルフェウスを構え、音の発生源へと引き金を引いた。
だが、何もなかった。撃ったはずの弾は、霧のように拡散し、空気の中へ消えていく。
すると。目の前の壁に描かれていた人物の影が動き出す。
まるで映写機のフィルムが突然再生されたように、そこには“過去のアルとヘレナ”の姿が、ゆがんだ音声と共に浮かび上がった。
「この街……過去を再生して見せる気か。悪趣味な歓迎だな」
映像のヘレナは、あの日と同じ微笑みを浮かべ、アルの肩に寄り添っていた。だが、彼女の笑顔の奥に、今の《ヴェール》幹部スカーレットとしての片鱗が見える気がして、アルは思わず視線を背ける。
マドラスは記憶の墓標であり、死者の夢であり、生者の罪を嗤う鏡だった。
そしてこの街の奥には、“あの男”がいる。
墓漁りのカナン。死者を喰らい、記憶を売り買いする亡霊の商人。かつては同じMI6の現地協力者だったが、今は冥界をさまよう“情報屋”だ。
彼のもとに、アルは向かう。
なぜなら《黄昏の地下宮殿》へ通じる冥界アクセスパスを握っているのは、カナンただひとりだからだ。
「ヘレナ。もし本当に、お前がこれを仕組んだっていうなら……俺が止めてみせる。どんな地獄の底にいようともな」
冥界の迷宮に、今、一人の男が足を踏み入れた。
闇が、音が、記憶が、彼を試す。
そしてその先には、真実と裏切りと、再会が待っている。




